第6話 初めての・・・

「ただいまー」


 リビングは静かだった。ソファにはダナエが、その近くの床にはカーニャが安らかな寝息を立てている。

 真っ正面の窓には雨粒が幾筋も跡を付けているが、風が窓を揺らすこともなく、新しく雨筋が付くこともない。嵐は学校に行っている間に収まったようだ。


「お帰りなさいませ旦那さま」


 開けたドアのすぐ側でフィーロは深々とお辞儀をし、上げた唇に自分の指を当てて小声で言う。


「お疲れでしょう、お風呂になさいますか?」


 んー、と少し考え、同じく小声でティアは返す。


「フィーロにご褒美が先、かな」

「そ、そそ、そんな。もったいのう御座います。あのときのあれは、言葉のアヤと言うか、冗談と言うか……」


 頬を染めながら狼狽するフィーロがかわいい。


「約束は約束。ほら、こっちおいで」


 指を顔の前でぐちゃぐちゃに絡ませながら、ちらちらとティアの顔を見て、やがて意を決したようにしずしずとティアの前に歩み寄る。黒目がち、と言うより白目の無い彼女の瞳は星空をちりばめたように輝いている。

 むふ、と口角を上げ、ゆっくりとフィーロの頭に手を乗せる。瞬間、ぴく、と肩が震えた。かわいい。


「いつもありがとね」


 ゆっくりと撫でる。彼女の髪は人間の時と変わらない艶とうるおいたっぷりのアッシュグレイ。けれど生え際から、黒く短い触覚が二本、鈍く光っている。


「これって触ってもへいきだっけ?」

「あ、や、やさしくしてくだされば……」

「んふふ。じゃあちょっとだけ」


 触ってみるとしっとりしていてほんのり暖かい。


「や、やぁ、んん……っ」

「もう、変な声出さないでよ」

「旦那さまの手つきが、その……」

「ひとのせいにしないでよっ」


 ふうっ、と触覚に息を吹きかけてやる。


「ひゃうんっ!」


 びくんっ、と全身を振るわせた。


「はい、おしまい。かわいいよ、フィーロ」

「ひゃ、ひゃい……っ」


 蕩けきった口から漏らすように返事をして、それでもどうにか崩れ落ちなかったのは僅かばかりに残った、従者としての矜恃だろう。

 どうにか歩きだそうとした瞬間、


「フィーロばっかりずるい」


 背後からカーニャに抱きつかれて、無様に床へ顔から倒れ込んでしまう。 


「こらカーニャ。だめでしょ」

「だってぇ」


 ぶー、と唇を尖らせる。こういう表情はあまり見たことが無いから新鮮でかわいい。


「じゃあお裾分けしてもらったら?」


 適当なことを言いながら、テーブルの器に並べてあったクッキーをひとつつまむ。表面サクサク、中はしっとり。砂糖の加減も絶妙な一品はフィーロの自信作だ。


「それする!」


 啓示を授かったように瞳を輝かせてフィーロのからだをひっくり返して仰向けに。そのまま口を開けてフィーロの顔へ近付き、


「やああん、舐めちゃ、だめぇっ」


 ぺろぺろと触覚を舐めだした。


「変な味ー。でも旦那さまの味もするー」


 舐める範囲は徐々に広がり、顔から首筋から余すところなく舐める。


「や、やめなさい、カーニャぁっ!」


 よだれまみれになりながらもフィーロは叱りつける。が、舐めることに夢中になり始めたカーニャには届かない。

 カーニャの山吹色の瞳に捕食者の色が宿り始めるのを、フィーロの瞳に怯えの色を見てティアはようやく立ち上がる。


「はい、そこまで」

「きゃわんっ!」


 カーニャの三角耳を鷲掴みにして落ち着かせる。


「フィーロもカーニャもあたしの所有物よ。勝手に食べようとしちゃだめでしょ」

「はーい……」


 三角耳をさすりながらカーニャはフィーロの上から退き、するすると下がる。


「ほら、顔洗ってきて」


 フィーロに手を差し伸べて立ち上がらせ、タオルを手渡す。


「あ、ありがとうございますっ」


 べとべとの顔を見られたくなかったのか、足早に洗面所へと向かうフィーロ。背後から哀しそうな気配を感じ取ったティアは、振り返らずに言う。


「謝るなら早い内がいいよ」

「うんっ」


 たたたっ、と軽い足取りでカーニャはティアの脇をすり抜け、洗面所へ繋がるドアを開ける。

 ふう、とため息を吐いてソファに向かうティア。


「いつも、こんな感じなのかえ?」


 びっくりした。

 すっかり忘れていた。


「だっ、ダナエ、起きてたの?」


 彼女のことを忘れていた動揺はありありと表情に出ていたようで、ダナエは一度じろりと睨み付けて言う。


「あれだけ騒げばいやでも起きる。それよりも、答えてくりゃれ」

「え、ああ。毎日じゃないわよ。魔女になったり魔獣になったりした頃は、気持ちとか記憶とかからだの事とかでみんな不安定だったからケンカもしたけど、ね」


 ふふ、と含み笑いをするティア。


「うらやましいのう。わらわにはそういう相手は無かったからの」


 そう、と呟いて、ティアは対面に座る。


「からだは? 頭をかき回される感覚はあった?」

「いや、そういうものは無い。どちらかと言えば快適じゃの」


 またもそう、とだけ返事をして考える。自分の時は結構苦しんだ覚えがあるのに、ダナエにその兆候は見られない。カーニャだったらずるい、とか言いそう、と思うと口元がほころぶ。


「なにを笑うことがある」

「ちょっとね。……そうだ、舌見せてくれる? 魔女化がどれだけ終わったか見ておきたいの」

「舌? そんなものを見てわかるのか」

「あたしがそうだから、ってだけよ」


 べぇ、と舌を出して見せるティア。


「……? おお、なにか刻まれておるの。ぼんやり光っておるし、見たことの無い文字じゃの」


 でしょ、と舌をしまってダナエを見る。


「い、痛みは無いのかえ?」

「うん。食べ物の味もなにも変わらないよ」


 もごもごと口の中を動かしているのは、自分で確かめようとしているのだろう。


「ふむ。まあよいか。見てくりゃれ」


 言って口を開けて舌を出す。

 ゆっくりと出された舌は赤いゼリーのように艶やかで、照れなのか緊張なのかふるふると震えていて、カーニャでなくても美味しそうと思ってしまう。

 けれど、それだけ。

 ティアのように複雑な模様と文字が刻まれているわけでもない、ただの舌だ。


「なにこれ」

「そちに分からぬものがわらわに分かるものか」

「それは分かってるんだけどさ。んー……?」


 首を捻っても、どれだけ目をこらしても、自分のような文様が見当たらない。


「舌以外の場所に現れているのでは無いでしょうか」


 見かねてフィーロが口を出す。首からタオルをかけている姿と、丁寧な口調がギャップとなってかわいい。


「あ、そっか。ありがと、フィーロ。ついでに手伝って」


 はい、と恭しく頷いて、タオルをかけたまましずしずとふたりの元へ歩み寄る。


「な、なにをする気じゃ?」


 ダナエにもティアたちが何をしようとしているのかの察しは付いている。


「全身見るに決まってるでしょ。ほら、さっさと脱いで」

「ま、待ちやれ。なぜそこまで印の確認を急(せ)く。魔女になることが確定しておるのなら、ここでそちたちに、は、肌を曝す必要もあるまい」

「そんなの、さっさと出て行って欲しいからよ」

「なんじゃと!」

「ひとつの森に魔女はひとりだけ。魔女になったらあんたは魔女の居ない森へ行ってそこで暮らすの」

「わ、わらわはまだ成人の儀もしておらぬのじゃぞ。そのような弱き者を……」

「魔女ならへいきよ。あたしだってそれぐらいの年に魔女になったんだし」

「殺生じゃ!」

「だーめ。この森はあたしの森。主の命令は全員が服従するの」


 フィーロに視線を送ると、そっと両手を挙げて十本指それぞれから糸を放出する。

 あ、と反応した直後にはダナエの四肢はフィーロの糸に絡め取られ、完全に自由を奪われてしまった。


「あんたさっき言ってたじゃない。国中の女の人に唾付けて回ったって。それってそういう意味でしょ? だったら今更恥ずかしがることなんてないでしょ」

「愛しておらぬ者の前でそんなことができるか! この痴れ者が!」

「うわ、いまのちょっとひどくない? 仮にも一国の王女さまのお言葉とはとても思えないな」


 くすくすと意地悪く笑うティアの前で、ダナエの手は勝手に自身の上着の裾に手を伸ばし、いまにも捲り上げてしまいそうだ。


「わ、わらわの愛は、このような強引、な、ものではないっ!」


 羞恥からか、必死の抵抗からなのか、ダナエは頬を額を赤く染め、呼吸も言葉も途切れ途切れになっている。しかし、やはり力は魔獣であるフィーロの方が上。か細いダナエの指は裾を掴み、徐々に徐々に捲り上げていく。

 慎ましやかなヘソが見え、鎖骨まで真っ赤になった刹那、ダナエは顔中口にして叫んだ。


「や、や、止めぬかぁっ!」


 瞬間、ダナエの全身がまばゆく輝き、四肢を拘束していた糸がほろほろと解け、床に落ちていく。

 完全に自由になったダナエは床にへたり込み、裾を直し、鋭くティアを睨み付ける。


「なんだ。ちゃんと魔女になってるじゃない」


 フィーロの糸を解いたということは、魔力を放出できたということ。放出するだけの魔力があるならば、少なくともその肉体は魔女に成ったということ。

 印はここからでは分からないが、きっと衣服の下のどこかにあるのだろう。


「な、なんじゃその言い草は! ひとを辱めておいて、いけしゃあしゃあと!」

「怒鳴らないでよ。刻印は出来てるんだから、さっさと出て行ってね」

「それは! ……変わらぬ、のじゃな。いまなら分かる。魔女としての知識と智慧が頭の中に湧き上がってくるのが、感じられる故な」


 かつて自身も経験した感覚を言われ、ティアは目を伏せる。感じているのは郷愁だと気付いて驚いた。まだこんな感情が残っていたなんて。


「旦那さま。そうご無体なことをおっしゃらずとも良いではないですか」


 柔和な笑みを浮かべながらフィーロが提案する。


「やめてよちょっと」

「自分がそうだったからと言って、他者にも同じ事を強要するのは不条理です」

「だからおばあ、あたしの話を」

「理(ことわり)を司り、魔を使役するのが魔女さまの役割なのですから、それを踏みにじる行為を見過ごすことはできません」

「だからって、捨て猫育てるのとはわけが違うのよ? 森に二人以上魔女が居たら、秩序が壊れる。現にフィーロだってあたしに……」

「違いますわ、旦那さま。わたくしの意志もからだも旦那さまのためだけに存在します。それだけは覆りません。カーニャをはじめとする他の魔獣たちも同じです」


 嘘や偽りは無いと感じられる。


「ですがこれは、人間であった頃は母であり、旦那さまとカーニャの祖母であった身から言わせていただく言葉です。ダナエさまの覚悟が決まるまでの間、せめて半年は同居しても良いのではないでしょうか」


 深く深く頭を下げるフィーロ。ふと見れば隣でカーニャも頭を下げている。

 思い出したくも無いのに思い出してしまう。

 人間だったころ、母が出て行ったのは自分の責任でもあるのだと。

 ふたりもきっと、思い出しているのだろう。

 数少ない人間だったころの記憶を。


「……分かったわ。半年よ。それまでに出て行きなさい」

「本当か!?」

「しつこい。これ以上言うならいますぐ」

「分かった! ありがとう! フィーロ、カーニャ!」

「あと、この家と森のルールには従ってもらうから。王女さまだってことは、今後一切忘れること。いいわね」

「心得た!」


 満面の笑顔で右手を挙げるダナエ。

 ちらりとフィーロたちを見ると、彼女たちも穏やかに笑っている。

 まあいいか。ふたりが笑っているなら。

 面倒ごとは増えるだろうけど、自分ひとりが面倒を見るわけじゃないし、と割り切ってティアはダナエを受け入れることにした。

 自分に絶対服従しない相手と暮らすなんて、魔女になってから初めての経験だった。

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