第12話 カトレア
「おお、白いのう」
学校に到着して開口一番、ダナエは歓喜の声を上げた。
「雪国とはこんな感じなのかのう」
「雪国でも建物の中は降らないでしょ」
「む、そうじゃったな」
すっかり興奮した様子で豪快に笑う。
もっとおしとやかな子かと思っていたけど、とティアはダナエへの評価を改めた。
「あたしも、教室と図書室に行く道ぐらいしか知らないから、あまり期待しないでね」
「うむ。ではまず教室とやらに行こうではないか」
「だめよ。先に図書室へ行くの。はやく終わらせたいから」
む、と小さくうなってダナエは頷く。
「そうじゃの。今日は急いだ方が良いじゃろうの」
「ありがと。見学はまた今度ね」
「あのような姿を見せられたというのに、もう忘れておった。すまぬ」
「いいよ。気にしなくて」
魔獣がやったことだし、と振り返るティアの言葉尻に聞こえたような気がしたが、気のせいだとダナエは思うことにした。
「こっちよ」
そうとだけ言ってティアはずんずん歩き出す。
「ま、待ちやれ」
慌てて追いつこうと小走りになってもまるで追いつけない。
それどころか、どれだけ足を動かしても進んでいる感覚がない。
まるで夢の中で走っている時のような。
苦しい。
風呂場でふざけて溺れかかった時のように、いくらもがいても苦しくなるばかり。
ティア、と呼ぼうとしても声が出ない。
校舎が引き延ばされ、光が無くなり、漆黒の空間に放り出され、
「もど……って、来た……?」
気がついた時には地下室に立ち尽くしていた。
ふうう、と深呼吸。
「わらわは、招かれざる客、なのじゃろうな」
もがいている最中に感じた、なにかどす黒い感情。
自分が知る中で一番近い感情は、嫉妬。
ならば、もう一度入ったところで追い返されるに違いない。
「ここで待った方が良い……のじゃろうかのう」
山や森で遭難した時はその場でじっとすること。
「それは分かるが……」
このまま戻れば、カーニャがどれだけ心配するのか想像もつかない。
ポケットの中に葉っぱと木の枝が入っていることを確認。
閉じられているクローゼットの取っ手に手をかけ、開く。
「行くとするかの。何度戻されようと」
「あれ、ダナエ? どこ行ったの?」
図書室の前まで来て後ろを振り返ってようやく、ティアはダナエが居なくなっていることに気付いた。
「もー。勝手に歩き回ってるんじゃないでしょうね」
自分でもあれだけ言っていたんだからそれも無いだろうけど、あれだけはしゃいでいたのだから、とも思う。
「まあいいや。あたしひとりで探せばいいし」
この図書室に置かれている書物の文字は、もう失われて久しい。
百年前、自分たちが人間だった頃に暮らしていた国の文字。そしてその国も、当時各地で生まれていた魔力の森に呑み込まれ、明日にも滅びようとしていたから。
自分たちはそのときの記憶があるから読めるけれど、ダナエが魔女に成った時にすり込まれた知識の中に、この言語が入っているかは分からない。
「……なんで連れてきたんだっけ」
こちらが知らない、いまの人間たちの知識からなにかヒントが得られるかも知れないから、だったと思う。
きっとそうだ。そういうことにしよう。
雑に疑問を解消したところでドアを開ける。
「いらっしゃい。ティアーボさん」
知らない女が、入り口から左手にある貸し出しカウンターの向こうから話しかけてきた。
以前見た、ダナエに雰囲気が似ている少女とも違う、もっと大人の、教師と言われた方が納得できるような女が、有無を言わせない笑顔を浮かべていた。
誰だこいつ。
繰り返しになるが、学校の生徒とおぼしき者たちとティアは意志の疎通を図ることも触れることもできない幻。
この学校に他人を招待したのはダナエが初めて。フィーロたちでさえ学校に入れたことは無い。
そんな空間に見知らぬ女がいる。
驚きもあったが、違和感からくる気持ち悪さに遠慮無く眉根を寄せる。
「……誰?」
それとなくカーニャのお守りに視線をやる。危険が迫ったら締まる、と言っていたが、反応は無い。
浮かべる笑顔の奥に敵意は感じないが、悪意はひしひしと伝わってくる。警戒心だけは解かないでおこうと決めた。
「ここじゃ名前なんてどうでもいいものよ。どうしても、って言うなら、カトレアって呼んでちょうだい」
鬱陶しい。
この女の態度もそうだが、よく知っているはずの誰かの影がカトレアの背後にチラついて、思い出せない苛立ちと思い出したくない苦しみがそれを増幅する。
「ここは、あたしの学校です。あなたを招待した覚えは無いんですけど」
「やぁだ。そんな邪険に扱わないでよ。……ちゃん」
言葉尻に小さく、名前を呼ばれた。
自分の名前はティアーボなのに、その名前はひどく耳馴染みがあった。なんだこいつ。
「邪険に扱われたく無いなら、その鬱陶しい口調と態度をどうにかしてください」
「それもイヤよ。わたしはこういう風にしか喋れないんだもん」
だもん、ときた。
だめだ。冷静になれ。こういうとき相手のペースに乗ったら負けだ。
「用が無いなら、あたしはここで調べ物するんで絡んでこないでください」
ふい、と顔を背け、右手側の書架へ向かう。
「やぁだ。せっかく会えたんだから、おしゃべりしましょうよ」
「いやです。怒りますよ」
「怒ったらどうするの?」
くすくすと笑う仕草がさらに鬱陶しさを増す。
「ぐーで殴るぐらいしますけど?」
「あらこわい。でも大切な手をそんな風に使っちゃだめよ。刺繍ができなくなっちゃうわ」
「あたしの手はあたしの手です。どう使おうとあなたには関係無いです」
「そんなこと言ってはダメよ。あなたを産んでくれたお母、」
「あの女のことはもっと関係ない!」
ティアの怒号はしかし、カトレアの肩をわざとらしくすくめただけに終わった。
「あら怖い。おんなのこがそんな大きな声出しちゃだめよ」
この女には何を言ってもだめだ。
そういう相手にまともにケンカしても、こちらの神経がすり減るだけ。
依然、お守りに反応は無い。ならば直接的な危険は無いということ。きっとカーニャはこの女のにおいを感じ取っていたのだろう。
カーニャが、姉があんな風に乱れるなんて初めてだし、こんなに心配してくれるなんて嬉しくて仕方がない。ダナエからすれば魔獣が喚いてうるさく感じたかも知れないけど、自分にとっては大切な家族だ。
カーニャのことを思い出したら怒りも鎮まっていく。
やり方を変えよう。
ふうう、と大きく息を吐いて、それでも鋭くカトレアを見る。
「心配してくれてありがとうございます。でも、誰かに言われて直せるなら、もっと前に自分から直してます」
それもそうね、と肩をすくめるカトレア。
ケンカに勝つには相手を観察し、情報を得ることが必須だ。答えるとは思えないが、取りあえず訊いてみる。
「どうやってここに入ったの」
「あら、わたしに興味持ってくれたの? うれしいわ」
カトレアの姿が揺らいだ、と思った次の瞬間、ティアの全身に蛇が巻き付いていた。
「えっ」
違う。蛇だと思った相手はカトレアだった。
足に腰に背中にぴったりと全身を絡みつかせ、振り解くよりも早く両手首を掴み、耳元に囁く。
「じゃあ、まずはあなたのことを教えて」
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