殺隣人考察

@yoda1027

第1話

 隣人について考えてみた。

 僕の隣の席の女子の名前は奥寺照子。幼いころから共に過ごしてきた最初の友達だ。いわゆる幼馴染と呼ばれるものに近い。昔から活発な子だった……気がする。休みの日に休みことが億劫で自分の好奇心に従って行動していた気もする。昔から人に好かれる子だった……気がする。アイドル的存在とは言わないが、誰とでも仲良くできる子だ。裏表がなくマイペースな性格は周りから疎まれることがないらしい。その上彼女は優しかった。本当に人の気持ちに寄り添える子だ。親身な気持ちは人によって受け取り方は少しずつ違うかもしれないが、少なからず安らぎのような感情を彼女から感じていたに違いない。だから、彼女の周りには自然に友達の輪ができる。きっとその友達の輪の中にいる一人が僕なのだろう。

 そう、友人だ。

 その友人を今日、僕は殺そうとしている。殺さなければならないと胸の中で誓っていた。

 なぜかと聞かれれば答えるのは非常に難しい。殺害を決意した僕ですら彼女を殺そうとしている理由を頭では理解できていないのだから。

 だが、この決意は揺るがない。その決心の理由をあげるとするなら恐怖と違和感だ。この二つから解放されたいと気持ちが僕の中にあった。

 簡潔に述べればそれが動機だ。なんて自分勝手な動機だろう。最初は誰かのために彼女を犠牲にしなければならないという他人を盾にした言い訳ばかりをしていたが、今は違う。僕は自分のために彼女を殺す。そもそもこの世に誰かのために起きる殺人などある訳がない。自分が他人を不幸にすることで救った大切な誰かの幸せや笑顔を見たい。それも結局自分がその笑顔を見たいからだ。少なくとも僕はそう割り切ることで彼女と向き合おうとしていた。

 向き合う?

 その単語は重い石のように僕の胸の奥底まで勢いよく落ちてきた。

 彼女と向き合う。彼女について考えてみたのは思い返してみれば初めてかもしれない。

 自分の額から汗が流れていることに気づいた。ひんやりとしたその汗は僕をこの教室に引き戻してくれた。そのおかげで僕の後ろの席から鋭い視線を送っている同級生に気づくことが出来た。僕が彼に目を向けても、彼は持ち前のくせ毛を手でいじるだけで視線を逸らそうとしない。

 彼の名前は神原一樹。彼と出会わなければ、僕は奥寺照子を殺害しようなんて考えもしなかっただろうし、奥寺照子と向き合おうともしなかった。

 彼は僕にこれとない機会を与えてくれた。

 教室の窓から見える青空は悲しいほど澄んでいる。濁りきった自分がひどくちっぽけに感じられる。澄んだ空から落ちてくる日差しが教室に滑り込んでいる。

 奥寺との思い出はどれ一つ具体的に思い出せない。だが、僕の中の彼女はいつもこの教室に降り注いでいるような優しい光に包まれていた。

 僕は彼女に声をかけようと決意した。でも、僕の心の中にはまだ迷いがあった。思い出は今も、濁ったままだったから。


 通学には電車を使っていた。本当は自転車通学にしたかったのだが、家と学校の距離を考えるとやはり電車通学するしかなかった。

 僕が通っている高校は都内の上に、利用者数の多い駅の最寄りに位置している。加えて僕の家の近くの駅もそれなりに栄えているので、家から学校までいつも電車の中は箱詰め状態だった。吐き気を催すほど朝の通勤ラッシュは嫌いだったが、電車の扉に押し付けられながら見る外の景色は僕の心に安らぎを与えてくれた。ビルばかりの景色だったが、目視できるような生き物がうじゃうじゃしていない外の景色は僕の精神安定剤だった。

 初めて神原に出会った日もいつものように電車特有の暑苦しさを感じながら、外の景色を眺めていたような気がする。梅雨も明け、夏の訪れを感じさせる外の景色はやはり僕の心に安らぎを与えてくれる。特別なことが起こった日はその日の現象全てが何かの意味を持っているのではないかと錯覚してしまうことがある。本当に錯覚なのか、それとも、何気ないことに対して無意識に意味づけをしているのか、どちらか分からない。

 とにかくその日は朝からついていなかった。駅のホームでちょっとした騒動に巻き込まれたのだ。大群の波に流され、高校の最寄りの駅のかなり古臭いホームに投げ出された。いつも通りに学校に向かうなら駅の両端に設置された階段を昇ればよかった。

 だが、その日はホームに響いた怒号に足を止めてしまった。周りの皆もそうだ。足を止めて、その怒号の主に視線を向ける。

 だが、一瞬だった。皆、見て見ぬふりして立ち去っていく。いや、見て見ぬふりでなく、単純に興味がないのだろう。もしくは自分にできることはないと考えて他人任せにしているのかもしれない。かく言う僕もすぐに学校に向かおうとした。ただ関わり合いになって、面倒くさいことに巻き込まれたくなかった。だが、その怒号は僕の足を手のように掴んで離さなかった。

「目が見えねぇなら、目が見えないなりの配慮をしろよ!俺たち健常者に迷惑をかけるんじゃねぇよ!」

 顔を紅潮させた中年サラリーマン風の男はそんなことを叫んでいた気がする。自分の革鞄を叩きつけ唸るように罵詈雑言をぶつけるサラリーマンを目の前にして怯えているワンピースの若い女性。そして、ホームに転がっている白い杖。これだけで大体状況は分かった。このご時世でも平然と差別を公言する人はいる。この怒鳴り散らしているサラリーマンほど露骨ではないが、意識的に差別をしている人間を何人も見たことがある。

 くだらない。そういう人間たちを見るたびに思う。そんなちっぽけな差で人を見下して安心しようとするな。何も知らないくせに。

今思ってみれば失礼な話だ。僕は別にあの盲目の女性の気持ちなんか分かってなんかいなかった。ちっぽけな差と思われた方の気持ちを考えたことなどなかった。

胸の奥をじりじりと焼くような怒りを抱えたまま僕はワンピースの女性が落とした杖を手渡した。なるべく、優しい笑顔を作って。

 サラリーマン風の男はこめかみをピクピクさせて僕を睨みつけていた。自分のご高説を遮られたのがよほど気に食わなかったらしい。その男の体は貧乏ゆすりのように震えている。今にも飛び掛かろうとしている獣のようだ。

 だがその獣の震えはすぐに止まった。というより、急に暗闇に閉じ込められた子供のような目できょろきょろと辺りを見渡し始めた。僕らはいつの間にか白い目の集団に囲まれていた。

 じっとこちらを見ているわけではないが、蔑むようなその視線にサラリーマン風の男は耐えられなかったのだろう。ホームに唾を吐いてそのまま人の群れの中に消えていった。

それだけの話だ。盲目の女性にお礼を言われ、気にしないでくださいと僕は答えた。取り巻きの気の優しいおばちゃんや気のいいおじさんに褒められた。僕はその目の見えない女性を救ったわけではないのに。ただ落とした杖を拾ってあげただけだ。確かに声をかけただけでもかなりの勇気を振り絞った。だが、数週間で忘れてしまうような話だろう。

 そうなるはずだった。この日の放課後、あの死体を見つけなければ、神原一樹と出会うことがなければ…… 


出会うと言っても以前から神原のことは知っていた。少なくとも僕の方は。神原が僕のことを知っていたのかは分からない。

神原一樹はただのクラスメイトの僕から見てもかなり変わった生徒だった。

 まず、まともに授業を受けているところを見たことがない。一応、学校には毎日来ている。授業時間も自分の席にちゃんと座っている。だが、果たしてそれが普通の学生生活と呼べるのだろうか?少なくとも、授業時間に全く関係ない本を読み漁り、自分の趣味を周りに全く気を遣わず、教室にまで持ち込んでくる男子高校生を僕は普通だと思わない。クラスの皆も同じように感じていた。裏で彼が変人と呼ばれていることも知っている。

 神原のほうも周りの陰口など全く気にせず、いつも自分の趣味に没頭していた。その態度がさらにクラスメイトの冷ややかな態度に拍車をかけていたのかもしれない。

 僕が神原について知っているのは、その趣味がSF中心だったことくらいだ。


 一日の始まりはいつもとは少し違っていたが、そのあとの学校生活はいつも通り過ぎ去っていった。いつものように呆然と授業を受けて、無駄な会話を友人たちと繰り広げた。朝の出来事も自慢話にならない程度の軽い調子で話した。そして、学校が終わり、いつも通り電車で帰るつもりだった。だが、今日は駅から少し離れた古書店で本を読んでいくことにした。特に理由がなくても寄り道をすることくらい誰にだってあるだろう。

 駅の周りはそれなりに栄えているが、少し離れれば閑散とした住宅街が広がっている。僕はこの街並みに愛着を持っていた。山奥に住んでいる祖父母の家に訪れた時のような安心感がある。

 だが、その安心感も道端に転がっている子供の死体のせいで全て台無しになった。全く動揺しなかったわけではない。誰もいないほどの真ん中でうずくまっている子供の死体を見つけた時は叫びをこらえることで必死だった。病院に連絡しようと震える手でポケットからケータイを取り出そうとした。

 水晶のように澄んだ目が僕をじっと見つめていた。心奪われるような瞳がケータイを取り出そうとしている僕の手を止めた。そして、頭の中に冷静を与えた。

 この子供は病院には連れていけない。必ずとは言えないが、未熟な子供を連れて行ったら騒動になる可能性があることは否定できない。外傷は全くない。恐らく毒物でも口にしたのだろう。子供ゆえの知識不足が災いしたようだ。もうすでに死んでいる。かと言ってここに置き去りにするのはもっとまずい。

 結局選んだ道は近くの公園に子供を埋葬することだった。この公園にはほとんど人がいない。さらにちょうどいい具合の木陰もある。

 ここに埋葬しよう。

 心の中にその考えがすでに浮かんでいた。気持ちが固まった時には自分でも驚くほど落ち着いていた。

 だが、油断していたとでも言えばいいのだろうか。ちょっといい気分になっていた。自分は何かいいことをしていると勘違いしてしまった。その自惚れた気分が神原の気配を見逃してしまった。

「随分優しいな。宇田君は」

「神原……君?なんでこんなところに?」

 それが僕と神原と交わした初めての会話だった。

 公園の端にある木陰にいる僕に背後から話しかけてきた神原の顔は気味が悪いほど笑顔に満ちていた。その笑顔は屈託のないものだった。

「そんなこと俺にはできないな。なんせ心が狭いから」

 何も言えなかった。僕は端から見れば死体を埋めている犯罪者だ。このまま警察に駆け込まれたら言い訳しようがない。

「神原君……こんなところで何をしている?」

 そんな月並みな言葉しか出てこなかった。恐怖と緊張で顔が歪んでいることが自分でも分かる。惨めになるほど感情を表に出している僕に神原はまた笑いかけた。

「もっと深く掘った方がいいんじゃないか?」

「え?」

「ちょっと穴が小さいんじゃないかって言っているんだ」

 教室で雑談するようなその砕けた雰囲気が僕に安心感を与えた。なぜ彼がこんなに落ち着いているのか、なぜこんな笑顔をぶら下げることが出来るのか。その理由は分からなかった。

 考えることが億劫だった僕はその安心に縋ることにした。行き過ぎた動揺は脳の働きを鈍らせる。鈍った脳は単純な作業しかしてくれない。

 夕日が雲を照らし始めた。もう一度子供を埋め直した僕らは家に帰るために最寄りの駅を目指した。神原は相変わらずの笑顔で僕を見つめている。一言も発さずに僕らは駅までの寂しい道を歩いた。神原の方は気まずいというよりも試験管を凝視している科学者のような真剣な眼差しを向けている。その視線がさらに僕の口をつぐんだ。

「じゃあまた明日な」

 今日いつも楽しみに見ているドラマの最終回なんだと神原は笑いながら駅のホームに消えた。その背中が見えなくなるまで僕は彼を眺めた。

 僕は一人になった。一人になると自然と自分に沈んでしまう。あれこれと考えてしまう。やっと頭が動き始めた。

 だが、電車の中では考えはまとまらず、結局一つの仮説にたどり着いたのは家のベッドの上だった。

 神原があの子供を殺したのか?最初に浮かんだ考えがそれだった。彼の冷静さを説明するにはそれが一番妥当だと思った。

 だとしたら、あいつは異常者だ。ベッドの上で僕は自分に言い聞かせた。

 もしあいつが犯人ならなぜ僕に何も聞かない?僕がなぜあんなことをしたのか。なぜ知りたいと思わない?その理由を知っている人間はこの世で僕だけなのに。

 僕だけじゃない?あいつも同じなのか?次に浮かんだ考えがそれだった。よく考えれば地球がパンパンになるほど詰まった人の中で自分だけが特別なんてことはないんじゃないのか?

 とにかく本人に聞かないことには何も始まらない。明日学校で何を聞こうかと考えながら僕は眠りについた。

 悪い夢でも見そうだ。


 最悪の寝起きの状態で顔を洗い、食パンを口に放り込んだ僕はいつもいり一時間以上早く家を出た。一刻も早く神原に会いたかったから。二人きりで話したかったから。

神原が登校してくる姿を見た人は誰もいない。誰よりも早く登校してくる神原はいつも一人で読書に明け暮れていた。

 今日も当然誰よりも早く学校に来ている。その予想はあっけなく裏切られた。熱い朝日が差し込む教室で一人、僕は神原を待った。だが、どれだけ待っても神原は現れなかった。やがて、ぞろぞろと教室に入って来るクラスメイト達。喧騒が広がる校内が僕の心に焦燥を与えた。

 なぜ、あいつが学校に来ないのか。その理由を考えると背筋に蛇が這っているような不快感を覚えた。その不快感を抱えたまま僕は自分の席に礼儀正しく着席し、そのまま朝礼を聞く羽目になった。

「どうしたの?そんな蒼い顔して?」

 話しかけてきたのは隣の席の女子、奥寺照子。本当に心配そうな顔して聞いてくるからつい言葉に詰まってしまう。彼女は幼いころからいつも一緒にいた幼馴染……のかな?

「なんでもないよ。ちょっと寝起きが悪かったから。気分が優れなくて」

「あんまり無理しない方がいいよ。気分が悪いなら早退するか、保健室で休んだ方がいいと思うよ。保健室なら私もついていくよ」

「本当に心配いらないよ。別に体調自体は問題ないから。それよりも……」

 僕は朝礼の時間になっても空いている席に視線を向けた。空いている席は三つ。僕の真後ろの神原の席も当然空席になっていた。

「神原君が学校を休むなんて珍しいね。守君と本田君は相変わらずだけど」

 右前方の二つの席はいつも通りぽっかりと空いていた。あいつらは遅刻早退の常習犯。学校のような堅苦しい場所は彼らのような生物にとっては苦痛なのだろう。

「学校さぼってまでやることなんてあるのかな?」

 奥寺が知らないふりをするのは見ていて痛々しい。僕はよく知っている。というより良く見えている。あの札付きの不良である井上守、本田俊平とクラスの中でも高い評判と人望を得ている奥寺の関係を。そんなこと誰かに話したところで信じてもらえる訳もない。話したところで意味もない。だから知らないふりを通してきた。

「やっぱり調子悪いから家に帰るよ」

 僕は席を立ち、奥寺の透き通るような瞳を見た。まるで水晶のようだ。

「分かった。先生には私から伝えておくから。気を付けて帰ってね」

 少し目を細めた奥寺は今日の授業の内容、宇田君の分もまとめておくから安心して、と教室を出ていく僕に軽く手を振って送り出してくれた。

 優しい子だ。下駄箱まで続く廊下を歩く間につい顔から笑みが零れてしまった。奥寺は僕の友人だ。小学校の頃から付き合いのある幼馴染だ。あいつと一緒にいると心が安らぐ。自分が間違っていないと再確認することが出来る。周りと自分とずれと向き合う勇気が湧いてくる。


 予想通り、神原一樹は昨日子供を埋めた公園にいた。ベンチに座って読書に明け暮れている。服装はTシャツと短パンという非常にシンプルなものだった。その姿はまさにインテリの大学生と言った感じだ。だが、昨日のこともあってか、僕には彼の周りに見えない嫌な空気が張り付いているように見える。

「遅かったな。まさか馬鹿真面目に学校に行っているとは思わなかったぞ」

 こちらを見ようともせず本に視線を集中させたまま神原が言った。

「こっちは君が学校で待っていてくれると思って待ってたんだよ。昨日のことなら学校でも話せるし、わざわざこんなところにまで来なくても……」

 もじもじしていることが自分でも分かる。語尾が消え入りそうなくらい小さくなっている。まるで苦し紛れの弁解をする情けない犯人のようだ。

「学校なんて馬鹿馬鹿しくて行く気もない。一応出席しているのは俺の目標のためだ。そもそも目に見える世界に何の疑問も持たずに、当たり前だと思っていることをそのまま生徒に教えるような場所にいたら俺の脳まで腐っちまう」

「神原君。君も見えるのかい?」

 僕は震える声で彼に尋ねた。心臓の鼓動がどんどん加速していく。声だけではなく体も震え始めてきた。嬉しいとか怖いとか悲しいとか苦しいとか安心とか感情の一斉も含まない震えだ。

 ただ話を聞きたかった。彼が僕と同じような能力を持っていたとしたら今までどんな風に生きてきたのか。何を感じて生きてきたのか。この世界をどう思うのか。

 ただ聞いてみたかった。

「残念だが、俺は普通の人間だ」

 神原はやっと本を閉じて僕の方を向いた。吸い込まれそうな深い瞳だ。いつも彼はこんな目で趣味に没頭している。必死な眼差しだ。

「だけど同じだ。あんたと俺は同じだ」

「同じ?」

 何も知らないくせに何が同じだ。自分の希望があっけなく裏切られた僕は苛立っていた。心の中では彼を罵倒する言葉が勝手に出てくる。

「露骨にがっかりって顔をするなよ。それより行くぞ」

 ベンチから立ち上がった神原は僕の肩をポンと叩いた。まるで友達感覚だ。

「行くって……どこに行くんだ?」

 神原の遠慮のない態度に引っ張られて、少しやさぐれた口調になってしまった。

「井上守と本田俊平のところだ」

「え?あの二人に何か用があるのか?」

「俺にまでしらばっくれる必要はない」

「言いたいことは分かるけど、あの二人に何をするつもりなんだって聞いているんだ」

 僕の前をずんずんと歩いていく神原の足が止まった、急に止まるものだから一瞬ぶつかりそうになった。なんとか緊急停止した僕を神原はあの深い瞳で見つめている。

 そして、その唇がゆっくりと動いた。

「井上守と本田俊平を殺す」

 その言葉にすぐには反応できなかった僕に神原はさらに畳みかけた。

「心配しなくてもいい。これはただの手始めだ」

 どうかしている。昨日ベッドの中で頭の中を駆け巡っていた仮説が立証されたような気がした。

 

 神原が案内したのは大都会の真ん中に位置する喫茶店だった。わざわざ学校の最寄り駅から電車に乗って、この大都市に来てしまった。若者の街として有名なだけあって、平日の昼間からギターを片手に歩き回る人や集団で洋服店を回る人、食べ歩きを楽しむ人、ただこの町を観察する目的でこの場所を楽しんでいる者たち。本当にめまいがするほどの数だ。昔からこういう場所に来ると気分が悪くなる。

「お前にはこの街はどう映っているんだ?」

 井上と本田がいる喫茶店の前の木に背中を預けている神原が言った。

「どうって言われてもね」

 神原の隣でペットボトルを飲み干した僕はごみ箱の場所を探して、辺りをきょろきょろと見渡した。こういう都会はごみが大量発生するのに捨てる場所が少なすぎる。

「その質問に答えてもいいけど、その前に教えてくれないかな?」

「なんだよ」

「なんで彼らを殺そうなんて馬鹿なことを考えたの?」

「馬鹿な事?」

「彼らが何をしたっていうんだ?別に君自身が彼らに何かされたわけじゃないんだろう?だったら」

「本当に優しいんだな。お前は」

 酔っぱらったおっさんのようないやらしい笑顔には裏表がない。その目はどこか遠くを見ている、まるで街の風景を楽しんでいるようだ。

「いじめとか差別とかセクハラとか人殺しとかしている人間なんて無条件に毛嫌いしている性質の人間だろ。やはりそれだけの正義感がなければこの世界は生き辛いか?」

 褒めたいのやら、けなしたいのやら、よく分からない口調だ。少なくとも同情するつもりはないらしい。その気持ちは素直に嬉しかった。

「でも、考えたことないだろう。お前から見たら悪党に分類される人間がなんでそんなことしたのか。理由を知ろうとはするけど、理解しようとしないだろう」

「理解できるわけないよ。そういう人たちは虐げられる人たちの気持ちを理解しようとしない。いや、それどころか気にもかけない」

 少し強い口調で言い返してしまった。まるで自分の主張を否定されたような気がしたから。それだけのことで怒りを覚えてしまう自分はつくづく心が狭いと思った。

「まあ、お前の言う通りだな。少なくとも俺はお前の言う悪党の分類に入るんだろうな」

「それで?僕に何をしろと?」

 本当に悪人のような顔で笑っている神原の話をこれ以上聞いていられなかった。

「あいつらはたぶん誰かと待ち合わせをしている。その誰かをお前に見てほしい。それだけでいい。簡単なことだろう」

「分かっているとは思うけど、僕はやるとは一言も言っていないからね」

「そうか?てっきり俺の考えに賛同しているから、ここまでついてきたのかと思っていたぞ」

「君のことを放っておけなかっただけだよ。それにあの二人は僕の」

 友人だから。

「友達だから」

 あの二人とは一年生の時、同じクラスだった。あの頃は二人とも今よりも登校していた。だが、やはり彼らは退屈していた。というよりやらなくてはならないことがあるのに学校にいるせいでそれが出来ないといった感じだった。

 そんな彼らの退屈を少しでも和らげたいと思った僕は積極的に話しかけた。元々彼らは素行が悪いが、根はいい奴らだった。僕の話にいつも乗ってくれた。こういった関係は友人という言葉で表してもいいだろう。

 神原はそんな僕の心を見据えて笑っているように見えた。

「友達なら教えてくれよ。あいつらはあそこで何をしているんだ?」

「調査報告書でもまとめているんじゃないかな。学校ではとてもできない仕事だから登校拒否までしている訳だし」

「なんであのカフェなんだ?あいつらコーヒーとか好きなのか?」

「え?さあ、多分そうじゃないかな?」

 そういえばあいつら好きな食べ物とかあるのか?

「四人席に座っているみたいだし誰かを待っていることは間違いないんだが、本当に心当たりないのか?」

 あいつら、学校の外に友達とかいるのか?

「本当に知らないよ。彼らが学校の外で何をしているかなんて僕だって知らないんだ」

 ポケットからケータイを取り出した神原はその画面をじっと見つめている。

「あいつらの身辺は軽く洗ってある。怪しい奴は何人かいるが、誰が俺の目当ての人物か分からない。だからお前の協力が必要なんだ」

 何が可笑しいのか、神原の顔には人を蔑むような笑みが浮かんでいる。表している意味はそれぞれ違うが、神原はいつも笑っているような気がする。

「友達のお前より俺の方が余程あいつらのことを知っているみたいだな」

 僕は気の近くにある石畳に腰を下ろした。何も言い返すことが出来なかった。言えることはあったかもしれないが、これ以上追求すれば自分も知りたくない何かに向き合うことになりそうだったから。

「殺意と愛は同じだと思わないか?」

 当然何を言い出すんだ、こいつは?

「人は盲目的に殺人を否定しているみたいだけど、こうして殺すつもりで相手を見るといろんなものが見えてくる。もっと相手のことを知りたいと思ってしまう。四六時中相手のことを考えてしまう。恋する女子高生になった気分だよ」

「人を殺したいほど憎む気持ちがあるから、自分を犠牲にしてでも相手を助けたい気持ちがあるのかもしれないね」

 僕は何を言っているんだ?彼の言葉を全否定するつもりだったのに、彼の言葉に便乗して自分の意見を述べるなんて。

「お前はあるのか?人を殺したくなるほど人を好きになったことが?」

「僕はその……恋愛経験とかないから……よくわかんないな」

 照れくさくなった僕はそっぽを向いた。

「だと思ったよ」

 神原の淡々とした物言いに少々腹は立ったが、吐きそうになりそうなくらい蠢く都会を前にするとちっぽけな怒りはすぐに消えていった。


「やることはないというのは一種の拷問だな」

 カフェにいる彼らを監視し始めてからもう六時間近く経とうとしていた。日もわずかに傾き始め、カラスも鳴いている。だが、自然の流れる音もこの町の喧騒に呑まれて、消えていく。

 カフェに座って資料をまとめている人間をただただ監視しているこの状況はまるで刑事の張り込みだ。ただ座っているだけなのに普通に運動するより疲れた。

 確かに何人か、彼らを訪ねた人たちはいたが、どれも神原のお目当てではなかった。

「お前本気でやっているのか?」

 神原はしびれを切らしたかのように言った。

「本気も何も本当に来てないよ。君の前で嘘をつく自信はないよ」

 嘘は言っていない。仮に来ていても言うつもりはなかったが……

「仕方ない。実力行使だ」

 六時間の間に僕らは会話した。それ以外にやることがなかったから。会話と言っても内容は紙のように薄いものだった。好きな食べ物、最近行ったおしゃれな店、趣味、SF、自己紹介に毛が生えたような会話だ。しかも基本的には神原の話を僕が聞くような形だったが、その結果、少しは神原という人間のことが分かってきた。要するに彼はせっかちなんだ。

「実力行使って、何するつもりだよ」

 人ごみの中に歩き始めた神原の手を取った。心なしかその手は冬に手袋していなかった人の手のように冷たかった。

「俺はしばらくトイレに行ってくるから、先にお前はあいつらに話しかけてこい」

「何言っているんだ?そんなことする義理はないよ」

「友達なんだろう?」

 心臓が蹴り上げられたのかと思うほどの鼓動が僕の胸を襲った。

「偶然友達を見かけたから声を掛けた。何にも可笑しいことはないだろう?友達でもないやつが話しかけてきたら奴らは困るかもしれないけどな」

 また笑っている。本当にこいつはよく笑う。しかも作り笑顔ではない。本気で笑顔を零している。今度は僕を小馬鹿にしている。

 僕は彼の手を放し、急ぎ足で彼らがいるカフェの中に入っていった。そのおしゃれなカフェは外から見るよりも空席が目立っている。流行っていないのだろうか。本田たちはそれを見越してこの店を選んだのだろうか。

 一番安いコーヒーを手に僕は本田たちの席に向かった。本当は声なんか掛けるつもりはなかった。声なんか掛けたくなかった。でも、このまま逃げてしまったら、彼らのことを友達ではないと認めることになる。それは不本意だった。

 彼らは友人だ。僕に大事なことを教えてくれた友人だ。

「やあ、井上君。本田君」

 僕はなるべく明るい声で話しかけた。

「あれ?どうしたんだ宇田?こんなところで何している?学校の帰りか?」

 フラペチーノをすすりながら返事を返してきたのはおしゃべりな井上の方だった。

「そうなんだ。本屋に寄ろうと思ってここまで来たら偶然君たちを見かけてね」

「わざわざこっちの本屋まで?学校の近くにも本屋はあるだろう」

 そう切り返してきたのは本田だった。聞かれる可能性のある質問だったが、正直実際に聞かれるとは思ってなかった。その質問は突き詰めれば、ここに来た本当の理由を問い質すものだから。

「たまには規模の大きい本屋に寄りたかったんだよ。実は今日具合悪くて早退しちゃって時間が余っていたからさ」

「要するにお前も学校をサボっていたのか!お前もやるようになったな!」

 井上は自分の隣の席に置いてあるバックを自分の足元に降ろした。ここに座ったらどうだ。久しぶりに話でもしようぜ、ということらしい。

 僕はそれに応じた。

「本当に久しぶりだね、こうやって話すのは」

 僕は窓ガラスの外を眺めながら言った。

「まあ俺たちは学校に行ってないからな」

 本田がぼやくように言った。先ほどから本田の言葉にはどこか棘を感じる。中学二年の時は彼にそんなに嫌われていた記憶はないんだけどな……

「今日は僕もうんざりしちゃってつい学校を早退してしまったよ。最近ちょっとあそこが息苦しくてさ」

 正直そこまで息苦しさは感じていなかったが、彼らの側に立って会話をしたほうがスムーズに話ができると思った。

「俺たちは別に学校が嫌いな訳じゃないよ。ただちょっとやることが多くてな」

 神妙な声で本田が言った。その本田を井上が目を細めて見ている。その目はそんなこと言っていいのかと言っているような気がした。いや、恐らくそうなんだろう。

「もう学校には来てくれないのか?君たちに学校に来たくない理由があるのはわかっているつもりだよ。でも勝手なことを言うけど、僕は君たちがいないと寂しい。だから僕のために学校に来てくれないかな?もし、学校がつまらないなら僕が少しでも面白くなるようにするからさ」

 口にするだけでも恥ずかしい言葉だが僕は言った。確かに彼らが来ないことに寂しさを感じていたのは確かだが、感情が表に出てしまうほど僕の中に彼らはいなかった。だが今日会わなければこんなことをいう機会もなかったかもしれない。

「本当に優しんだな。お前は」

 本田が笑いかけてくれた。本田の顔では笑っているかどうか判別することは難しいが確かに笑っている。

 照れ臭くてなかなか続く言葉が出てこないせいで奇妙な沈黙が流れてしまった。

「本ってどんな本?」

 ドーナツを頬張りながら井上が拍子の抜けた声で尋ねてきた。その声は助け船だった。やっと自分の土俵で話を進めることができる。

「今日買いたいと思っていた本はいくつかあってさ」

 それから三十分くらいだろうか、本当に楽しい時はあっという間に過ぎ去る。僕たちは他愛のない話に花を咲かせた。好きな本の話から始まれ、最終的には好きな女子のタイプまで話が飛んでしまった。

 こんな時につくづく思う。世界は思ったより平和で単純だと。いや、平和で単純になれると。誰とでもこんな風に話ができる。この世に通じないものなんてない。ただみんな互いを知ろうとしようとしていないだけだ。相手の気持ちになり、そんな小学生でも自然に出来ること、いや、小学生のような子たちだからこそ出来るようなことを出来ないから、戦争やらいじめやら差別がなくならないんだ。

「ずいぶん楽しそうな男子トークだな」

 僕は突然僕たちの会話に入ってきた男の顔を見た。

 なぜ笑っていないんだ?

 僕たちを見下ろしている神原はニコリともしていない。ただ冷たい目を向けている。

「神原か?何やっているんだよ。後ろの子は誰だ?」

 軽い調子で井上が尋ねた。

 僕は神原の後ろに寒さに耐えている小動物のような少女に視線を向けた。かなりかわいい女の子だ。美人というよりも男が守ってあげたくなるようなか弱さを取り繕うこともなく前面に押し出している。今時珍しい世間知らずのお嬢様のようだ。

「まさか、君の彼女か?」

 お前にそんな可愛い彼女が出来る訳ないだろうと続きそうな言葉を本田が吐き出した。

「あ、あの私は……」

 その女の子はもじもじと手を組み替えながら、俯いている。まるでハムスターのようだ。男に好かれたくてこういった女子を演じる女の子は多いらしいが、この子には嘘くささがまるでない。天然物だ。確かにあの変人がこの小動物的女子と付き合っているビジョンが浮かんでこない。

「そこ一つ席空いているだろ?この子を座らせてやってくれないか?」

 神原は顎で僕たちの荷物が置いてある本田の隣の席を指した。ちょっとドキッとした。気が利かない自分に嫌悪感を覚えながら、僕たちは急いでその席を空席にした。その空席にその女の子は遠慮しながらも腰を下ろした。

「神原、お前も自主学級閉鎖までして女の子をナンパしてたのか?血気盛んだなー」

 多分、何の会話も出てこないこの場に息苦しさを感じていたのだろう。井上はとっつきやすい話題を意味の分からない言葉で振った。

「ナンパなんかよりもっと面白いことをしてたんだよ」

 やっと神原が笑った。だが、僕には分かる。僕たちを見下ろしている彼の笑顔はまがい物、作り笑顔だった。

「またオカルトか?お前も本当に物好きだな」

 本田はまだ緊張している女の子にコーヒーを勧めた。神原の変人ぶりは同じクラス、いや、同じ学校の生徒なら大体の人が知っている。だが、オカルトやSFの本を特にこのんで読んでいることまで知っているのは意外だった。同じクラスの人くらいなら知っているかもしれないが、学校に全然来ない本田までそのことを知っている。それは一つの答えを示している。

「馬鹿馬鹿しいか?」

 神原は無機質な声で言った。その顔にはもう笑顔はなかった。

「でも、俺は世の中にはもっと馬鹿が必要だと思うんだよ。世の中は利巧すぎるから退屈だし、利巧な奴らは社会のシステムをいかにして有効活用するのかとかしか考えてないから世の中に馬鹿な問いを投げかけられないんだよ」

 その場にいた全員の視線が神原に集まっている。僕の目も魚のように泳ぎ疲れるほど泳いでいた。

「俺はそんなに利口じゃない。世の中でどう生きていくのかなんて考える前に世の中がどういうものか知りたいんだ。当たり前に広がっている世界に当たり前って何か聞いてみたいんだよ。その方が単純だし、面白いだろ?」

 いつの間にか神原の顔には笑顔が広がっていた。両手を広げて力説する神原の姿はまるで自分の弁明に酔う独立国家の総統のようだ。

「お前は馬鹿じゃないよ」

 本田がボソッと呟いた。

「少なくとも俺たちはお前を馬鹿だとは思わない。馬鹿っていうのは知識力や思考力がない奴のことでない。周りに流され、考えること自体を放棄したやつを馬鹿と呼ぶんだ。周りの流れに疑問を持って自ら離れる奴を馬鹿とは呼ばない……気がする」

 その言葉の語尾はどんどん小さくなっていた。僕の胸は少し熱くなっていた。単純かもしれないが本田の優しさに胸を打たれた。君がそんな言葉を神原に送ってあげるなんて。

「あんたと話したのは初めてな気がするけど、あんたも優しいんだな。全く、本当に嫌になる」

 初めてではないだろうと心の中で神原の言葉を訂正しつつも僕は安心していた。彼の中にある殺意もあの優しさに飽和されるのでないと期待した。あれこれと理屈を並べてみても結局、何気ない優しさがどうしようもない恐怖や憎しみを和らげてくれることを僕は知っている。

「なんだあいつら」

 井上が窓の方を見て、言った。僕もすぐにその窓の方を見た。その窓の先には八人組ほどの男たちがいた。全員、金髪や茶髪、だらしなく着こなしたパーカー、そして、明らかに怒りに満ちた顔。余り友好的には付き合えそうにない方々だった。彼らよりも僕は小鹿のように震えている神原が連れてきた女の方の反応に意識が向いた。

「やっと来たか……」

 微かな声だが確かにこの耳で聞いた。神原のその言葉を。だが、どうしても彼女の怯え具合が気になった僕は彼女に

「大丈夫?どうしたの?」

 と聞くだけで神原の言葉を無視してしまった。

「私、友達と旅行していたんです。でも、友達とはぐれてしまって、そうしたらあの人たちが声をかけてきて」

彼女の震えた声は怯え、そのものだった。その震えた声だけで何があったのかは想像できた。

「それで神原さんが助けてくれて、でも、でも」

 僕はその時にやっと神原がいないことに気づいた。首を半回転させ、見つけた神原はいつの間にか窓ガラスの外の不良らしき男たちに連れていかれていた。

「もう分かったよ。君はここまで待っていてくれ。神原をすぐにここに連れてくるから、礼の一つでも言ってあげてください」

 僕は自分のかけた優しい言葉はこれで良かったのだろうかと考えながら、喫茶店のドアを勢いよく開いた。


 人の波がうごめくような大都会には当然数えきれないほどもビル群がある。ビル群が多い分、人がなかなか入り込まないような路地裏も多数存在している。神原たちが消えていったのも数多く存在する人目につかない路地裏の一つだった。

 僕が神原を発見した時には彼はすでに息絶え絶えだった。場違いな感情かもしれないが僕は少しおかしかった。正直、ここまで一人で付いていくのだから自信があるのかと思っていた。彼らを一人で相手にできる実力があると思っていた。それがここまで現実通りの展開を提示されると緊迫という雰囲気も吹き飛んでしまった。

 今、僕が立っている路地裏の入り口は外の直射日光が降り注いでいた。路地裏と言ってもまだ人通りに近い場所だ。彼らがとばしてくる怒号から逃げ出すこともそれほど難しくない。だが、この状況を黙って見過ごせるほど人間を捨てたわけではない。

「もうその辺にしてもらえませんか?」

 自分が嫌になりそうになった。こんな状況でも水面を撫でるような貧弱な言葉、声しか出て来なかった。しかもこういう言葉は神経を逆なでする可能性もある。もっと言葉を選ぶべきだったのではと、今更ながら後悔した。

 神原は建物の壁に酔いつぶれたサラリーマンのようにぐったりと背を預けていた。建物の影のせいで表情はよく見えない。

 彼らは当然だが素直には応じなかった。小声で少し何かを話した彼らはニヤニヤとした笑みを浮かべつつも僕との距離と詰めてきた。

 ここからが予想外だった。いや、僕の考えが甘かった。彼らの中にいる骸骨の柄が入った黒いパーカーを着た金髪の男が僕を殴りつけた。

 汚い言葉を浴びせられるとばかり思っていた僕の脳が大きく揺さぶられた。僕はその場に倒れこんだ。熱い口の中が熱い。鉄の味が口に広がる。地面に僕の血の斑点が少しずつ増えていく。どうやら口の中が切れているらしい。鼻血も出ている。

 まだ混乱している僕の頭は記憶の糸を手繰った。最後にどくどくと血を流したのはいつだろうか?平和で退屈な僕の人生の中で他人に殴られたことがあっただろうか?この頬の痛みも一種のフィクションなのではないかと疑いたくなる。

 僕は逃げたくてしょうがなかったが、逃げたくなかった。友達を見捨てていくことが出来なかった。神原を助けたいと想う心よりもそんなことをする情けない自分になりたくないという想いの方が強かったかもしれない。僕はそんないい人ではない。でも、どんな理由だとしても友達を助けたかった。

 せめて逃げられるくらいの時間を作ろうと抵抗としようとした僕は背後からやってくる二つの気配のほうに顔を向けた。

「ずいぶんと楽しそうじゃないか」

 井上は関節を鳴らしながら不良たちを睨みつけた。僕はこんな井上の顔を見たことがない。怒りより冷たさを感じた。激流で相手を飲み込むのではなく、少しずつ、しかし確実に相手を捕食しようとしている獣のような顔に見えた。そして、それは本田もまた同じだった。

 井上が少しずつ不良たちに近づいていく。

「別に俺たちもいい人って訳じゃないけど、お前らなんか胸糞悪いぜ」

 本田がちらりと僕を見た。

「そこで休んでろよ。後で病院には連れて行ってやるから」

 神原はゆっくりと立ち上がり、なぜか不良たちのほうをじっと見た。その顔にはまた笑顔は浮かんでいる。まるで肉親のような笑顔だ。心配しなくてもいいと言ってくれる兄のような笑顔だ。

 その笑顔に不良たちも気づいたらしい。不良たちは突然現れた井上と本田よりも神原の方を見ていた。敵意を向けるわけでもなく、優しい笑みを浮かべている神原を不可解だと思ったのか、意識を向けるだけで不良たちは何も動き見せなかった。

「怯えなくてもいい。安心していい。お前らも助けてやる」

 確かに言った。神原がそう言った。

 その場にいた全員がきっとその言葉の真意を探ろうとしていたに違いない。神原の言葉には明確な対象が誰なのかという言及がされていない。お前らというのはいったい誰のことなのか?助けるとはどういうことなのか?

 神原の言葉を一瞬の中で何度か反復した僕ははっとした。細い思想という糸が真意という針の穴を通り抜けたような気がした。僕は神原の真意がわかったような気がした。

 神原は僕をじっと見ている。神原は僕に何かを伝えようとしている。不良たちからあの娘を助けたのは本当にただの善意だったのか。僕にはもう分らなくなってしまった。

「助けるだと?助けを乞うのはお前のほうだろ?」

 僕を殴った男の拳が振り上げられた。本当に無意識だった。僕はいつの間にか走り出していた。神原をめがけて走った。頭の中では理由というものを探すことで忙しいようだが、体は単純に神原を助けようとしていた。

 鈍い音が僕の耳に響いた。一瞬僕が殴られたのかと思った。だが、どうやら違うらしい。痛みは全く感じない。代わりに感じたのは背筋が凍りつくような悪寒だった。その悪寒の正体はすぐに分かった。視界の端で転がっている不良たちだ。うめき声をあげながら地面に蹲っている。耳をふさぎたくなるような鈍い音が続く。不良たちが一人一人と地面に沈んでいく。僕は首を少し動かして井上と本田を見た。

 視界に映ったのは強者が弱者を圧倒的な力で打ちのめしている姿だった。井上は体を全く動かさず、ポケットに手を入れたモデルのような佇まいのまま、周りの不良たちを吹き飛ばしている。不良たちは見えない空気の壁に押しつぶされていく。

 本田は持ち前の大きな黒翼を駆使して、次々に不良たちをなぎ倒していく。

 不良たち八人全員が地面に転がっている。傍から見れば集団で猛獣に襲われたと勘違いされてしまうだろう。いや、実際その通りかもしれない。

「大丈夫か?」

 井上が主人公のような爽やかな笑顔で手を差し伸べてきた。

「どうして?」

 上ずった声で僕は尋ねた。

「どうしてって……」

 井上と本田は互いの顔を見合わせた後、照れくさそうに頬を掻いた。

「俺たちは友達だろう」

 その差し出された優しい手を僕はとることができなかった。

 やっと分かった。

 どんな綺麗ごとや建前を並べたところで僕らと彼らは違う。まったく違う生き物だったんだ。ヒーローのように僕らを助けてくれた彼らを目の当たりにして、僕は恐怖しか感じなかった。

 僕は彼らを恐れていたんだ。

やっとそんな当たり前のことにようやく向き合うことができた。

 

周りと自分とのずれを初めて感じたのはいつだったのかは正直よく覚えていない。物心ついたころには宇宙人が僕の周りで生活していて、それが普通の世界だと思っていた。

 だが、多分小学校に入る直前の頃にはもう自分が普通ではないということにも気づいたと思う。さらに言えば、自分の見えている世界も普通ではないと理解していたと思う。宇宙人たちはこの人間社会に溶け込んでいる。人間に化けて人間と同じ暮らしをしている。そのことについて恐ろしいと思ったのかと聞かれれば答えはノーだ。幼い僕には宇宙人も人間も大して変わらない存在だった、同じように話し、泣き、笑い、苛立ち、面倒くさがり、嫌々仕事をして、無理やり笑顔を作り、そして、死んでいく。見た目が全然違う意外に違いが見つからなかった。極端な話、外国人とさして変わらないと思っていた、

 そう同じだ。僕はずっとそう思って生きてきた。同じように一生懸命生きている同じ生命に差別をするなんて最低な奴がすることだと自分に言い聞かせてきた。僕だけは彼らと向き合おうと。

 まったく馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しい。自分と同じ、変わらないと言い聞かせているのは心の中では違うと自覚してという証拠だ。自分の安心のために自分と同じだとくくろうとしていた僕が結局一番の差別主義者だったんだ。


「それがお前の結論か?」

 六時五十分、僕と神原しかいない教室には鬱陶しいと思うほどのまぶしい朝日が差し込んでいた。

「あの子供を見つけた時涙も出なかった。あれが人間の子供だったら、あんなに冷静ではいられなかっただろうね。僕はそういう人間だった。僕は結局そういう人間なんだ」

「そんなに卑下するようなことではないだろう。お前は道端でミミズの死骸を見るたびに泣くのか?俺たちは同じ人間でも関係のない死には何の興味も持たないくらいだからな」

 自分の机の上に腰を掛けている神原の顔は絆創膏とガーゼで彩られていた。余水上にこっぴどくやられたらしい。

「生き物はそこまで暇ではないからな。生きている限り当然訪れる死にいちいち心をすり減らしていたら身が持たないからな」

 確かにそうかもしれない。ニュースの中で報道される、殺人、戦争、いじめ、虐待、それを見た瞬間は感情を揺さぶられる。許せないと心から思っている。でも、結局のところ他人事だ。一日とは言わず、風呂に入る。ご飯を食べる。宿題をする、そんな日常的な動作の中に激情は消えていく。見ず知らずの他人が死んだというニュースを見て、一日中泣くことができるほど人は相手の気持ちになることはできない。

「それで一晩考えた結果、俺の計画に協力するつもりになってくれたということでいいのか?」

 昨日、神原は確かに僕に言った。

 日常に溶け込んでいる異星人たちを一匹残らず、駆除すると。

「確かに宇宙人が侵す犯罪もあるよ。その事件のほとんどが解決されていないことも分かっている。でも、それは全員を殺す理由ならないよね?かつて、そうやって人を殺した人たちの過ちに僕たちは学ぶべきだよ」

「きれいごとはもういいよ。それにお前は何かを勘違いしている。俺は法で裁けない悪を裁くなんてことをするつもりはない」

「じゃあ、なんで?」

 神原は顎に手を当てた。何か考え込んでいるようだ。すぐにその口は動いた。

「俺の両親は俺が四歳の時に異星人に殺された」

 記憶を手繰り寄せた冷たい声色だった。

「あの日のことは今でもよく覚えている。今でも夢の中に出てくる。一番古い記憶かもしれない。あの日の痛みも悲しみも恐怖も憎しみも頭の中に焼き付いている」

 僕は何も言うことができなかった。ただ黙って記憶をたどっている神原の表情をのぞき込むことしか出来なかった。

「そんな顔するなよ。こっちまで悲しくなるだろう?俺は正直親が死んだことに関してはあんまり何も感じていないんだ。四歳の時だからな。どんな人たちだったかも対して覚えていない。あの日、俺が何より怖かったのは……」

 神原の瞳は遥か先を見ていた。四歳の時の自分という遥か先の景色を眺めていた。

「あの日のことだけはよく覚えている。雨の日だった。車の中から豪雨を眺めていた。両親と遊園地に行った帰りだった。記憶の中の両親はいつも笑っている。俺の両親は決して褒められた人たちではなかったことを知ったのは、両親が死んでからだ。いつも喧嘩をしているどうしようもない両親だったらしい。俺も幼いころ、何度も殴られたらしい。普段がそんな親だったから、あの雨の日のまるで普通の親のようだった両親の楽しそうな顔が忘れられないのかもしれない」

 ふと笑った神原の顔には哀愁が浮かんでいた。

「だが、非常識な俺の親はろくに前も見ないで運転していたらしい。路上を横切っている猫に直前まで気づかなかった。もう間に合わない。後部座席にいた俺もそれを直感的に理解していたらしい。この楽しい気分も猫をひき殺してしまった後味の悪い罪悪感で塗りつぶされるのだろうなと思った。でも、結果的に猫は助かった。俺たちの乗っていた車の方が先に大破したからな」

 神原はこぶしをギュッと握りしめた。その拳には汗が光っているように見える。

「何が起きたかは分からなかった。猫にぶつかる直前に車が大破したのだということに気づいたのは燃え盛る車の残骸から命からがら逃げ出した後だったからな。路上に這いつくばっていた俺はただ見ていた。両親が下敷きになっている車の残骸を。あの車の残骸を見た時に何を感じたのかは全く思い出せない。悲しみも恐怖も喜びも何もなかった。幼かった俺はただ目の前に広がる現実についていくのに精一杯だったのかもしれない。だが、そのあとすぐに目に映ったものに震えるほどの恐怖を感じたことはよく覚えている」

 震えている。神原の体が小刻みに震えている。神原の瞳は過去に溺れそうになっていた。

「笑っていた。自分が助けた子猫を抱えて笑っていた。そして、奴は俺のそばまで寄ってきてこう言った。すまないと。今度は本当に悲しそうな、泣き出しそうな顔で俺に謝ったんだ。あいつは分かっていたんだろうな。あの異星人は何の罪もない子猫を助けるために無知で愚かな俺の両親を殺したんだ。快楽や悪意の元で殺してくれていたらどれほど救われていただろうな」

 遠い過去を旅していた神原の瞳はこの教室に戻ってきた。そしてその瞳は僕をじっと見ている。

「あの宇宙人もお前のように優しい奴だったんだな。その優しさと善意で人を殺したんだ。何の罪もない猫と俺の両親を天秤にかけて、迷わず猫を選んだんだ」

 僕は椅子から少し腰を浮かせて、身を乗り出した。いつの間にか彼の話に引き込まれている自分がいた。

「恨みはない。憎しみもない。間違っていることも分かっている。だが、俺はやる。現実の世界を世の中の大半が当たり前だと思っている世界に少しでも近づけたいんだ。」

 僕は何故か電車に溢れている宇宙人たちの顔を思い出した。

「お前だって周りの世界にほんの少しでも近づきたいと思うだろ?」

 薄い笑顔を浮かべて差し出してきたその手を僕はためらうことなく握った。


 いつものことだ。普段なら見て見ぬふりをしていた。

 隣の席の宇宙人、奥寺照子は蠅が大好物だ。幼いころから人目を盗んで長い舌でいつも蠅を捕食している。

 当然と言えば当然だが、地球人と宇宙人の主食は違う。確かに地球の食べ物は格別だという宇宙人は多く見かける。だが、奥寺の例でも分かるように宇宙人は人間の常識では食べない物も平気で食べる。彼らにとっては当然なのだ。これを毎日のように見て俺はなぜ、同じだなんて思いこもうとしていたんだろう。

 気づいた時には僕の指はすでに彼女を指差していた。

 奥寺はきょとんとした顔をして俺を見つめている。その瞳には疑いの色がまるでない。幼いころから兄弟同然のように過ごしてきた相手を疑うという考えは彼女の中にはないらしい。

 後ろの席の神原が口角の上がりすぎている悪党のような笑みを浮かべている。その恵美と視線は今まで一番強烈なものだった。背中越しでも分かるほどに。


「さて、どうやって殺そうか?」

 奥寺照子を売ったあの日から二日後の朝の教室で僕たちは自分の席に腰を下ろして密談を始めた。この密談は朝のさわやかな光を浴びせなければ途端に崩れてしまう様な気がしていた。

 僕はゆっくりと口を開いた。

「奥寺に限らず、宇宙人たちは種族によってそれぞれ弱点がある。人間にとっては薬になるような食材でも、ある宇宙人にとっては猛毒という例は珍しくない……らしい。盗み聞きした話だけど」

「奥寺照子の弱点は?」

 奥寺照子の弱点……

 奥寺照子は宇宙人だ。人間に毒がある限り、宇宙人奥寺にも何か毒になるものがあるはずだ。だが、僕はそれを知らない。あれだけ長く同じ時を過ごしてきたのに、僕は彼女の好きな食べ物すら知らない。いや、聞いたことがあるような気がするが、何故か覚えていない。いや、何故かではない。理由は簡単だ。僕は彼女自身に関心を持ったことがないからだ。

「僕も奥寺の弱点は知らない。ただ、いつも避けて食べている食材を調べればあるいは」

「その中にあいつらの弱点の食材があるかもしれないということか」

 僕は軽く頷いた。僕の首の動きに呼応するように神原がふと笑った。

「宇宙は案外狭いな。同じクラスに異星人が三匹もいるとは」

「井上と本田は奥寺の監視兼護衛らしいからね。奥寺がこの学校に来なければ彼らも来なかったと思うよ」

「奥寺照子は相当の要人ということか。面白い。ところで奥寺照子は何の目的があって、この学校、いや、地球に来たのか知っているか?」

 僕は黙り込んだ。地球に来る宇宙人の目的は様々だ。資源の確保、宇宙貿易の拠点、太陽系文化の研究、奥寺がどの理由でこの地球に来たのかは知らない。

「まあ、おそらくは地球文明の研究だろうな。ここ数日尾行したが、奥寺は地球の食材や文学に相当の興味を持っているようだからな」

 神原の言動にはいちいち驚かされる。その行動力は目を張るものがある。それと同時に一つの考えが僕の中に浮かんでくる。

「奥寺のことを何とも思っていないの?」

「は?」

 神原は真剣に意味が分からないという顔をしている。当然だ。僕も自分が何を言いたいのかよく分かっていないのだから。 

「幼馴染の僕よりも君のほうが奥寺のことを知っている。それでも君は奥寺を殺すの?」

「意味のない優しさを口にするな。奥寺を指差した時点でお前の心は決まっているはずだ。それとも先に井上と本田を始末したいのか?」

「奥寺は何も悪いことをしていない。この地球に希望や夢を抱いてきたただの少女だろう?それを殺すなんて、やっぱり僕には……」

「自分が許せないか?そんな屑にはなりたくないか?俺はそんなことにいちいち頭を回したことなど一度もないけどな」

「どうしてそんなに割り切れるんだ?確かに宇宙人は怖い。でも……」

「俺もあいつらが怖い。あの日からずっとあいつらの影に怯えながら生きてきた。だからその恐怖を取り除こうと思った。世の中の、人間のためになんて気持ちはさらさらない。俺は俺自身のためにあいつらを駆除する。周りは関係ない」

 神原は続けた。

「どうかしていると思うか?確かはただの悪党だ。周りのためではなく自分のために大量殺戮をしようとしているんだからな。でも、この世界が見えているものと違うと分かった以上、俺は何もしないで生きていられるほど強くはないんだ」

 本当に弱いのは僕のほうだ。何もしないで、見て見ぬふりをして恐怖から逃げていたのは僕だ。何もしない理由を宇宙人のせいにしていた。本当の悪党は僕のほうだ。

 僕はこの時、初めて、戦わなくてはならないと思った。


「この中にどれだけの宇宙人がいるか数えたことはあるか?」

 満員電車の中で吊革にぶら下がっている僕に声を潜めて神原が尋ねてきた。

「これだけ人がいたら、一両に十人くらいの割合かな」

「想定していたよりもずっと多いな」

 僕の隣で重そうな鞄を抱えている神原は少し首を動かしてあたりを見渡した。

「地球に在住している宇宙人は君が思っているよりもずっと多いよ」

 研究者風の説明口調で教えてあげた。

「それはやりがいがあるな」

 本当に素直な人だと思った。本人は自分のことを快楽殺人期と思っているかもしれないが、その笑顔には快楽という激情は映っていないように見えた。

 奥寺照子を殺すと決めたその日から僕の生活は少しずつ変わり始めた。まず、計画を練るために朝の通勤電車や昼食の時間、休み時間を神原と共にするようになった。その中で自然に神原と宇宙人について語り合う機会が増えた。

 正直神原の熱心さには舌を巻いた。両親が死んだ日から宇宙人の存在を信じて独自に研究していたのだ。僕は当たり前のように宇宙人が見えるから調べようと思えば調べられることは多いと思う。だが、神原は両親の死の時に偶然見た宇宙人がいるという根拠だけで本気で宇宙人について研究を積み重ねていた。その研究の熱心さは少々恐ろしいほどだった。

 その熱心に僕自身も感化されたことは言うまでもない。僕は井上や本田、同じ学校に通っている宇宙人、そして、奥寺と普通の会話をしようと思った。今まで僕は宇宙人と会話をしてきた。でも、今度は奥寺たちと会話をしたい。それが殺す者の礼儀だと勝手に思っていた。

「ねえ、宇田君、最近変わったね」

 奥寺のこの言葉には僕も少々動揺させられた。変化の裏にある殺意まで見抜かれないように取り繕うことで必死だった。

「なんか子供みたいになったよね」

「子供?」

「宇田君は昔からどこか一線引いたところで皆と接していたじゃない。でも、最近はすごく楽しそう。やっぱりそういう顔の方が宇田君は似合ってるよ」

 なぜか奥寺は頬を染めながら手をもじもじと動かしている。熱でもあるのだろうか?

「小さいころからずっと一緒にいるのに、まだ宇田君の知らない一面があるんだってわかって、なんか……すごく楽しいよ」

「俺もお前とこうして話せてすごく嬉しいよ」

 顔をうつ向かせたまま、奥寺と他愛もない世間話を続けた。ほとんど意味がないと思えるような会話からでも小さな発見はある。それを知ることができたことも一つの発見だった。

 

 調査は順調だった。ほんの一週間程度で奥寺の種族が弱点としている食材を特定することができた。思い返してみれば確かに奥寺がこの食べ物を食べているところを見たことがない。この一週間で自分がどれほど奥寺のことを知らなかったのかを思い知らされた。

 昼休みに計画を実行することが決まった。

 

「やるのはもちろん俺だ。お前は奥寺をこの教室から連れ出してくれ。その間に俺がやつの弁当に細工をする」

 細工といってもやることは彼女の弁当に少量のレモン汁を垂らすだけだ。その弁当を食べるだけで彼女は死に至る。

殺すことにもう迷いはなかった。宇宙人たちは何も悪くない。でも、この世界にいてはならない。誰が悪いわけでもない。だが、人間と宇宙人は共生できない。違うものを食べ、違う倫理観で生きている別の生物なのだから。

「どうしたの?宇田君?顔色悪いよ」

 隣の席の少女、奥寺照子は昔と変わらない笑顔で僕に笑いかける。昔と言っても思い出せる彼女の笑顔は最近見た写真の中で見ただけのものだが。

 僕はもう一度隣人について考えてみた。

 彼女はお節介だ。顔色悪いよ?元気ないね?ずけずけと人の領域まで踏み込んでくることもあった。余計な気を回してくることもあった。しかし悪い気はしなかった。

 彼女は可愛い。僕から見た姿かたちはまるで黒髪ロングの美少女に悪魔を足したようなものだった。この世界にはいろんな見た目の宇宙人がいる中でも彼女たちは割かし人間に近い。だが、何より可愛いと思ったのは彼女の好奇心が映った瞳だ。昔から彼女は分け隔てなかった。この世に映るものがよほど美しく映っていたのであろう。

 そうだ。彼女は友人だ。でも、僕は彼女が怖い。彼らが怖い。

 だから殺す。自分のエゴで誰かを殺すなんてほんの少し前の僕だったら想像もできなかった。こんな自己中心的な殺人鬼のような発想は。

 奥寺は昼休みにはいつも友人数名と自分の席で弁当を食べている。僕は彼女をこの教室から引き離す。その間に神原が弁当にレモン汁を垂らすそれが僕たちの殺人計画の全てだった。この簡素さは証拠を残さないということと同意だ。仮に殺人だと疑う人がいてもレモン汁が狂気だと気づく人などいる訳がない。

「一緒にパンを買いに行かないか?」

 僕は彼女を誘った。パンの一つや二つ、彼女が弁当と一緒に階に行くことも調査済みだった。誘えば必ずついてくると自信が僕にはあった。

 一瞬、彼女はためらったが、予想通りついてきた。幼馴染という立場もある。断る理由がないのだろう。

 僕たちは散歩でもするかのように一階にある購買部まで歩いて行った。こうして、彼女の横を歩くこと自体久しぶりな気がする。久しぶりと言っても昔、仲良く手をつないで帰ったといったような記憶はあまり残っていない。自分の脳は余程老いているのか、奥寺のことを鮮明に思い出すことが出来ない。

「ねえ、覚えている?」

 歩きながら天井を見つめている奥寺が尋ねてきた。

「私は幼稚園生の頃はパンが嫌いだったの」

 なんだって?パンが苦手?ここ数日の調査ではそんな情報は出てこなかったはずだが……まさかパンの方が弱点だったのか?

「なんか見た目が私の苦手な生き物の形をしてからあんまり食べる気になれなかったの。でも、あの幼い日に宇田君が私にパンを勧めてきてくれたのよ」

 全く記憶になかった。彼女の話なら幼稚園生の頃だから憶えていないのはそれほどおかしいことではないかもしれないが、何か引っかかるものがあった。

「あの頃はもっと色んなことに挑戦しなきゃと思ってたんだけど、なかなか勇気を持てなかったの、でも、パンが嫌いだという私に拙い言葉で一生懸命パンの魅力を語ってくれる宇田君のあの笑顔は私の憧れだったの」

 僕は窓側に向けていた顔を奥寺の方に向けた。奥寺も僕の方に顔を向けていた。目をうるうるとさせた上目遣いで僕を見ている彼女の顔は真っ赤なトマトのように赤く染まっている。

 階段で僕たちの足が止まった。周りには誰もいない。

「こんな事いまさら言われても困るかもしれないけど、私はあの日からずっと宇田君のことが……」

 彼女は何かを言っている。だが、その言葉は僕の耳には入ってこなかった。僕の意識はパンの魅力を語っていたころの僕のところに向かっていた。

 そうだ、彼女が悩んでいたことを僕は知っていた。色んな興味を持っているように見えたが中々踏み出せずおろおろしている感じだった。だから僕はパンを彼女に勧めた。パンを食わず嫌いしていたということは一目見てすぐに分かった。だから、世の中に少しでも興味を持ってほしくてパンを勧めた。今思えばパン一つ勧めたところで彼女の世の中への好奇心を促すことが出来るなどと短絡的なことを考えていた自分の浅はかさを笑いたくなる。だが、今の奥寺を見ていると自分の選択は間違っていなかったのだと思う。

 そうだあの時、僕はただ彼女の笑顔が見たくて、パンを勧めたんだ。

 一瞬だった。まるで記憶喪失の人間が失った記憶を取り戻したような膨大な情報が頭の中に押し寄せてきた。その情報の真ん中には奥寺がいた。

「どうしたの、宇田君?」

 昔から変わらない彼女の心配そうな顔が僕の顔を覗き込んでいる。

「ちょっと思い出したことがあってな。幼いころの馬鹿なこととかさ」

「馬鹿なことって?」

 奥寺は僕から視線をそらして購買部の先を見ている。どうやら知り合いがいたらしい。彼女は言葉が続かなくなってしまったらしい。

「さっさとパンを買ってしまおう」

 僕は彼女を促した。彼女の心配そうな顔は満面の笑みに変わった。


 昔話をしている間、時はゆっくりと流れる。一階の購買部から三階の自分たちの教室までの道のりは過去から現実へと流れている。過去が持ってくるのは記憶だけではない。その時感じた感情も一緒に運んできてくれる。

 教室まで懐かしい話で盛り上がっていた僕たちは懐かしい感情を抱えていたまま教室に戻ってきた。

 本当に心躍る時間だった。だが、その時間も終わった。教室で僕たちを待っていた神原の顔には仮面が張り付いていた。仮面の中にどんな感情が渦巻いていたのかは分からないが、その仮面には準備完了と書いてあった。

 神原は自席に座ったまま、僕をじっと見ている。よくやった。お前のおかげで奴を殺すことが出来る。そう言っている。

 奥寺は自分の席に座り、弁当箱を開く。ほかほかの白米とミートボール、サラダ、そして唐揚げがきれいに並べられた弁当にまさか猛毒が入っていようとは夢にも思わないだろう。

 彼女は死ぬ。僕の目の前で。僕の手によって。僕が殺すんだ。

 神原があれほど宇宙人を恐れる理由が僕にはわかる。ただ怖いからではない。

 ちらりと神原の方を見た。神原はもう笑っていなかった。その瞳には強い決意のように強い感情が浮かんでいるように見えた。

 僕は思い出していた。彼女の一言が僕の記憶をどんどん引っ張り上げていく。

 友人たちと机を合わせ談笑している彼女は箸を取り出した。笑顔のままでその箸はゆっくりと卵焼きにのびていった。

 僕はすべてを見ていた。目をそらさずこともできずに。彼女を凝視していた。だが、本当にこの目に映っていたのは、彼女の顔ではなく、この教室でも、彼女の友達でもなく、神原の眉をひそめた顔でもなく、奥寺の笑顔でもなく、ただひとつ、幼いころの自分だった。顔をしわくちゃにして笑っている自分だった。

 なんで笑っているんだ?僕は聞いてみた。

 奥寺さんが笑ってくれたから。僕は答えた。

 現実の奥寺がこちらを見ている。てっきり、じっと見て何の用だと聞かれるかと思ったがそうではなかった。

「どうして泣いているの?」

 言葉の意味を理解するよりも早く僕は自分の頬に触れてみた。確かに指先に冷たいものを感じる。そのひんやりとした液体は止まらない。手の甲で拭っても溢れてくる。だんだんと目の前が霞んでくる。

 涙?泣いているのか、僕は?

 目もあけられないほどの涙ではない。嗚咽がこみ上げるほどの涙ではない。

 だけど、確かに泣いている。顔の筋肉の動きは普段とまるで変わらない。僕は無表情のまま涙を流しているらしい。

 ただ悲しい。彼女がいなくなることが言葉にできないほど悲しい。その悲しみに理由に僕は気づいてしまった。

 おそらくこれまでの人生の中で一番素早い動きだった。瞬時に奥寺の弁当を奪った僕はその弁当を自分の口に流し込んだ。何度もせき込んだ。何度むせて、吐きそうになった。全てを飲み込んでレモンの香りがする弁当を完食した。

 周りは茫然と僕を見ている。僕の行動に戸惑いを感じているようにも見える。当然だ。僕自身も何をやっているのか、把握できずにいた。

「それ、私の弁当なんだけど……」

 苦笑いと呆れた声で奥寺は近づいてきた。言うなら今しかない。言わなきゃいけないと思った。その理由も分からないけれど。

「僕はお前の弁当が大好きなんだ!」

 普段あまり注目されることに慣れていない僕にとってこの状況は地獄だ。周りの視線が痛いというよりも熱い。

 奥寺の顔は見るまでもなく真っ赤に燃え上がっていた。手をパタパタとさせ必死に僕から表情を隠そうとしている。その姿は実に愛らしい。例え宇宙人の姿かたちでも今はそう思える。

「そんなので良ければいつでも作ってくるよ。まだまだ修行中だけど」

 頬を書きながら奥寺は答えた。

「それでいいんだよ!僕は奥寺の弁当が食べたいんだ!」

 ますます奥寺の顔が赤くなっていく。僕も自分の顔が熱を帯びていくのを感じた。その熱と一緒ならこの気持ちも吐き出せると思った。

「僕は奥寺が好きなんだ!お前の笑顔がただ見たいだけだったんだ!!」

 髪を搔きむしり、狂人のように叫んだ。教室もざわめきに飲み込まれた。突然の愛の告白に思春期の男女たちが騒がずにいられるわけがない。

 全力で走った後のように切れ切れになっている息を整えて彼女の顔をじっと見た。あふれ出る涙のせいで彼女の顔が歪んでみる。僕は涙を手の甲で拭った。奥寺の顔はまだ赤かったが、それでも真っすぐにこちらを見ている。

「私もそんな風に笑ってくれる宇田君が何よりも誰よりも好きよ」

 クラスのざわめきは喧騒に変わっていた。まるで戦い終わった後の宴のようだ。カップルの成立というイベントに皆、大はしゃぎのようだ。皆、どんな感情を抱えていたのかを僕が知る由はないが、とりあえず笑って冷やかしてくれた。

 だが、いや当然、後ろの席の神原は僕を冷ややかな目でにらんでいた。


「それで?どういうつもりだ?」

「奥寺と付き合うことになった」

「だからなんでそうなった」

 珍しく神原の声に怒りが混じっていた。だが、気にせずあの日僕が埋めた子供の墓の前で手を合わせた。墓は今日の朝六時に集まって、神原と二人で作った。簡素な作りだが、作らずにはいられなかった。

「何の届け出も騒ぎもないってことはこの子供は放浪者だったのかもしれないね。こんな辺境の星で誰にも看取られず死んでいったんだね」

「何も知らない無垢な生物を殺した俺を軽蔑するか?」

 緑が生い茂る樹木に背を預けている神原はぼやくように言った。やはり、あの子供を殺したのは神原だったのか。

「軽蔑なんてしないよ。君の恐怖が僕には痛いほど分かるからね。だから、命は平等とか殺してはいけないとか説教をするつもりはないよ。正直、この世界を当たり前にしようとしている君が間違っているのか、正しいのか。もう分からない。でも」

「でも?」

「君に人を殺してほしくない。ただそれだけなんだ」

 自分の声が涙に震えているのは分かっている。でも神原には、友達には本音を聞いてほしかった。

「あいつらは人じゃない。害虫だ」

「そういう意味じゃないよ。僕は神原に人を見てもらいたいだけなんだ」

 神原は黙って僕を見下ろしている。

「前に言ったよね。人は無関係な人の死には無関心だって。僕だってそう思うよ。やっぱり人は自分の大切な人のためにしか泣けない。見ず知らずの人に泣けるとしたらそれは大切な人を亡くした痛みを想像できるからだと思う。それならもっと宇宙人たちの気持ちを考えるっていう単純なことは僕たちにはできないのかな」

 涙声はもはや懇願、いや、祈りに近いものになっていた。でもどうしても伝えたかった。幼いあの日の自分の気持ちを。

「本当にお前はケーキみたいな甘いな。俺には到底無理だが」

「僕は宇宙人だから奥寺が好きなったんじゃない。彼女だから好きになったんだ。たとえ誰かを殺したいと思ったとしても、僕は宇宙人とか人間とかそんなくだらない枠組みを取っ払ってから殺意を持ってほしい。くだらない枠組みにとらえたまま誰かを殺しても神原の見たいものは見れないと思うよ」

何も言わないまま、神原は子供の墓の前で手を合わせた。

「俺は生きるぞ」

神原はボソッと呟いた。パラパラと雨が降ってきた。空はこんなに晴れているのに。

一人ひとり向き合えば誰かを殺したいなんて思わないなんてきれいごとかな?

僕は泣いている空を見上げて答えを求めた。

空は泣くだけで答えは与えてくれない。だが、僕の心は不思議と晴れていた。

               

                                了

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殺隣人考察 @yoda1027

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