第4話 もう遅い

 プレディカが森で暮らすようになって、十日ほどが過ぎた。

 他の魔獣たちも新入りをうまく受け入れ、誰に命じられたわけでもないのに森の門番のようなことをやっている、とウルラから聞き、ティアはひとまず安堵した。

 この森の魔獣は、ティアが必要性を感じて産製したものや、森そのものが欲して変化(へんげ)したものばかりだ。そのことに他の魔獣がよからぬ感情を抱き、行動に移すのでは、と気にかけていたのだ。


「珍しいですわね。旦那さまが魔獣のことを気にかけるだなんて」


 そう言いながらコーヒーを出してくれたのはフィーロ。

 アッシュグレイの髪は腰まで届き、声音はしっとりとした低音。人間だった頃はティアの祖母だった彼女は、その当時から容姿は年齢を感じさせず、まなざしも声音も理知的で、一緒に出かける度に誇らしく思っていたものだ。

 いまのフィーロの姿は、人間だった頃と変わらない抜群のスタイル。ヒジから先と腰から下を黒と白のまだら模様の短毛が指先まで覆っているが、見た目にはタイツを着ているようにしか見えず、そのスタイルの良さも相まって美しさは人間だった頃の比では無くなっている。


「うん。自分でもびっくりしてる」


 ず、とコーヒーを口に。今日も美味しい。


「そういえばコーヒー豆の備蓄ってまだある?」

「え、ええ。まだ一年ほどは大丈夫かと」


 主の真意を測れずにいるフィーロに、ティアはなんでもない、と微笑み、コーヒーをもう一口。

 不安そうに眉を寄せつつ、フィーロは話題を変える。


「今日は、学校へは行かないのですか?」


 いつもならとっくに学校へ向かっている時間だ。なのに今日はリビングでコーヒーを飲んだり呪い避けの刺繍を始めたりと、仕度さえしようとしない。


「今日は行かない。たまには一緒にコーヒー飲もうよ」

「旦那さまがそうおっしゃるなら、そうしますけど……」


 釈然としないままフィーロは自分のためのコーヒーを淹れ、はす向かいに座る。


「そうだ、カーニャも呼びましょうか。遊びに行っていますから、呼べばすぐ戻るでしょう」

「あ、いいよ。呼ばなくて。最近運動不足だ、って言ってたし」


 そうですか? と、どこか嬉しそうに座り直してカップを口に。


「わ、わたくしは、ずっとずっと旦那さまのお側に居とうございます」


 頬を染めながら、恥ずかしそうに言うものだから、思わずどぎまぎしてしまう。


「や、やめてよ、急に。恥ずかしい」

「だって、普段はカーニャが旦那さまに張り付いていますもの。こういう時でなければ言う機会なんてありませんもの」

「伝わってるよ。フィーロの気持ち」

「でも、口にして伝えたいのです。そういう後悔がきっと、人間だった頃にはあったのでしょう」


 ありがと、と返してティアは言う。


「あのさ、おばあ」

「どうしました? 改まって」

「人間だった頃の記憶って、まだ残ってる?」

「どうでしょう。旦那さまとカーニャが大切な家族だ、ということはくっきりと覚えていますが、それ以外の記憶は……夫だった者のことすらもうまく思い出せません。……きっと愛していたはずなんですけれど、もう旦那さま以外の存在を愛することもできなくなっていますから」


 そう、と寂しそうに答えるティア。


「いまはプレディカ、でしたか。あの少女に深く関わりすぎたせいでしょう」

「そんなんじゃ、ないよ」

「魔女さまはわたくしたち魔獣と違って、心が残っていらっしゃいますから。最近は学校にもよく通われていましたから、人間なんかに肩入れしてしまった。わたくしはそう考えます」

「……怒ってる? 人間に関わったから」

「いえ。元が学者ですから。疑問には答えを出したいだけですわ」


 言って上品に笑う。その笑顔に裏を感じなかったティアはカップを口に運ぶが、中身が空になっていることに気づき、苦笑する。


「ああ、申し訳ありません。おしゃべりに夢中になって空にしてしまうなんて」

「いいよ。そんなに喉渇いてないし」


 主に気を遣わせてしまったことに反省しつつ、フィーロは立ち上がる。


「旦那さまー。カーニャですー。お客様をお連れしましたー」


 間延びする声がドアの向こうから響き、まったくもう、と立ち上がったフィーロがドアへ近付く。主に視線で確認し、ドアを開ける。

 そこには簡素な鎧を纏った兵士がひとり。やや緊張した面持ちで用件を述べた。


「この森の主、ティアーボ殿に火急の用があり、参上しました」

「まず名乗りなさい。人間」


 先ほどまでのティアとの柔和さなど何処へやら。冷水を浴びせられたように兵士は背筋を伸ばし、顔中を口にして言う。


「し、失礼しました! わたしはリングラウズ王国より調査のため派遣されたレゲンス・シルーロスと申します」

「火急の用とはなんです」

「ここより南西にある里が、数日前から無人となり、その原因を調査しに参上したのですが、ティアーボ殿がなにかご存じないかと、」

「我が主を疑うのですか!」

「い、いえ! 決してそのようなことは!」

「フィーロ。そんなに怒らないの。怖がってるでしょ」


 いつの間にかフィーロの後ろに居たティアが、苦笑交じりにフィーロを窘める。


「しかし、この者が……」

「半分ぐらいはあたしに責任あるからさ」

「まさか、プレディカがやったとおっしゃるのですか?」

「他に原因無いでしょ。人獣が出た、って報告はどこからも来てないし、この森で人間の里に手を出すような魔獣って、プレディカぐらいしか思いつかないし」


 そこに思い至らなかった自身を恥じ、フィーロはレゲンスに向き直って頭を下げた。


「無礼を」


 まさか誇り高い魔獣が謝るとは思っていなかったレゲンスは、恐縮したように手を振って返す。


「い、いえそんな。我々も誤解を招くような言い方をしてしまいました」


 フィーロの脇から頭を覗かせて、レゲンスに問いかける。


「それよりさ、調査団のひとたちは、魔力避けの装備は持ってるの?」

「そ、それが、その……」

「じゃあこれあげるから、持ってて。人獣なんてまっぴらごめんだもの」


 魔獣は心が完全に失われた女が成り、人獣は心が壊れた男が成る。男が人獣が成る経緯はただひとつ。

 森に愛する女を奪われた嫉妬だ。

 奪われた女を取り戻そうと男は愚かにも魔力の森に入り、女に捨てられ、欠けた心の隙間を森の魔力が支配し、嫉妬の炎に自我を心を焼き尽くされ、ただ女を取り戻そうとする執念が破壊衝動となって肉体を支配し、森の主たる魔女に駆逐される。ただそれだけの存在だ。

 だがまれに森に近付くだけで人獣と成る男もいるので、ティアは呪い避けの刺繍を施した布、魔布(まふ)の束を渡したのだ。


「あ、ありがとうございます」


 受け取った束をレゲンスは後ろに控える兵士たちに配り、それを押し分けてきたひとりの少女に道を譲った。

 ドアの前で少女は腕を組み、胸を反らしてこう言った。


「話は終わったかえ?」


 衣服はさすがに平服で、裾や袖口にほつれが見える。

 少女の無礼な物言いに、フィーロは嫌悪感を顕わに叱る。


「名乗りなさい」


 ふふん、と鼻を鳴らし、少女は良く通る声で名乗った。


「わらわはリングラウズ王国第一王女、ダナエ・ロニ・セネカじゃ。魔女殿、お初にお目にかかる」


 優雅なお辞儀もティアにはまるで響かず、冷めた目と声で返す。


「王女サマが何のご用でございますか?」

「なに。魔女殿には個人的にいろいろと訊きたいことがあっての。調査団に同行しておるのじゃ」


 ふぅん、と頷いて、ダナエをじろりと見る。


「あたしが教えられることなんて無いわ」

「そんなことを申すでない。態度に不遜があるやも知れぬが、わらわは文字もろくに読めぬ愚者。「教わること」を学んだことが無いのじゃ。許してくりゃれ」

「なにそれ。いくら王族だって読み書きぐらい教えるでしょ」


 ダナエは自嘲とも叱責とも取れるため息を吐く。


「あの男は、ただ愛でることしかせなんだ。後宮に入り浸るばかりで後妻も取らずな。腹いせに国中の女に唾を付けてやったが、気付く様子は一向に無い。そんな愚者の血を引いておるのじゃ、わらわは」

「愚者って言う割に、話し方とかしっかりしてると思うけど?」

「我が国にも女史ぐらい居(お)るわ。それに、何事も学ぶには夜具の上が一番じゃからの」


 くふ、といたずらっぽく笑う。


「じゃあどっちにしても、あたしが教えられることはないから」兵士たちに顔を向け、「用件はこれで全部?」

「あ、ええと、里の片付けなどをするため、本国から兵士がかなりの規模でやってくると思います。ここからは離れていますが、騒がしくなりますし、荼毘の火や煙も出ます。そのことをご了承頂ければ、と」

「ああうん。いいよ。こっちも森に火の手が回らないように魔獣を何人か見張りに出すけど、怖がらないで、って伝えておいて。あと、さっき渡した呪い避けの布をちゃんと付けておくこともお願い」


 ありがとうございます、と頭を下げ、兵士たちは立ち上がる。


「では我々はこれで失礼します。姫様、帰りましょう」

「いやじゃ。わらわはもっと話すのじゃ」

「わがままをおっしゃらないで下さい。我々の言うことを聞くと出発前に約束したじゃないですか」

「ふん。あんなもの、森に来てしまえばいくらでも反故にするつもりじゃったわ」


 手で追い払う仕草をして、にひひ、と笑う。


「聞きたいことも話したいこともたくさんあるのじゃ。……なにから話そうかのう」


 すっかり根が生えてしまったダナエに困り果てた兵士は、懇願するような視線をティアに向ける。


「もう遅いわよ」

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