第4話
勇夫は不思議に思い、懐中電灯で声のした方を照らした。
(こんな夕刻に、それも海の中に女の子がいるはずがない。その子がふたつ岩の上にいるにしても、奇異なことはかわりない。ひょっとして、おれは海の魔物にとりつかれてしまったのかも……)
海が、まるでクジラの何倍もある、巨大な黒々とした怪物のように思える。ちぎれた海藻や雑多なごみがその体にくっついたり離れたりしている。そんなまぼろしに、しばらくの間、勇夫の頭は支配された。
ザブンッという音が、ぼんやりしていた勇夫を、現実にひき戻した。
ふたつ岩まで行くにしても、小舟が入る。だが、こんな時刻に、船を借してくれる漁民はいまい。
「女の子が海で漂っているらしいのですが」
そんなことを、大の男が真顔で言えるはずがなかった。
勇夫はちっと舌打ちしてから、その場にすわりこんだ。さっき聞こえた声は、おれの空耳だったんだと、自分にいい聞かせた。
ふいに、暗いおふくろの顔が勇夫の脳裏に浮かんだ。
(チヌなら一匹、キスなら、ニ三匹。キャリアの長いおれのことだ。そのくらいの魚を持って帰れなくてどうするんだ)
勇夫はそうこころの中で言った。
投げ釣りの準備をてきぱきとすませる。ぐにゅぐにゅ動く、ゴカイを針にさすのは、いつだって容易ではない。慣れないうちは、勇夫は頭としっぽをよく間違えてしまった。
勇夫はえいやっと声をかけ竿をふった。ドボンという音を、耳にとらえるのがずいぶんと遅かった。
竿の先がちょんちょん動きはじめた。
先の磯釣りでは、もうこんりんざい釣りなどやめてしまおうと思ったくらいだったが、胸がわくわくしだした。
竿をにぎる手が汗ばむ。
ルアーが海中にぐぐっと引き込まれたのだろう。竿の先が大きくしなった瞬間、勇夫は両手でさっと竿をあげた。
だが、釣り糸が伸びきったままだ。
(こいつめ、よっぽどでかいのか、それとも、ルアーが岩角に引っ掛かってしまったのだろうか)
勇夫は竿を左に振ったり右に振ったり、なんとかして釣り糸をたぐろうとした。
すっかり闇に近くなった浜辺を、竿を持ったままで行ったり来たりしていたが、釣り糸がゆるむ気配がない。
しょうがない、糸を切るしかないかと、勇夫は思い、道具入れからはさみを取り出すと、糸に刃を当てた。
「ちょっと待ってください」
再び、少女の声が聞こえた。さっきより大きかった。
今度は声の主がぐんと身近にいるような気がする。背中をつめたいものが走るのをこらえ、勇夫は懐中電灯のスイッチを入れた。
浜から五、六メートル離れた岩かげ。ちらりと髪の長い女の子の顔を見た気がして、勇夫は眼をみはった。
「だれ?こんな夕方に泳いでいるのは?すぐにもっと暗くなっちゃうよ。早く浜に上がって来なさい」
思わず勇夫は声をかけた。そうしないと自分は魔物にくいつかれてしまう気がした。
「だいじょうぶなんです。あたし、泳ぎは
とっても得意なんです」
現代っ子のような口ぶりに、勇夫は今、自分がどこにいるか、それさえ忘れてしまうほどだった。
「なに言ってるの。泳ぎが得意といったって、魚じゃあるまいし、こんなに水が冷たいんだよ。風邪でもひいたら大変、とにかく上がりなさい」
まるっきり得体のしれない相手である。それなのに、勇夫はまるで道で行き会った少女に話しかけているようである。その気さくさがおかしく勇夫はかすかに口もとをゆるめた。
「わたしが……」
少女は途中で口を閉ざした。
「わたしがって?何がなの」
勇夫の問いに返事がない。
浜辺に打ち寄せる波の音だけが聞こえた。
海鳥だろうか。突然、ぎゃっと鳴いた。
勇夫は驚きのあまり、ぶるっと体をふるわせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます