第5話

 じきに日没だ。勇夫はいらいらした。煙草を一本口にくわえたが火はつけない。


 (ルアーをのみこんだやつは大物らしい。そいつがなんとかして逃げのびようと海中深くもぐりこんだ。おかげで釣り糸が岩か何かにひっかかっている。こうなったらもうおしまい。こんな状態で何ができる?今、おれがおしゃべりしてる相手は一体誰なんだ。中学生くらいの女の子みたいだが、そんな子、いま時分、こんな海の中にいるわきゃない。ひょっとして魔物?きっとそうだ)

 勇夫はできる限り物事を合理的に考えようとする。


 半ばあきらめているが、逃がした魚は大きい。悔しくてたまらなくなる。

 潮が満ち、凪いで来たらしい。とぷんとぷんと波が音を立てはじめた。

 (それにしても、なんだか暗くならないな。

いつもなら、鼻をつままれても相手が見えな

い時刻なんだが……)


 勇夫は原因を調べようと辺りをうかがった。

 波打ち際の崖の上の松の木のてっぺんに、大きな橙色の風船がぽっかり浮かんでいる。

 (ちぇ、なんだ、お月さまじゃねえか)


 「おにいちゃん、ねえ、おにいちゃん、そこにいる?」

 再び、女の子の声がした。

 気がおかしくなりそうだ、と勇夫は眼をつむり、頭をかかえた。


 「もうやめてくれ。おれをたぶらかすのは。化けものにのみこまれるのがおれの運命なら、四の五の言わず、早く、早く、海中に引きずり込んでくれ」

 勇夫はその場にしゃがみこみ、わめいた。両のこぶしでどんどんと砂浜を打ちつけるが、こぶしは砂にまみれるばかりだ。


 「おにいちゃん、そんなに興奮しないで。わたし、おにいちゃんのこと、前からよく知ってるの。釣りしてるの、ずうっと見てきたし。あなたのお父さんのこともね。わたしの親から聞いて知ってるの」

 女の子の声がまじかに聞こえる。


 まるで彼女が浜辺までやってきて、勇夫にささやいているよう。だが、勇夫はまともに彼女を見ようとしない。


 「そんなことあるわけないじゃないか。いったい、あんたは何者だっていうんだ。魔物なら魔物らしく、早く、おれをのみこんでくれ」

 「魔物なんかじゃないわ。大好きなおにいちゃんなんだもの。あと少しだけ待ってね、そしたら……」


 ドッブンッ。

 誰かが海に飛び込む音がした。どれくらい時間が経っただろう。

 「ほらほら、おにいちゃん。わたしよ。また来たわよ。釣り竿ね。上げてちょうだい。きっとかかってると思うわ」


 勇夫は顔をあげ、海面を見つめた。

 「ああ、そんなにいうんなら」

 声の主が怪物でもなんでもかまわない。釣果があるとないとは大違いだった。


 右手で竿をあげると、釣り糸がゆるんでいる。

 (外れたんだ、あんなにひっかかっていたのに、くそっ)

 勇夫がリールを巻き始めると、コンと手ごたえがあった。

 魚が食いついていたらしい。沖に逃げようとして、ゆるんでいた糸がピンピン張った。


 釣れたのはチヌ。見たこともない大型だった。

 「ねっ、言ったとおりでしょ。おにいちゃん、良かったね。亡くなったお父さんにも自慢できるわ」

 「ああ、まあ。何もかもきみのおかげだ。誰

だかわかんないけど」

 勇夫は、声のする方に向かって、頭を下げた。

  

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