あじさいの約束
れなれな(水木レナ)
プロローグ~海に捨てたもの~
雨がふってきた。
ぐっと力こめて引き結んでいた口角をゆるませ、紫陽花は笑った。
もう、決心はついているのかもしれない。
彼女は胸からさげた、鈍く光るナックルを見つめ、ついていた鎖ごと遠く波間へと投げすてた。
今は引き潮で、砂浜につき立てた彼女のスマホが完没するまで見とどけるつもり。
スマホが光った。
紫陽花の方から折れるつもりはない。
彼女も言い過ぎたかもしれないが、先に手をあげたのはアイツの方だ。
念のために屈んで確認すると、キリトからで、いたくがっかりさせられた。
しかし、性格に難があるとはいえ、人嫌いの紫陽花の唯一の親友だ。
液晶画面を指先で操作し、タップすると……。
「あらあん、いたの?」
という、迷惑電話だった。
「どちらさまですか?」
しぶしぶ返すと、
「チューリップとカメが好き」
わけのわからない返事が聞こえてきた。
「切りますよ」
「……シンジの彼女、泣いてたって」
「紫陽花は関係ないですから」
「あらん、誤報だったのね」
「迷惑ですから」
通話を切ると、再びスマホを砂につき立てる。一服したら立ち去るつもりだった。
「味がしないものですね……」
吸殻をしまって、バイクまで歩いてゆく。紅いライダースーツが雨を弾いていた。
「よっと!」
紫陽花はフルフェイスのヘルメットをかぶると、そのままバイクをとばした。
行くあての見つからないままに。
(なぜ紫陽花じゃない。どうしてあの
悲しく問いかけても
紙きれ一つで若さも自由もうばわれるのはごめんだとシンジが言ったから。
未来の展望を、彼と同じものを見ることで埋めようと思った。
どんな暮らしでもいい、人生の一部を共にできれば、と――。
あきらめるには惜しい男だった。
ほれる女は数知れず。
その中で、出逢いから人生の大半を共に過ごしたのは自分以外にないと、紫陽花は自負していた。
一体、何がシンジを変えてしまったのだろう。
それでも後悔はしていない。
紫陽花が紫陽花であればこそ、シンジに出逢えた。
言いかえれば、彼女が彼女じゃなかったら、ありえないことだったのだ。
紫陽花は軽く体がバウンドするのを感じ、ハンドルをきった。
そのとたん、チワワがまろびこけてきて、あやうくひきそうになる。
紫陽花にはなんの犬種かわからないが、耳をねかせてブルブルふるえているのを見て、かわいいと思った。
「ごめんなさい。おどろかせちゃうつもりは、なかったのよ」
犬の首には、首輪とリードがちゃんとついていたが、飼い主はどこだろう、と思っていると、パタパタと軽い足音がきこえた。
純朴な少年が走ってきて、子犬を抱き上げた。
「無事でよかった……タロ!」
「タロ……?」
紫陽花はヘルメットごしに見る。少年は子犬を抱きしめながら、怯えた。
紫陽花はかまわず少年に尋ねた。
「それって……もしかしてタロとジロの、タロ?」
小学校の教科書で習った覚えがあり、紫陽花は感動した。
南極だか北極だかで生き延びたイヌの名前だ。
少年はぎくしゃくとうなずいた。
そこで紫陽花は、ヘルメットをとり、長いミツアミを背中に流した。
「いい名前をもらったじゃない!」
縮こまっていた少年は、その笑顔にほっとしたように緊張をといた。
「すみませんでした」
「ううん。でも危なかった。飼い主さんがしっかりしないと。大切なワンちゃんでしょ」
「ごめんなさい」
「ワンちゃんに謝って。リードは決してはなさないようにね」
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