第8話

 懐中電灯の淡い光にたよりながら、勇夫は、防波堤に向かって、砂地をゆっくり歩いていく。


 勇夫のあゆみをのろのろしたものにしているのは、砂に足をとられたり、釣り道具や大型のチヌの重みのせいばかりじゃなさそうだ。


 夕暮れどきの海で少女がまるで魚になったように自在に泳ぐ。

 現実にはありえない景色である。


 勇夫は五十代。会社勤めが長い。常日頃なんだって合理的にものごとを処理しようとする勇夫にとって、不可思議きわまりない。


 どこにでもいそうな女の子にみえるが、そんな子ほど一皮むけば、あっと驚く変身をとげてしまうのは、不思議の国のアリスの例を待たない。

 昼と夜の境目にある海辺では、なにが起きてもおかしくはないのだ。


 彼女に好意を寄せ始めているじぶんに気づき、どうやら魔物の術中にはまっているらしいとうすうす感じる。だから、なんとか、その術からのがれようとするが、どうしていいかわからない。パソコンやスマホの扱い方は心得たもので

あるけれども。


 時間がたてばたつほど、勇夫の彼女に対する思いが深まり、彼女の身の上に心を配るまでになってしまった。


 勇夫はふと立ちどまり、苦笑いをうかべた。

 今、父がわきにいて、おれの思いを知ったら、彼はおれに向かってどんな言葉を投げかけるだろう。


 「この大ばか野郎」

 とののしられるに違いない。

 防波堤までの道のりがずいぶん長く感じられる。

 巨大化した魔物が背後からそっと勇夫に近づき、その鯨のごとき大きな口をあけると、勇夫の体を、荷物ごと、ごくりとのみこんでしまう気がした。


 懐中電灯の明かりが階段下をほのかに照らし出したとき、勇夫は、突然首を横に振った。

 (大型のチヌを釣ったことは事実だが、他のことは現実じゃない。すべてまぼろしだったんだ。おれは夢を見ていたんだ、きっとそうだ)

 勇夫はそう思い込もうとした。


 ここが夢と現実との境目、と、きっちり踏ん切りをつけないと、母親の待つ家に、日々の暮らしの中に戻れない気がした。


 案の定、勇夫の母は、玄関先で彼を待っていた。

 彼女はなにも言わない。

 小柄なからだの彼女は飛び上がり、かぼそい、よくしなる右腕を横にふるった。

 勇夫のほほがぴしゃりと鳴った。

 「こんな夜更けまで海辺にいて、よおく帰っておいでだない」


 ふいに彼女は笑顔になり、彼に寄り添った。

 まるで子どもをあやすように、勇夫の左手をとり、土間に招き入れた。


 「母ちゃん、ほら、これ、でかいだろ」

 勇夫が得意げな顔つきでえものを箱から取り出すのを、彼女は微笑んで見つめた。

 「おうおう、すごいぞ。こんなに大きいチヌなんて、今までにお目にかかったことがないぞ。父さんを負かしたんだな、えらい、えらい」


 柳の下にどじょう、ということもある。怖いもの見たさも手伝って、勇夫は、次の週末も、同じポイントに出かけた。

 先だってと同時刻になった。まったく引きがなくても、勇夫はあせらなかった。


 陽が西にぐんと傾き、朱色の光を放ちはじめると、勇夫の口もとがゆるんだ。

 再び、あの少女に会えるかもしれない。

 そんな思いが、麻薬のように、勇夫の脳髄をしびれさせた。


 パチャパチャ、パチャ。

 最寄りの浜辺を子どもが裸足でかけてくるような音がした。

 (ひょっとしたら、また、あの女の子が現れたのかしれない)

 勇夫は張りつめた気持ちをまなざしにあらわさないように心がけながら、波にもてあそばれるウキを見つめた。


 「おにいさん、やっぱり、また来てくれたんだ。わたし、うれしい」

 少女の声が海鳥の騒ぐ音にまじった。

 

 

 

 

 

 

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