第17話 母

「あんた、あたしの母親なの?」


 言いたくなかった。思い出したくなかった。

 あんな、自分と血が繋がっていると考えるのもおぞましい、ゴミみたいな、それでも最初は優しかった父を殺したあの女のことなんて、永劫に忘れたままでいたかったのに。


「正解よ。でも半分だけ」


 カトレアが視線で合図するとダナエは持たされていた枝を再び舐め、ティアの足首と手首に根を絡ませて拘束する。


「ダナエ! しっかりして!」

「無駄よ。魔力はより強い魔力に上書きされる。知っているはずよ」


 カトレアがあの女だと判った以上、この女の言葉なんてティアの心に届くはずもない。


「ダナエ!」

「用済みのあなたをここまで呼んだ理由と、わたしに関する本当の正解は、魔女王さまだけが知っていらっしゃるわ。だから」


 す、と指先をティアの正面に向け、僅かな魔力を込める。

 ぐにゃりとティアの正面、数メートルの空間が黒く歪み、地下のクローゼットを開けたときのような白い空間が生まれた。


「なにこれ……。これじゃまるで……」

「そ。あの学校はわたしが作ったの。魔女王さまのご命令でね」


 あの女が作った空間に、あの女が作ったものを、自分は享受していた。

 それは凄まじい吐き気となって現れ、ティアは顔を下に向け、恥も外聞も無く吐瀉する。

 いやだ。

 吐きたくない。

 今日の朝食はフィーロとカーニャが丹精込めて作ってくれたのに。


「失礼ね。……でも、昔もあったわね。あんたがわたしの料理吐き出したこと」


 そんなことは日常茶飯事だった。

 食べてもすぐに吐き出してしまうために栄養が足らず、学校給食と祖母(フィーロ)がこっそり作ってくれた食事だけがティアの命を繋いでいた。

 あの女を嫌いすぎて憎悪しすぎてティアは、己に流れる血を流し尽くそうと何度も何度も自傷行為をした。

 時に姉と共有の自室で、時に風呂場で。

 助けてくれたのはカーニャと、フィーロ。あの女は一度だって助けてくれなかった。倒れている現場を見たことだって何度もあるのに。


「うるさい! 人間の記憶なんて思い出させるな!」

「無茶を言わないでよ。あんたがどんな記憶を思い出してるかなんて、わたしには関与できないのに、ねぇ」


 すす、とダナエの横に張り付き、陶磁器のような彼女の頬を撫でる。

 ダナエが感じている悪寒が、ティアを拘束する枝を通じて伝わってくる。ダナエもこの女を拒絶してくれて嬉しく、安心した。

 だから自分が助けるんだ。


「そうやってあんたは! いつもいつも!」


 ロングパンツの裾に急ごしらえに縫い付けた、筋力増加の魔布はまだ活きている。この女(おん)、魔女の知識にもある。魔力はより強い魔力で上書き出来る。


「だあああああっ!」


 まず、右足。

 足の魔布に可能な限りの魔力を込め、足を上げる。こちらの魔力により拘束は緩み、その隙を狙って引き抜く。よし。カトレアがなにかさせる前に他の拘束も一気に外す。


「お見事。でもね、ここはわたしたちの森なの」


 引き千切ったはずの枝が、今度は胴と太ももを拘束。


「もう! ふざけるな!」

「だめよ。そんな乱暴な言葉使っちゃ。お母さん哀しいわ」

「お前が! お前みたいな女が! 母親面するな!」

「あら。子供産んだ事もないようなオコサマに言われても、全然説得力無いのよ?」


 ねっとりと言い、嫌みったらしくクスクスと笑う。

「うるさい黙れ! ダナエを離せ!」

「できるわけないじゃない。魔女王さまのご命令なんだもん」


 もういい。自分で抜ければいいだけだ。

 胴に絡みつく枝を掴み、魔力を込める。


「しつこいわね。そんなことしなくても、あそこを潜れば開放してあげるわよ」


 そう言いながらもしゅるりと伸びてきた枝がティアの細腕を絡め取り、手の甲が合わさるように後ろ手にみっちりと縛り上げる。


「じゃあダナエを離しなさいよ!」

「だーめ。この子開放したらティアちゃんを送れなくなっちゃうもん」


 本当にぶっとばしたい。


「そんな顔しないで足上げてよ。ほらいっちにー、いっちにー」


 太ももを掴んでいる枝が急に動き出し、太ももを強引に上げさせる。地面と水平になるほどに高く上げられてバランスが崩れそうになるが、胴と腕に巻き付いた枝がそれを阻止して背筋をぴんと真っ直ぐにさせる。

 次いで胴を縛る枝がぐいぐいと空間の穴へと押し始め、ティアのからだは確実に穴へと歩き出していく。


「やめろ! ダナエ! これを外して!」

「だめだってば。諦めが悪いわね」


 このとき浮かべた冷笑。いやでも思い出す。

 何度目かの自傷のあと、病院で目を覚ました時に、あの女が見せた顔。

 あれと同じ顔だった。


「覚えてなさいよダナエ! あたし絶対諦めないから! あんたと今日のこと笑えるようになるまで、あたしあんたのこと諦めないから!」


 言い終えると同時にティアのからだは空間の穴に押し込められ、枝ごと穴は閉じられ、その境目で枝は切断され、くたりと地面に落ちた。


「さ、邪魔者は片付いたから。次はあなたよ」


 くるりと振り返ったカトレアが目にしたのは、ダナエの頬を伝う、ひと滴の光だった。


*        *         *


「ああもう。どこよ、ここ」


 押し込まれた穴が閉じると、ティアを拘束していた枝は力を無くしてぼろぼろと剥がれ落ちた。落ちた枝のひとつを手に取り、魔力を込めて繊維に解いて糸を紡ぎ上げ、無地の布を取り出してある紋様を縫い付ける。

 ぎゅっと握りしめてティアは呟く。


「ごめん、ダナエ」


 自分にもっと魔力があれば、ダナエにあんなことをさせずに済んだのに。

 自分がもっとうまく戦えればあんな女に負けることは無かったのに。

 自分が魔女になったばかりの百年前はよく戦っていた。

 あの頃はまだ、人間が魔女についてうまく折り合いを付けられなかった。大切な家族を奪われたと逆上した男たちが森を焼き払おうと、松明や武器を手に押しかけてきたことも珍しくなかった。

 あるいは心が壊れ、森の魔力を浴びて醜い人獣に成り、森を人里を破壊して回った。

 その度に叩きのめした。

 そして男たちが放つ悪意を、魔獣になった女たちの記憶を土地に縫い付け、森が育つための養分とした。

 呆然とする男達にティアは決まってこう言うのだ。


『いま土地に縫い付けたあなた方の記憶や邪気は、五十年かけてあなた方の里を国を滅ぼし、残った土地は森が覆い尽くします。

 あなた方は今日この日の記憶と、魔獣になった女への感情を丸ごと失います。

 あなた方の身勝手な行動で滅ぶことが確定したのに、あなた方はその原因を伝えることができなくなります。

 さようなら。

 二度と会うことは無いでしょう。

 どうぞ、ご自愛ください』


 魔力の森が育てば人間の国などあっさり呑み込まれるのに、ティアはただ静かに暮らしたいだけなのに、一時の劣情で男たちは子孫たちに国を残すことが出来なくなった。

 その原因を森が育つ養分に還元されたことにも気付かないまま。

 カトレアとの戦いで使った魔布は、その頃に作ったものばかりだ。


「まだちゃんと使えて良かった」


 使ってみても違和感は無かったから、能力そのものが落ちているわけではない。

 ただ単純に、自分が弱いだけだ。

 やめよう。

 嘆いても状況は変わらない。

 ふう、と息を吐いて手足をぶるぶる振って感覚を確かめつつ周囲を見回す。

 グレーだった。

 光でも闇でもない、どんよりとした曇り空のような空間が、前後左右足元から天井からまで無限に広がっている。

 あの女に負けてダナエに酷い目に合わせて落ち込んでいるのに、こんな風景見せないで欲しい。


「ああもう。魔女王に会えばいいんでしょ」


 魔女王、と言うぐらいだから魔女なのだろう。そう決めつけて、自分以外の魔力を探る。


「……こっち、かな?」


 糸くずにも満たない小さな魔力を感じ取り、ティアは歩き出す。

 暫く歩いてみても、風景は一向に変わらず、自分が歩いているかどうかの感覚すらあやふやになってきた。


「やっぱり出口探した方がはやいかな……?」


 あの女のことだ。そんなものが用意されているとは思えない。あるかどうかも分からないものを探して時間を失うより、さっさと用事を済ませて魔女王にここから出すよう頼んだ方がはやい。どんな相手かは分からないけど。

 それに、感じる魔力は少しずつ強くなってるからもう少し歩いてみる。

 動いていないとダナエのことばかりが頭をからだを支配してしまうから。


「大丈夫かな、ダナエ」


 祖母や姉に傅かれ、名も素性もよく知らない女たちを手駒のように扱って、そんな資格が本当に自分にあるのか、この百年間、ずっと抱えてきた。

 魔女とはどういう存在なのか、ひいては自分が本当に魔女なのかどうかも、実のところ疑問だったのだ。

 頭の中に刻まれた知識と、人間では出来ないことが出来るから、どうにか自分をそうだと思い込ませていた。

 けれど、ダナエと出会って初めて自分が何者であるか認識できた。

 自分は、魔女だ。

 これからも魔女として生きていこう。


「急ごう」


 この気持ちをダナエに伝えるためにも。


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