第8話 惜別と

「見えてきました」


 大騒ぎしていたのも束の間。

 眼前に広がる絶景の虜になったダナエは、むしろ静かにウルラに掴まれ運ばれている。


「そうかえ。色々と感謝する」

「いえ。主の命ですので」


 ウルラほどの魔獣となれば、風のながれを感じ、読み取れば常に前を向いている必要は

ない。話す時は顔を下に、できるだけ視線を合わせるようにするのが彼女の礼儀だ。


「……あの者は、良い従者に恵まれておるのじゃのう」


 ダナエも少々首に疲れを感じながらも顔を上げてウルラと視線を合わせる。


「いえそんな。わたしは、旦那さまをお運びすることしかできません」

「そちの物腰を見ておれば分かる。こう見えてもわらわは女の扱いに一家言あるのじゃ」

「もったい無いお言葉にございます」

「わらわにも、できるのかのう。そちたちのような良い魔獣に巡り会うことが」

「……こればかりは、縁、としか申し上げることができません。わたしは森の魔力に惹かれて魔獣になりましたが、ティアーボさまが主で良かったと心底思います。……ほかの魔女さまにお目にかかったことは、ダナエさま以外無いのですが」


 言って舌をぺろ、と出す。

 人間が魔獣になるには主に二種類の方法がある。

 ウルラのように森の魔力に導かれて森に入り、本人が望む生物と同化して魔獣に成る方法と、いまダナエが運ばれていることの遠因であるプレディカのように、森の魔女に直接魔獣へ成る方法の二種類だ。

 ふふ、と笑ってダナエはそうかえ、とつぶやき、視線を前方に。

 広大な森が唐突に途切れ、民家が点在しているのがダナエの黄金色の瞳にもくっきりと映し出される。

 この森に来るための口実に使った、無人となった里だ。

 家の壁や地面には赤黒い染みがいくつも広がり、最初に調査に来た兵士たちが作った土まんじゅうも見える。屋根にはカラスが並び、ぎゃあぎゃあと鳴いている。

 来たばかりの頃は土まんじゅうも無かったあの惨状を見た時、さすがのダナエでも気分が悪くなった。

 けれどいまは。


「……ほんとうに、心が失われたのじゃのう」


 なにも思わなかった。


「魔獣になる者は心が破壊され、心の器が壊れている方が魔女さまになるのだと聞いております。旦那さまもそうですが、魔女の方々は完全に心を失ったわけではありません」

「気休めはよい。それよりも、下ろしてくりゃれ」


 かしこまりました、と頷いてゆっくりと下降を始める。枝葉に触れる寸前、ウルラは力強く羽ばたいて隙間を造り、そこへ滑り込むようにダナエの足先を入れる。彼女に万が一にも傷つかないように。

 ふわりと地面に降り立ち、そうと気付かないようにウルラは足を離し、右後ろに降り立つ。顔を少しだけそちらにやって「大義であった」と礼を言って正面、かつて里だった場所へ視線を向ける。

 簡素な鎧を纏った兵士が数人。彼らからすれば突風と共に現れたダナエとウルラに一瞬驚き、すぐにダナエであると認識した兵士のひとりが一歩前に出て恭しく一礼する。他の兵士たちもその後ろで片膝を付き、顔を伏せる。


「これは、ダナエ姫様。ご機嫌麗しゅう」


 顔に覚えがあった。なんとかという大尉。入隊してから苦労ばかりの経歴を歩み続け、家に帰れば妻の尻に敷かれる日々。

 ダナエもその妻に唾を付けたが、あのときの勢いに任せて手当たり次第に、という状況でなければ二度と顔を合わせたくないと唯一人思った女だった。


「相変わらず苦労しておるようじゃの」


 言って他の兵士たちの顔も見る。これでも元王女。兵士たちの顔ぐらい覚えているが、その母親や姉妹、妻や恋人の顔やあられもない姿がすぐ隣に浮かんでしまう。

 彼女たちへの惜別の念がじわりと湧くが、表に出ることは無かった。


「は、お心遣い、痛み入ります」

「わらわはもう姫でも人間などでもない。肩苦しい挨拶は止めるがよい」

「我らにとってはダナエ殿下は変わらず姫君にあらせられます。ご容赦を」


 仕方ないのう、と嘆息してダナエは懐から分厚い手紙を少佐に手渡す。


「あの男に突き返してくりゃれ。用向きがあれば聞いてやる故、直接言いに来いと」

「……我々も、殿下ならそう仰ると進言したのですが……」

「なんだかんだ理由を付けて手紙をしたため、そちたちに押しつけたと言うことか。痴れ者め。娘に会うだけではないか」


 呆れと諦めをふんだんに含んだ長いため息を零し、ダナエは言う。


「まあよい。首に縄を付けて引きずって来るがよい。あの男がおらずとも国は問題なく回るが、わらわは魔女に成ったばかり。森から離れることは叶わぬからの」


 落ち葉を一枚拾い、ちろ、と舐める。人差し指を大尉の隣にいた兵士に向ける。疑問符を浮かべる兵士の足元から木の根が無数に伸び、全身を絡め取って地面へ縛り付けてしまう。


「の。わらわはもう人間ではない」


 ぱちん、と指を鳴らすと兵士を絡めていた木の根はしゅるしゅると地面に戻っていく。開放された兵士はたたらを踏むが、苦しそうな様子は無い。


「……」


 大尉たちは押し黙るばかり。


「案ずるな。わらわはここで何日でも待つ。そちたちが森に入る必要は無いぞえ」

「姫様……」

「情けない顔をするでない。そちたちは国防を担う兵士であろう。わらわはもう居らぬが、あの国でかつて王女であった身からの頼みじゃ。あの愚王を呼んできてくりゃれ」


 大尉は唇を噛みしめ、肩を震わせてゆっくりと頷く。


「魔女ダナエ殿よりのご依頼、しかと、しかと承りました……っ!」

「良い顔じゃ。平時からその顔をしておれば、そちの妻も見直すやも知れぬの」


 はは、と照れくさそうに耳をかき、大尉は振り返る。


「聞いたとおりだ。一度帰国し、王へ進言する」


 はっ、と返事をする兵士の中には涙を流す者さえ居た。


「ああ待ちやれ」足元から落ち葉を掬いあげ、両手に乗せ、ふうううっ、と息を吹きかけて兵士たちに飛ばす。「護符じゃ。億にひとつも無いであろうが、この一件が片付くまでの間、そちたちの命を凶刃から守ってくれよう」


 一斉にダナエに向き直り、直立不動となる兵士たち。

 大尉が大音声で言う。


「恐悦至極に存じます!」


 それはそれは、見事な敬礼だった。


「うむ。頼んだぞえ」

「はっ!」


 見送るダナエの瞳に浮かぶ色は、あるいは郷愁だったのかも知れない。


    *        *        *


「どうだった?」


 ダナエを森の端に置いたまま、ウルラは報告のためにティアの元へ戻っていた。


「リングラウズ王と面会されるおつもりです」

「直接お別れ言うつもりかぁ。後腐れ無く終わるといいけど」

「ダナエさまの話を聞く限り、王としても父としても賢い人間ではないようです」

「まあ、あんな分厚い手紙出してくるぐらいだもんね」


 さりとて。父あるいは夫と縁を切ることは、森で暮らすことへの第一歩となるので喜ばしいことなのだ。


「帰ってきたらお祝いしてあげようか」

「追い出すんじゃ無かったんですか?」


 くすくすと笑みを零しながら、フィーロがコーヒーを出してくれた。


「さっき泣いたらすっきりしてさ。それほどイヤじゃなくなったみたい」

「そうですわね。わたくしたちの男離れは、この姿になってから行ったわけではありませんから」

「おばあもそう思う?」

「わたしもー」


 足元で丸まっていたカーニャが横座りになって手を上げ、だらしなく笑う。


「いまの旦那さま、昔みたいで好き」

「昔って人間だったころ?」

「うん。旦那さま、魔女になってからずっと怖かったから」


 そうかも知れない。

 特にカーニャは一八〇度性格が変わってしまったから、そのことへの苛立ちも無かったとは言い切れない。


「お姉ちゃんはすごい柔らかくなったけどね」


 お姉ちゃん、と呼ばれて、カーニャの瞳の光が変わった。昔の、お互い人間だった頃によく見た力強い光だ。


「あの頃は、しっかりしなきゃって思ってたから。でも魔獣になって旦那さまに傅くようになって、すごい楽になったんだ。妹の手本になる必要が無くなったんだもん」


 口調も人間だった頃のそれに近く、久しぶりに見る姉としての彼女にティアはどこか嬉しさを感じた。


「あれお手本だったの?」


 とてもそうは思えない。

 できない自分を冷たく睨んで、いつも口うるさく叱って。


「そうよ。ああいうやり方しか出来なくて、ごめん」


 いいよ、と笑顔で返して、


「いまのゆるゆるのお姉ちゃんも好きだけど、あの頃のキリッとしたお姉ちゃんもまた見たいな」


 べぇ、と舌を出して、いたずらっぽく笑うカーニャ。


「やーだ。あたしはもう旦那さまの忠犬なんだから」


 ぺたん、とおしりと両掌と足の裏を床に付ける犬座りになる。

 口が真上になるように顔を上げ、「わおーん」と遠吠えのまねごとをやった。


「かわいいよカーニャ。あたしだけの犬。おいで、撫でてあげる」

「わんっ!」


 ぴょん、とティアに抱きつき、しっぽを激しく振りながらぺろぺろと顔を舐める。


「やだ、くすぐったいってば」


 今度はぎゅうっ、と抱きしめ、ティアにしか聞こえない音量でなにか囁く。


「もう。お姉ちゃんったら」


 えへへ、とだらしなく笑うカーニャの髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜてやる。


「やぁん。旦那さまったらぁ」

「あらあら。仲良しさんね」


 微笑むフィーロに笑いかけ、カーニャの背中も頭も全身くまなく撫でてやる。

 暖かい。

 ぬくもりが、心地よかった。

 心なんてとっくに壊れているのに、そんな風に感じた。

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