第9話
声に覚えがある。
勇夫は一瞬、ぞくりとしたが、すぐにその感情は消え失せてしまった。
うれしさがこみあげてくる。
(いかんいかん、こんなことでは。魔物に魅入られてしまうぞ)
平静を保とうと、わざと知らんふりを決め込む。
「ねえねえ、どうしてあっち向いてしまうの。わたし……、さびしくなっちゃう)
勇夫はさっと釣竿をあげた。
ルアーのからみを手元でなおす。
「おにいさん、じゃないな。おれはれっきとした大人、中年だね。まあ、なんていうか、おじさんだな」
「へえ、でもそうは見えないんわ。なんか若そう」
「そんなふうにいい大人をからかうものじゃない」
「ええっとそれとね、奥さん、いる?」痛いところを突かれ、勇夫はぎくりとした。形勢がどんどん悪くなる。
勇夫は立ち上がり、釣竿を振り、ボトンと落ちるルアー音を確かめてから、元の場所に腰かけた。
「それがなあ……」
「いないんでしょ?うそついたって、わたし、わかるんだから」
「そうかあ、実はね、真面目に働いたりしてるわりにはね、ううん、なんていったらいいんだろう。それとこれとは違うみたいで……」
「恋愛べたね、要するに」
勇夫はとっさにそばにあったちっぽけな石を拾い、少女がいない方に向け、ポンと放り投げた。
「あら、こわい。おにいさん、怒ったでしょ?」
「いいや、それはない。はてさて、いつものとおりウキがぴくりともしないし、そろそろ帰るとするか」
「ええっ、もう?おうちへ行くんだ」
勇夫のいる場所からは、少女の姿が見えない。
大きな岩がふたつばかり立ちふさがっている。
そのわりに、気持ちが通じ合える会話のできる不思議さに、勇夫は改めて少女との因縁の深さを感じた。
勇夫は少女の姿を認めたかった。岩と岩のあいだの隙間に注意をはらいだした。
左から右へ、何かがすみやかに動いたように思い、目を凝らした。
「お、お、にいさん。ちょっと変態ね」
すぐそばで、少女の声が聞こえた。
「へんたい呼ばわり、か」
勇夫はかがんだ姿勢で、わきを向いた。
彼女は夕陽を背にしてたたずんでいる。
まぶしくて良く見えないが、背かっこうから察すると十歳くらい。うす絹色の上着をはおり、空色のパンツをはいている。
すらりとした体つきが、彼女を、実年齢よりおとなびて見せていた。
勇夫の目線は、彼女の下半身にむかう。
(本当は、この子は人魚。脚がふたつあるわけがない)
前々からの疑問が、そんな断定した考えとなって、勇夫の心の奥底から、ぬっと頭をもたげる。
かっと目をあけ、じろじろ見たい衝動に突きうごかされるが、少女の手前、そんなことはできそうもない。
「ほらほらおにいさん。やっぱり、あなたってね。わたしをじろじろ見てるよね。ねっねっ、あれなんだ。ほんと自分でもそう思うでしょ」
勇夫はイエスと言わない。若干まぶたをぱちぱちしただけで、
「さてと、どんな美少女さんが目の前にいるんだろ」
と小声で言いながら立ち上がった。
「前のほうにいると思ってたのに、突然目の前にでてくるんだもの」
「のぞき見してたんでしょ、まったく」
「そんなことないよ。ちょっとね、この岩の間に虫がいたものだからね。魚のえさにならないかなんてね、考えてたんだ」
「苦しい言いわけ。ほら、よく見てくださいね。脚がちゃんとふたつ付いてるの」
勇夫はぎくりとした。
少女が一歩踏み出すと、彼女の姿があらわになった。
黒々とした豊かな髪がはらりと風になびく。
それらを右手でかきあげるしぐさがつやっぽい。
勇夫のたましいを、まるまる吸い込んでしまいそうなほど澄んだ瞳は、深い海を思わせる。衣服の下に息づくからだは、うろこでおおわれているのだろう。
勇夫は好き勝手な想像にかられる。
このままでいると、意識をなくしてしまう。そんな恐怖をまじかに感じ、勇夫はそれをふり払うかのように、ゴホゴホとせき込んだ。
「おにいさんって、やっぱり……」
「やっぱり、何だっていうんだ」
勇夫はむきになった。
「だってだって、あなたのおめめがどっちを向いているんかなあって思って」
勇夫はあっと声をあげた。じぶんの視線が少女の胸のあたりをさまよっているのに気づき、うろたえた。
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