第14話 カーニャ

「お疲れ様でした。コーヒーと甘い物を用意してありますから、どうぞ」


 地下室からリビングへ戻ると、フィーロが恭しく出迎えてくれた。

 カーニャもこちらを見つけると、涙混じりの笑顔で飛びついてきた。


「お帰りなさいませ! 旦那さま! ダナエさま!」


 反動で階段へ落ちそうになるが、後ろからダナエが支えてくれて助かった。


「うん。ありがと。心配してくれて」


 ぺろぺろ顔を舐められていることに安心する。


「ほらほらカーニャ。ダナエさまが困ってらっしゃるわ。戻りなさい」

「……はぁい」


 三角耳をしょんぼり倒しながらカーニャは舌を手を離し、下がる。

 その仕草がかわいくて、ティアは思わず後ろから頭を撫でてやる。


「きゃふんっ」


 ぴんっと三角耳が立ち、しっぽがものすごい勢いで振られる。きっと抱きつきたいのを懸命にがまんしているんだろうな、と思うと胸がきゅん、と高鳴る。


「出発なされてからずっと、部屋をうろうろしたりぼーっとしたりで、宥めるのが大変だったんですよ」

「もう、言わないでよ、そういうことは」


 むくれるカーニャの肩を押してティアは一緒にソファに座り、ダナエはテーブルを挟んだ向かいのソファに。コーヒーカップを三人分と、お茶請けのクッキーを入れた底の浅いボウルをテーブルに置いたフィーロは遠慮して部屋の隅に移る。

 フィーロの背中を見ながら、ダナエがおずおずと言う。


「え、遠慮せずともよいではないか。……隣に座って、その、頭を撫でてはくれぬかえ?」

「で、ですが」


 困ったようにティアを見るフィーロ。


「ダナエがそう言ってるんだしさ、座ってよ」


 複雑そうに笑ってフィーロはダナエの隣に、少し間を空けて座った。

 ばっと顔をフィーロに向けて、ダナエは恥ずかしそうに口を開く。


「わ、わらわには母親の記憶が無いのじゃ。……あとは、わかるの?」


 あら、とおしりから体を寄せ、そっとダナエの手を取り、


「お帰り、ダナエ。無事で良かったわ」


 ゆっくりと頭を撫でる。

 ぼっ、と湯気が見えるほど顔中真っ赤にして、それでも倒れなかったのは元王族のプライドだろうか。

 フィーロはゆっくりとからだを離し、ダナエの言葉を待つ。


「う、うむ。結局なにもめぼしいものは見つからなかったがの、それでも、うむ。こうやって帰りたいと思える場所が見つかったのは、僥倖じゃの」


 うふふ、と上品に微笑むフィーロ。

 そんなふたりを訝しげに見ながらティアが口を挟む。


「なに真っ赤になってんのよ。あんた国中の女に唾付けて回ってたんでしょ?」

「そ、それとこれとは話が違う!」

「それに男離れしたときにあんた、フィーロに唾付けようとしてたじゃない」

「あ、あれは! まだ魔女としての自覚と覚悟が足らなかっただけじゃ。……いまなら分かる。こうやって抱きしめてもらうことすら、過分な願いなのだと言うことも」

「そこまでへりくだらなくてもいいわよ。あんたはお客さんなんだから、みんなの機嫌次第だけど、貸すぐらいはするよ?」

「ば、ばかもの! 肉親を貸すとか申すでない!」

「だーかーら。そういうのは関係無いんだって」


 しかしのう、とごにょごにょ呻くダナエに、フィーロがしっとりと言う。


「では今宵は夜伽に参りましょうか?」

「だからそういうのは過分な願いであると!」


 助けを求めるダナエに、ティアはあっさりと返す。


「別にいいよ? あたしそういうことは丸っきりダメだからさ」

「旦那さまの許可も下りましたが、どうなさいますか?」


 今度は意地悪く微笑み、ダナエの反応を待つフィーロ。


「あのねあのねダナエさま! フィーロってとっても「じょうず」なんだよ! 情熱的で、愛情たっぷりで、あたしいっつも叶わないんだ!」


 手を上げて元気いっぱいに追い打ちをかけるカーニャに、ダナエは混乱するばかり。


「な、なんじゃそれは! そちたち元は血縁があったのじゃろう!」

「いまは魔獣ですので。人間のような倫理観なんて、とっくに無くなっていますもの」


 しっとりと。耳にするすると落ちてくるフィーロの声音は、ダナエの心を激しく揺さぶる。

 ふらふらと右手がフィーロの頬に伸び、指は触れる寸前、弾かれたようにダナエは手を引っ込めた。


「な、な、……ならぬ。わらわはあくまでも客人(まろうど)。わらわが手を出すのはわらわの民だけと、最初のひとりの時に決めたのじゃ。それだけは忽(ゆるが)せにできぬ」


 あら、と明るく微笑み、フィーロは頭を下げる。


「ご無礼をいたしました。どうぞ、ご容赦くださいませ」

「よい。そちもわらわのことを思っての言動であろうし、わらわもそちの夜伽を想像してしもうたのじゃから、責めることはできぬ」


 はい、と微笑み、次の瞬間にはダナエを抱きしめていた。


「こ、これ。よいと言うに」

「夜伽を期待させておいて、お預けをした代償です」


 抱きしめたまま背中と頭をゆっくりと撫でられ、目を合わせていたずらっぽく言われ、ダナエはゆっくりとフィーロの背中に腕を回した。

 そうしてふたりがしばらく抱き合っている間、カーニャがうらやましそうにティアを見つめるので、ティアは苦笑しつつ両手を広げる。満面の笑顔で抱きつき、何度も頬ずりしている。


「……やはり、よく分からぬの。そちからの愛情はひしひしと伝わるが、これはわらわが欲しかったものとはズレておるような気がする」

「当然ですわ。わたしはダナエさまの母堂では無いのですから」

「頭では分かっておったのにの。じゃが、ただ抱きしめ合うことでも、十分ぬくもりは得られることは分かった」


 からだを離し、自虐的に笑う。


「……あのような狼藉をせずともよかったのじゃな」

「ダナエさまのようなお優しい方に抱かれたのなら、きっとその方々は幸せだったでしょう。あまり卑下なさらないでください」


 世辞はよせ、と鼻をかいて、しっかりと視線を合わせてダナエは言う。


「わがままを叶えてもらって、感謝する」


 いえ、と目を伏せるフィーロ。さて、とティアにからだを向ければ、ソファの上でカーニャとじゃれついていた。


「なにをしておる」

「あたしも、人肌恋しくなってさ」


 悪びれた様子もなく言って起き上がり、カーニャの頭を撫でる。


「でも、魔女って心が壊れてるから、そういうことしてもらっても端からこぼれていくからね。それを悲しんだりする気持ちも、一緒に壊れてるからありがたくはあるんだけど」

「そうなのかえ? 十分満たされておるが、のう」


 自分の胸を撫でてみたり、フィーロに視線を投げかけてみたりするダナエだが、ティアは冷たく言う。


「気のせいよ、それ。人間だった時の記憶がそう思わせてるだけ」

「なぜそこまでそなたに言われねばならぬ。わらわがそう感じたのじゃから、それで良いではないか」


 まったく、と鼻息をひとつ吐いてダナエはカップをひと口。


「ひとつ、訊きたいのじゃが、良いかえ?」


 いいよ、とティアが促し、うむ、と頷いてダナエはこう切り出した。


「わらわはあの城で大勢の者に見られながら生きてきた。それは当たり前のことであったし、あの者たちとの意志の疎通はやれたから不満は無かった」


 なにを訊きたいのかよく分からないが、まだ続きがあるようなのでティアたちは頷くだけ。


「じゃが、あの学校、という所は不思議な所じゃの。見える人間たちに触れることも言葉を交わすことも叶わぬのに、気配ばかりが濃密に感じる」


 一旦切ってカップを口に。


「それも、女子(おなご)に共通する、甘く、柔らかな気配じゃ。目を閉じて浮かぶ映像は学び舎とは真逆の、後宮で戯れておるようなとろとろとした感覚を味わった。ティア、そちはどう感じておる?」


 問われてティアは、首を捻りながら学校に居るときの感覚を思い返す。


「……、あたしは、そんな風に感じない……かなぁ。普通の学校としか思わないし」


 首を傾げるダナエ。

 えっとね、とティア。


「あたしたちが人間だった頃はね、あたしたちぐらいの年齢の子は大体みんな、ああいう所に通って勉強してたの。だから違和感とか、あんたが言うような感覚は感じたことは無いの」


 ダナエは首の傾斜がさらにすすみ、もう横倒しになっている。


「それだけでは無いと思うがのう……」

「そんなこと言われてもさ、あたしが作った場所じゃ無いんだし」


 ふむ、と首を戻して頷き、


「まあよいわ。わらわがあそこに行くことはもう無いじゃろうからの」


 そうだね、と頷くのを待ってダナエは続ける。


「ともあれ、図書室にもめぼしい情報は見当たらなんだ。これから先、どうすれば良いかのう」

「それなんだけどさ」


 言って、図書室で繋げた糸を懐から取り出す。


「あ、これ、お守り?」


 そう言ってカーニャが糸に手を伸ばし、触れる。

 瞬間、糸とカーニャの間に光が生まれ、カーニャを包む。


「カーニャ?!」

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