#1.あじさいと老人
走り去る少年の後ろ姿を見送って、どこかうらやましそうな紫陽花。
彼女も休日におざしき犬の散歩をしてみたい、などと思っているのだろうか。
「犬はいやされます……」
いつのまにか、彼女の眉間の陰りが消失していた。
「犬にうまれていたなら、アイツの傍らにいられたろうか……」
少々飛躍するが、実はこんなワケがあった。
アイツが動物好きだったのだ。
アイツの心を奪った女性は、子犬を飼っていた。
ヨークシャーなんとかいう、生きた宝石と呼ばれた犬種らしい。
アイツは彼女と出逢って、ヨークシャーなんとかとたわむれ、数瞬後に結婚を決めたと言っていた。
紫陽花だって知っているのだ。
自分は動物ではない。だからシンジをいやせない。
犬でも猫でも、金魚でもなく、ましてやハムスターでもない。
アイツが自由でいたいというから、ペットを飼うという話にもならなかった。
『おまえならわかってくれると思ってた』!?
とんだ買いかぶり。とんだカンチガイもいいところだ。
紫陽花はペットショップのショーケースの子犬に何度恋しては夢破れてきたことか。
アイツはそれを知らない。
紫陽花の本心を知らないまま、他の女性のところへ行ってしまった。
あるいはヨークシャーなんとかは関係なかったかもしれない。
シンジが選んだその女性は、ヤンキーではなかった。
そこにある種の負い目を感じつつも、考える。
アイツが動物にそこまで愛着を持つと知っていれば、てっとり早くペットを飼えばよかった、と。
彼女の心を後悔がおそった。
どうしても考えてしまう。
いつまでたっても宙ぶらりんだった結婚の二文字。
そして消え去った望み。
紫陽花はただ、シンジと同じ場所で、同じものを見たかったのに。
そのために同棲までしていたのに、アイツは言ったのだ。
『おまえは友達だろ? ルームシェアは同棲じゃないだろ』
ノックダウン。
紫陽花は、それ以上、何も言えずに、シンジと棲んでいたアパートを出てきた。
アイツはこれからどうするのだろう。
二人で借りたあのアパートに、ヨークシャーなんとかの彼女と棲むのだろうか?
紫陽花はどこへ行けばいいのだろうか。
無目的にあちこち走ったせいで、ガソリンが切れた。
ガソリンスタンドまで押していくことになるが、この辺りのことをよく知らない。
がっかりした。
自分にも、このシチュエーションにも。
地図を見ようにも、スマホを置いてきてしまった。
あの浜辺に……。
漠然とした未来への不安と、弱気だけが残っていた。
自分は何をしているのか、それすらもあやふやだ。
よっぽどショックだったとみえる。
しばらく行くと、名も知らぬ男性が話しかけてきた。
鮮やかなブルーの花束を抱いている。
黒を基調とした、清潔そうな上下に、黒い帽子をかぶっていた。
紫陽花の行く手にたたずんでいる。
話しかけられなければ、まず彼女の方が道をたずねていただろう。
その男性は言う。
「どうしたのかな、おじょうさん」
紫陽花はもう大人だったけれど、彼から見たら、孫に近い年頃だろう。
「きれいな花ですね」
「さしあげますじゃ」
突然の申し出に慌てた紫陽花。
それよりガソリンを入れたい。
「悪いですから」
「あなたに似合うと思うのですじゃ」
「花束みたいな花ですね」
よく見ると、小さな花弁がたくさんあつまっている。
「庭に一輪咲いたので、誰かに見せたくてつんできましたのじゃ。アジサイは嫌いですかな」
「え……アジサイ、というのですか?」
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