第3話
ザブンッ。
大波が身近な岩を打つ音で、勇夫は我にかえった。
波しぶきが勇夫の身の丈より高く上がり、バケツ一杯ほどの水を頭からかぶってしまった。勇夫の日焼けした顔面を、海水がしたたる。
(はあ、あぶなかった。もう少し大きけりゃ、海に落ちてしまうところだった)
勇夫は河童の袖で顔をぬぐった。鼻や口に入りこんだ海水がやわらかい粘膜を刺激する。ひいひい言って泣きたくなるほどつらいが、海中に引きずり込まれるよりはずっとましである。
山登りをするように腰のあたりをロープでゆわえ、最寄りの大岩に結び付けたら、もっと安心感できるだろうが、そんなことはできない。
第一自由に動きまわれない。どんな時でもゴム長靴の両足を、タコの吸盤のように考え、岩肌に吸い付いているべし、だ。
あまりの緊張に、ときどき両足の存在が希薄になってしまうことがある。
そんなとき、勇夫は、おれは絶対、海に落ちないぞ。おふくろがいるんだから、と思い、歯をくいしばった。
ひたひたと潮が満ちてきて、今まで見えていた岩があっけなく海中に没してしまったので、勇夫は大あわてで、釣り道具を片づけ始めた。
釣り竿をしまい、もろもろの細かい道具を、てきぱきと大箱に入れる。
釣果ゼロでもわれに利なしとみれば、潔くたたむべし。
父の残した言葉を今なお胸に刻んだままだ。
(そうだ。こうなりゃ浜辺で投げ釣りだ。足もとは砂地だし、少々暗くなっても釣っていられる)
勇夫はそう考えをあらためた。
とにかくこの磯から浜辺に下りなきゃ、と勇夫は暗くなるばかりの足もとに気を付けながら、歩きはじめた。
勇夫のからだがあちこち岩角にぶつかる。まるで迷路に入ったようだと思い、不安になった。
太陽は沈んだはずなのに、空の一角がぼうっと明るい。
行燈の火のような、薄ぼんやりした明かりが、勇夫の足もとを照らし出した。
(おかしいな、今夜は闇夜のはずなんだが)
疑念が浮かんだが、勇夫は確かめようとはしない。
たそがれどきは魔の時間と、釣り仲間の誰かに聞いたことがある。
もちろん、そんな話は半分おとぎ草子のようなものと、うのみにしていないが、暗い岩かげにいろんな魔物がひそんでいてもおかしくない。
勇夫が顔をあげたとたん、どんな災難がふりかかって来るやもしれない。
ひと足ふた足と、足もとの岩が硬いかどうかさぐるような気持で歩き、やっとのことで磯のはじに着いた。
うかうかと魔物の腹でも踏もうものなら、よく来たとばかりに巨大アンコウのような口にのみこまれてしまう。
磯のはじに着くとすぐに、勇夫は自分の背中に両手をまわした。
それから彼はしゃがみこむと、足もとの岩を手でさぐった。
(よし、奇異なところは何も見あたらないぞ)
とびおり場所は、すぐに見つかった。砂浜から勇夫の足もとの岩まで、ほぼ二メートル。勇夫は荷物を先に砂浜に下ろすと、えいやっと声をかけてとび降りた。
途中でからだの軸がかたむき、着地で足首をいためた。グキッといやな音がひびいた。
柔道をやってれば、受け身を少しでも習ってればと悔やんだが、遅すぎた。
次第に患部がずきずきしはじめ、腫れてくる。
(しまった。魔物は足下の砂地にいたのか?)
鼻で笑っているであろう、魔物に醜態をさらしたくない。勇夫はそう思い、我慢して歩きだそうとした。
だが、いかんせん、痛みがひどい。その場にすわりこんでしまった。ふうふういいながら大箱を開け、救急箱をとりだし、患部にシップ薬をはった。
ひやっとして、気持ちいい。
「ねえ、おにいさん、だいじょうぶなの?」
突然、波の音に女の子の声がまじった。
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