第10話 愛の定義
「ダナエさま、起きてください。リングラウズの方がいらっしゃっています」
む、と気怠そうにまぶたを開け、差し込む陽光にもう一度閉じ、大儀そうにからだを起こす。薄目で里の方向を見ると確かに過日の大尉をはじめとする兵士たちと、
「おお、おお、ダナエ。こんなところで野宿とはなんとも不憫な。早く城へ帰って暖かくて柔らかいベッドで眠りなさい」
でっぷりと肥え、いついかなる時に聞いても嫌悪感しか生まない声音の男があった。
「バセ王、わらわにもまだ多少なりとも人間としての恥じらいは残っておる。顔を洗い、髪を整える時間ぐらい与えてくれぬか」
「お、おお、おお。そうだな。悪かった。出発前に顔を洗った方が良いものな」
やはりか、とつぶやき、大尉を見やる。
大尉はひどく恐縮した様子で深々と頭を下げる。ならば仕方ないの、とダナエは立ち上がり、鋭くバセを睨み付ける。
「そち、報告を聞いておらなんだか?」
「ど、どうした急に。お、親を睨むなんて、不作法にもほどがある、ぞ」
「そちが何かわらわに教えたことがあったか」
低く小さく。だが猛獣のうなり声にも似たそれは、兵士たちをたじろがせるほどに強い怒気を孕んでいた。
「そちは何もせなんだな。智慧のひとつも行儀作法のひとつも教えようとせず、ただ怠惰な日々を送らせておった事も忘れたか。痴れ者め。子を、王女をなんと心得るか」
「愛しているに決まっているに、き、決まっているじゃないか。だから不自由な思いをさせないよう、勉強も作法も教えなかった。着替えも食事も全てメイドにやらせた! これ以上の愛があるか!」
ダナエの後ろで控えるウルラの全身が総毛立ったのが、視線をやらずとも伝わってきた。 あるいはウルラも人間だった頃には子の一人も居たかも知れない。
す、と右手をウルラの眼前に出し、早まった行動をしないよう制する。しかし、とほんの小声で抵抗されて、そちの主でも無いのにの、とダナエは少し嬉しく思った。
視線はバセに向けたまま、出した手をゆっくりと動かしてそっと撫でて落ち着かせながら、ダナエは言う。
「そんなものが愛であってなるものか!」
落雷。
真の怒号は大気を、聞く者の内蔵までをも揺さぶるのだと、ウルラと大尉は思った。
「よいか。親が子にしてやれることはただひとつじゃ、愛をもって叱るというただ一点。それを成人すらしておらぬ小娘に言われてそち、恥ずかしくないのか!」
あれほどの怒号を受けてなお、バセはしばらく呆然とダナエを見つめ、やがて徐々に言葉が脳へ全身へ染み入ったのか、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「う、う、うるさいっ! おまえは、お前はダナエじゃない! ダナエは、わたしのダナエはこの森で死んだんだ!」
だだっ子もここまで行けばいっそ清々しい。
次になにを言い出すのかとどこか期待さえしてダナエはバセを見る。
「森を焼け! 森で死んだダナエを荼毘に付すんだ!」
しかし、いくらバセが怒鳴りつけても、兵士たちは目を伏せるばかりで背中の荷物から覗き見える松明を手に取る者はだれひとりいない。
笑うなと言う方が無理だろう。
「笑うなぁっ!」
ダナエの嘲笑にバセは顔を深紅に染めて怒鳴り返す。それでも動こうとしない兵士たちに焦れ、兵士のひとりに飛びつき松明を奪い取り、
「火、火はどうすればつく! おい! 付けろ! 森を焼くんだ!」
火を付ける方法が分からず、かといって誰も火種を用意することもない。松明を持ったまますっかり混乱してしまう。
「底が知れたの、バセ王。そちには愚王と言う評価すら過大じゃ」
「うるさいうるさいうるさいっ!」
「愛娘といいながら蝶よ花よと愛でるばかりで何も与えず、妻を失った哀しみを癒やすために後宮へ入り浸っても、そこの女たちはみなわらわの虜。そちに向ける笑顔もみな作り物であったことにも気付けず、さらに国防を担う兵士たちからの信頼も地に落ちた」
「魔女が! 人の世界に口出しするな!」
あの程度の男が怒鳴り、睨み付けてもダナエにすればそよ風に等しい。
生まれてからいままで抱えていた不満を一気にぶつける。
「そうなった王が取るべき道はふたつ。潔く腹を切って次代に託すか、愚王の誹りを受け、城の国の誰からも相手をされずに玉座にしがみつくか。どちらか選ぶがよい」
「う、う、うわああああっ!」
やはりそれを選ぶか。ダナエは嘆息する。
バセは持った松明を掲げ、ダナエへと向かってくる。その姿のなんと滑稽で無様なことか。一歩進む度に腹の肉が大きく波打ち、構えも児戯の方がマシに見える。なによりも圧倒的に遅い。
ウルラが前に出ようとするが、やはり片手で制し、足元の葉っぱを拾って舐める。
「そちの言う通りじゃ。ダナエ・ロニ・セネカはこの森で死んだ」
すい、と人差し指をバセに向け、念じる。
「な、なんだぁっ!」
ぎゅるるる、とバセの足元から木の根が無数に飛び出し、肉塊を絡め取る。
「遺伝子、と言うらしいのじゃ。それを取り込んでわらわは植物を自在に操れる。そんなことまで分かってしまう。誰に教えられたわけでもないのに、の」
「だ、だからなんだ!」
「このまま絞め殺すにせよ、そちの手に刀を握らせて腹を切らせるにせよ、どちらも容易なことぐらい、いくらそちでも分かろう?」
ひ、とバセの顔が青ざめる。
「しかしの。そち程度の血でこの森を穢したくないのじゃ。分かったら早う去ね!」
拘束を解き、振り返らせ、どん、と木の根で背中を押す。
たたらを踏んで、持っていた松明が重かったのか、バランスを崩してべしゃっ、と顔面から転んでしまう。
兵士の中から失笑が起き、バセはだだっ子のように手足をじたばたと暴れさせる。
「うーーーっ! うーーーーーーっ!」
泣きわめかないのは、ほんの一欠片だけ残った矜恃だろう。
「それが、そちが歩んできた四〇年余りの歳月の帰結じゃ。その思いを抱えたまま、独りきりで余生を過ごすがよい」
「やだぁ……、いやだぁ……、帰ってきてよぉ……」
「本当に心底子供なのじゃな」
この男もダナエと同じように、親から何も与えられずに育ったのだと、この男の乳母から夜伽の時に聞いたことがある。
十才の時に父を亡くし、ただ座っているだけで良いのです、と大人達に玉座に据えられ、本当になにもしてこなかったのだと。
「ええい、いつまで泣いておる。早うせぬと串刺しにするぞえ」
言われてやっともたもたと起き上がり、それでも立ち上がることはせずに、こちらに半分だけ顔を向けて女座りになってさめざめと泣き始めた。
鬱陶しいことこの上ない。
「あああもう、仕方が無いのう!」
葉っぱを一枚拾い上げて噛み千切り、左腕を水平に上げ、右手を文字通りの手刀に変えて左脇から上へと素早く通す。
すぱん、と軽い音とともにダナエの左腕は鮮血と散らしながら肩からずれ落ち、地面に触れる寸前で右手に拾われる。すまぬの、と左腕に向けて呟き、
「ほれ、これが餞別じゃ。防腐も施した故、後生大事にするがよい」
そのまま左腕をバセの足元へ放り投げる。
どちゃ、と湿った土音を上げて転がる左腕をバセは呆然と見つめ、やがてそろそろと手を伸ばす。
「ああ、ああ、ダナエだ。ダナエだ。お帰りなさい。心配したんだからね。もう絶対離さないからね……」
ぬいぐるみでももらった幼子のように、バセは左腕を抱きしめ、においを嗅ぎ、頬ずりまで始めた。付け根から落ちる血に豪奢な衣服が汚れようとも委細構わず、一心不乱に。
こぼれ落ちる涙には、歓喜以外の色は見えなかった。
失笑を零していた兵士達もこの有様には顔を青くし、兵士のひとりが腰の刀に手を伸ばしたが、大尉が鋭く制した。ダナエの意志を尊重してのことだ。
「すまぬ。早う持っていってくりゃれ」
大尉も、バセは眼中に入っていない。ダナエの傷口を心配そうに見つめ、
「いま、救護兵を」
兵士のひとりへ視線をやる。
「お主には苦労をかけるの。じゃが、気遣いは無用じゃ」
今度は小ぶりな枝を拾って咥え、蛇がそうするように丸呑みする。右手で血の滴る左肩を押さえ、何事か呟き、一気に離す。
傷口から、ずわっ、と音を立てて木の枝が伸びた、と思った束の間、表面を皮膚が覆い、瞬く間に遜色ない左腕へと変貌した。
何度か手を握ったり開いたりして感覚を確かめ、大尉へ顔を向けて笑う。
「の。そちたちには不快に見えたじゃろうが、わらわはもうこういう存在じゃ。済まぬ」
その小さな額からは大粒の汗が溢れ、呼吸も荒い。
「いえ。正直、見惚れてしまいました」
「世辞はよい」
しかしまんざらでもないようだ。
「それより、早う持って行ってくりゃれ。それの処置はこの森から離れたらどうとでもすればよい」
は、と重く頷く大尉。
「それと、王家はそれの死後解体するのじゃぞ。わらわのような精神的奇形児をこれ以上量産するわけにもいかぬ。……必要な書類があれば持ってくるがよい。リングラウズ王家当主代理として署名するからの」
は、と答える大尉はもう滂沱の涙を流している。見れば他の兵士たちも泣き崩れ、嗚咽をあげている。
ダナエは苦笑するばかり。
「男(お)の子(こ)がそう易々と泣くでない」
「泣いてなどおりません!」
「それよりも、リングラウズの行く末、頼むぞえ」
兵士たちは涙を拭い、かかとを合わせて敬礼。
「はっ!」
大尉以下全員の唱和が森に木霊する。
うむ、と頷くダナエの頬を伝うのは、汗か、それとも。
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