第18話 口づけ

「ベッド……?」


 どれだけ歩いたのかも本当に分からなくなった頃、視線の先に、何か物体が現れた。

 何も無い空間で無かったことの安堵の息を漏らし、ティアは走り出した。

 現れた物体は、天蓋付きのベッドだった。

 シーツもベッドを支える柱も、それらを彩る宝飾品も、全てが豪奢。普段なら圧倒されてしまうような造りだが、ダナエも待っているだろうと思えば足も踏ん張れる。


「あんたが魔女王ね」


 ベッドに横たわるのは、深紅のドレスを纏った女。

 ベッドに施された装飾に勝るとも劣らない派手なデザインと、ドレープとフリルたっぷりの布使い。こんなドレス、女なら一度ぐらいなら着てみたいと思うが、いま着ているのがフィーロよりも年上に見える老婆とあっては残念で仕方ない。


「ああ、ようやく来てくれましたね。待っていましたよ」


 艶も色気も一切無い、しわがれた声だった。


「ほら、顔見せてやったんだから、あたしをここから出しなさい」

『変わらないわね、そういう所』


 口調と声音が、そしてその方法も声帯ではなく念話に変わっているが、ティアはそのことに驚くこともせずただ、やっぱりか、と深くため息を吐いた。


「カトレアはあんたのクローンね。そういう研究してたっておばあから訊いたことがある」


 魔女王は一瞬驚いたように目を見開き、自虐的に笑った。


『お義母(かあ)さんと仲良かったものね』

「あんたが放置し続けたからね。あんたこそ、なんで母親面できるのよ」

『してないわよ。私はただ事実を言ったまで』

「そういう態度が母親面してるって言ってるの」

『そんなこと言われても困るわ。だって、私があなたを産んだことに変わりは無いし、私は元々こういう性格なんだもん』


 あああ鬱陶しい。

 カトレアはまだ外見が普通だったからまだ耐えられたが、この女はしわくちゃの老婆だ。


「どうでもいいわ。あたしもおばあもお姉ちゃんも、人間だった時の名前も肉体も、心だって無くなってるのよ。あんたとの縁なんて、糸くずみたいな記憶だけじゃない」

『記憶だけが心を造り、心は魔力となって森を作る。魔力の森は魔女を生み、魔女は魔獣を傅かせて森を管理する。……知ってるわよね』

「魔女の原則。そんなこと、いまは人間だって知ってることよ」

『じゃあさ、あれだけたくさん人間がいたのに、なんでそれまで魔力の森が出来なかったんだと思う?』


 なにが言いたいのかさっぱり分からない。

 忘れてはいけない。

 自分はこの女と問答するためにこんな所にいるのではないと。


「そんなこと知りたくもないわ。あたしは、あんたが呼んでるって言うから来てやったの。ダナエも待ってるの。もう十分顔は見たでしょ。いい加減あたしたちを森に返して」


 ティアの切り返しに魔女王は詰まらなそうに唇を尖らせる。


『万年全国三位だった割に、こう言う議題には乗ってこないのね』

「一位じゃなきゃダメだって殴ってくるヤツを旦那にしておいて、よくそんな事が言えるわね」

『あら、あのクズそんなことしてたの? じゃあやっぱり殺して正解だったんじゃない。いとし、』

「あんたが! その単語を口にするな!」


 もうがまんの限界だ。

 炎の魔布を取り出して発動。

 魔布から巻き起こる炎が渦を成して魔女王に迫る。


『森の魔女が火を使うなんて、いけないことでしょ』


 窘めるように魔女王は言い、ふううっ、と息を炎に吹きかける。たったそれだけで炎の渦は四散し、火の粉すら残さず消えてしまった。


『百年魔女やってこの程度? ほんっとあんたってダメな子ね』

「うるさい! もういいでしょ!」

『そうね。やっぱりあなたと私はどんな姿になっても、どれだけ時間が経とうとも絶対に解り合えないって事が分かっただけでも、良しとしましょうか』

「どういう意味よ」

『こういう事』


 ぱちん、と皺だらけの指が乾いた音を立てると、ティアの右手側に人影が現れる。


「ダナエ!」


 と、彼女を後ろから抱くカトレアも一緒だ。


「手を離しなさい!」


 ふふん、と挑発的に口角を上げ、ダナエの成熟しきっていないからだに腕を這わせる。

 別れた時と同じく、うつろな瞳のダナエは、抵抗も反応も見せないまま、ただされるがまま棒立ちになっている。


「ダナエ!」


 懐から、ダナエの枝を利用して先ほど縫い上げた魔布を投げつける。魔力を込めた魔布は、真っ直ぐにダナエの元へ飛んでいく。


「あんたってほんと学習しないわね!」


 カトレアがダナエのからだをまさぐる。ダナエの細い右腕がゆっくりと持ち上がり、無数の枝が魔布目がけて殺到。縦横無尽に貫かれた魔布はバラバラに千切れ、ゆっくりと地面に落ちていく。


「なに、もうおしまい?」


 勝ち誇った笑みを浮かべたのはティアも同じ。


「そんなわけないでしょ!」


 掌を上に右手を突き出し、ぐっ、と握りしめる。直後、千切れた魔布の欠片たちが自らを切り裂いた枝に取り憑き、淡く輝く。


「がまんしてね、ダナエ!」


 左手で右手の関節のあたりを掴み、右手はさらに上へぐぐっ、と上げる。

 枝に張り付いた魔布が、厳密に言えば刺繍に使った糸が、張り付いた枝と共鳴。さらに枝に宿るカトレア魔力だけを吸い上げ始めた。

 あの女の魔力を吸うなんて吐き気がするが、ダナエの為だとがまんする。


「あ、あ、ああああっ!」


 よし、ダナエの瞳に光が戻り始めている。

 ダナエは意識までが消されたわけではない、と以前枝によって拘束されたときに感じた。ならばせめて邪魔なカトレアの魔力を吸収してやれば、ダナエのことだからきっと自力で対処できるはず。

 万が一妨害されてもいいように、欠片になっても刺繍が発動するように仕掛けも施してある。

 ここまでは作戦通り。あとはカトレアがどう動くかでこちらの行動が決まる。


「ふぅん。考えたわね。でもそんな程度じゃだめよ」


 れろ、とダナエの耳を舐め、とん、と彼女の背中を押す。二、三歩たたらを踏んで立ち止まり、緩慢な動きで舐められた耳を触る。うつろな目で視線を巡らせ、ティアを見つけるとふらふらと歩き出した。


「なにをしたのあんた!」

 ただ開放しただけで無いことぐらい、誰にでも分かる。


「ダナエ! しっかりしなさい!」


 千切れた魔布を呼び戻し、一枚に復元。もう一度ダナエに投げつけてあの女の魔力を完全に吸収、放散させる算段だが、量が多い。少し不安になる。


「に……げ、…………じゃ……」


 うわごとのようにダナエが言う。


「出来るわけ無いでしょ!」


 後先のことなんて一切考えずにティアは飛び出し、ダナエを抱きしめる。


「ごめん、怖い思いさせた。あたしが弱いから」


 両頬をしっかりと包み込んで顔を覗き込む。二、三度瞬きして、じっと見つめ返すダナエの瞳に、ほんの一瞬だけ光が戻った。


「わらわを、愛しく思うてくれて、ありがとう」

「なに言ってるのよダナエ!」


 ティアの怒号にダナエは苦しそうに微笑んで、凄まじい速さと力でティアの頭を掴む。


「止めなさい!」


 ダナエの瞳から光が失せ、次の瞬間にはカッと見開かれる。


「………………っ」


 自らを支配する力に抗うように、ダナエの唇が僅かに動き、吐息混じりの音が零れ出る。

 彼女がなにを言おうとしたのかは分からないが、不穏な言葉であったことは容易に想像が付く。


「ダナエ!」


 ダナエに貼り付けた魔布は変わらず魔力を放出している。これ以上は呼びかける事ぐらいしかできない。

 頭を掴む力が強まる。反射的に身を固くするティア。その瞬間を狙って、


「っ?!」


 ダナエは口づけをしてきた。


「なにやってるの、あんた……っ!」


 振り解こうにも頭を押さえる力加減が絶妙で、もがけばもがくほど唇同士の密着は強まり、ともすればダナエの腰に手を回してしまいそうになる自分に気付く。

 なぜいまダナエがこんなことをしているのかは分からないが、やらせているのがカトレアである以上、きっと良くないことだ。

 それは分かるが、それ以上考えられない。

 口内も全身も脳さえも甘やかな口づけに蕩け、ティアから抵抗する全ての力を奪い、この状況を打開しようという理性はもうほんの欠片しか残っていない。


「やめ……なさい……っ」


 抵抗はもはや言葉ばかり。

 互いの口から発する水音が無防備な耳に滑り込み、頬はすっかり朱に染まり、隙間から漏れる吐息は熱っぽく艶やかに。

 あの女たちが見ているのに、と浮かんだ思いがようやくティアの全身に力を呼び起こさせる。

 腰に回していた手をどうにか懐に滑り込ませ、最後に残った一枚を取り出し、散り散りになった魔力をかき集め、発動。


「離れなさい!」


 ふたりの間に突如突風が巻き起こり、ふたりの唇はようやく離れる。暴風は収まらない。離れまいとするダナエはティアの髪に指を絡ませるがもう遅い。絡めた髪ごとダナエのからだは吹き飛び、カトレアの足元へ転がっていった。


「あら。もっと愉しめばいいのに」

「ふざけるな! なにが目的よ!」


 ぐい、と袖口で口元を拭い、カトレアを睨み付ける。


「そんなの決まってるじゃない。新しい魔女王さまを生み出す儀式よ」

「儀式?」

「そ。ほら立って。印を見せてあげなさい」


 こん、とまだ転がったままのダナエの後頭部を蹴り、緩慢に起き上がらせる。


「印ってまさか!」

「そうよ。あなたの舌に刻まれていた紋様はね、魔女王になるための刻印。予約票みたいなものね」


 ふらりと立ち上がったダナエがゆっくりと口を開け、

 べぇ、といたずらっぽく舌を出す。


「おまえ、なんで!」


 その艶やかな舌に、紋様は一片たりとも刻まれていなかった。


「ふむ。なかなかに甘やかな口づけであったな。たまには乱暴にするのも悪くないの」


 くひひ、と実に楽しそうに笑う。


「ダナエ!」

「すまぬの。気苦労をかけた」


 ティアに微笑みかけて、カトレアに向き直る。


「ようもわらわを弄んでくれたの。たっぷりと礼を、と言いたいが姉上の前じゃ。荒事は避けるとしよう」


 挑発的に笑い、泰然とした足取りでティアの元へ向かう。


「待ちなさい! 印は、印はどこに行ったの!」


 カトレアが呼び止めるが、ダナエは歩みを止めずに返す。


「さてな。わらわは魔女になったばかり故、こちらの作法や理に長けておらぬ。わらわは生来の愚者であるから、知識ばかり与えられても困るばかりじゃ。どうしてもわらわになにか教えたいと申すなら、寝所を共にするしかないぞえ」


 言い終えると同時にティアの手を取り、晴れやかに言う。


「いま戻った。数々の無礼、非礼、許すがよい」


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