第3話 王女ダナエ

 リングラウズ王国。

 ティアの森にほど近い、人口約一万のれっきとした大国だ。

 主な産業は魔力の森から提供される糸を使った織物。

 魔力の森が世界を覆い、国々が物理的に分断されたこの世界で、ここまでの国力を保持しているのは奇跡に近い。

 その理由は、主産業にある。

 魔力の森は食材や資材が豊富だが、ある呪いがかけられているために採取は困難だった。

 が、森の魔力を僅かに含む糸から織り上げた衣服を着ていればそれも緩和されるので、ここまでの国力を保持できているのだ。


「里が、消えただと?」


 リングラウズ王、バセ・トルペード・リングラウズ五世がその報せを聞いたのは、爽やかな朝日の中での食事中だった。


「森に呑まれ、里が消えることは珍しいことではあるまい。わざわざ食事の最中に聞かせる話にしては、いささか緊急性が低いぞ」


 ナイフとフォークを手にバセは不満げに伝令兵に言う。

 簡素な鎧兜に身を包んだ兵士は、緊張が極限に達したのか、必要以上のボリュームで続ける。


「しかし! ひと夜で人間が全て消失したのであります! 森に呑まれたのとは、状況があまりにも違います!」

「ならば人獣にでも食われたのだろう。近隣の里に兵士を増員して対処すれば良い」

「しかし!」

「しつこい。これ以上朝餉の邪魔をするでないわ」


 ナイフを置いて、右手で追い払う仕草をすると、入り口に控えていた近衛兵が伝令兵の両脇を抱え、部屋から連れ出してしまった。

 静かにドアが閉じられると、バセは意気揚々と食事を再開した。

 このときの決断をバセは最期まで後悔するのだが、たとえ最善策を尽くしたとしても、結果にどれほどの差が生まれたと言うのだろうか。




「その話、詳しく聞かせてはくれぬか」


 落胆する伝令兵にそう声をかけたのは、リングラウズ第一王女ダナエ・ロニ・セネカだ。

 今年で十四になるダナエだが、オレンジと紺を基調とした豪奢なドレスに身を包み、熟れた仕草で命令する姿はとても年齢を感じさせない。


「え、あ、ご、ご機嫌麗しゅうございます」


 しどろもどろに挨拶をする兵士の袖口を掴み、ダナエは「ここでは父上に聞かれてしまうからの」と部屋から離れた物陰に引きずり込んだ。


「では、存分に話すがよい」

「は、はあ」


 ダナエは獲物を見つけた猫のような笑みを浮かべつつ兵士から話を聞き、また兵士も王女から王へ説得してもらうために多少の脚色を付けて話した。


「わかった。民草の不安を解消するのも王族の務め。ダナエの名において調査団を派遣することを命じる」

「あ、ありがとうございます!」


 兵士の喜びも、次の瞬間にはあっさり霧散してしまう。


「わらわも調査に同行しようではないか」


 面食らう、とはまさにこのときの兵士の姿を言うのだと思う。


「な、なりません! 姫殿下は城から出すなと陛下からの厳命が!」


 狼狽する兵士をくふふ、と笑い、ダナエは人差し指を突きつけて言う。


「ほんに、男と言うものは愚かよのう。このわらわがそのような窮屈な言いつけを守っておると本気で思うておるのじゃからな」


 兵士はあからさまに呆れ、次いで吹き出る冷や汗を拭いながら反論する。


「か、仮に殿下が城を抜け出していたとしても、」

「仮にではない」


 ぴしゃりと言われ、兵士は数瞬押し黙り、しかし諦めずに反論を続けた。


「調査は城から遠く離れた、おそらく人獣が跋扈する危険な里です。万が一のことがあれば、私ひとりの責任では済みません」


 涙ながらに懇願する兵士に、さすがにダナエも眉を寄せ、


「仕方ないのう。下がってよいぞ」

「お、お聞き届けくださいましてありがとうございます」


 深々と頭を下げ、兵士は逃げるようにその場を去って行った。


「あのような下っ端では話が通じぬか」


 当然、この程度のことでダナエが諦めるはずは無かった。




 バセ王の教育方針はただひとつ。徹底的に甘やかすことだ。

 ダナエが欲しいと言えば大枚を積んで取り寄せ、あるいは職人を呼びつけて造らせ、とにかく嫌われないように王は務めた。

 ダナエが普段を過ごす自室もまた贅を極めた造りであり、小さなグラスひとつ取っても庶民が一生遊んで暮らせるほどの価値がある。

 精緻な細工を嫌み無く施された天蓋付きのベッドに腰掛け、ダナエはしばし作戦を練る。

 やがてぱん、と手を打ってベッドから飛び降り、近衛長アルマ・エスクードを呼びつけ、事情を話した。


「し、しかし、こればかりはいかに姫様の命であっても……」


 絶世の美女。アルマを評するのにこれ以外の言葉は必要ない。切れ長の瞳とゆるくウェーブのかかった長髪は鮮やかな黄金色。豊かな双丘は老若男女を問わず羨望のため息を零させ、張りのある美声はバセ王ですら逆らえないと言う。


「んー? なにを申しておる。わらわは調査団に人員がひとり増える、と書いた書類を作れ、と言うただけじゃぞ?」


 だがここに、唯一アルマを支配下に置く存在がいる。


「そちの母をあの男の後宮から引き抜き、そちたちの家を復権させただけでなく、こうやって地位も名誉も仕事も与えてやった恩も愛も、そちは忘れたと申すか?」

「そ、そのようなことは、決して!」

「別に構わぬのじゃぞ。きょうこの日よりそちを夜伽から外し、そちの母を迎え入れるだけじゃ。ヴェロス、じゃったの。幾分薹(とう)が立っておるが、それだけ技術にも長けておる。以前夜伽に……」

「わ、わかりました! 殿下のご命令通りにいたします!」


 にまぁっ、と満面の笑みを浮かべる。アルマもいまばかりはこの笑みが悪魔のものに見えて仕方が無かった。それもまた、ダナエへの心酔を深める要因になってしまうのだが。


「それでよい」

「本当に、お気を付けてくださいませ。姫に万が一のことがあれば、わたくしも民も希望を失ってしまいます」

「そのような顔をするでない。今宵の夜伽はそちにしてやるからの。わらわが居らぬ間の寂しさを感じさせぬほどに愛してやるから、覚悟をしておくがよいぞ」


 だめだ。

 この笑顔を見せてもらえるのなら、命など惜しくない。

 掛け値なしにそう思えてしまえるほど、アルマは子宮(こころ)からダナエを崇拝してしまうのだ。




「さて、やるかの」


 一糸まとわぬ姿で安らかな寝息を立てるアルマの頬を撫で、同じく一糸まとわぬダナエは月光降り注ぐベランダに出る。


「外に世界があるなぞ、知りたくも無かったの」


 手すりに背中を預け上体をのけぞらし、すぐ上階にあるバセの寝室を見つめる。


「惜別の念も沸かぬとはの」


 深く深く吐いたため息は、あるいは自分に向けたものだったのかも知れない。


「父上、愛することは保護することではありませぬぞ」


 毎夜こうして語りかけてみても、改善されることはただの一度も無かった。

 恐らくはこれからも、そして父自身が死したとしてもそれは続くのだろう。

 愛と呪いは、その根源に同じ感情を抱いているのだから。


「まあよい」


 くるりと裸身を捻って手すりに手を置き、城下町とその遙か向こうに広がる魔力の森を見つめる。


「こんなにも心が躍るのは、初めてやも知れぬな」


 自身が生まれた場所が緩慢な牢獄だと気づき、打開しようと幼いなりに考え、動き、父親だと周りが言うあの男がただの愚者であると思い知らされ、戯れに侍女を抱いたのは五年前。

 城で働く全ての女に唾を付けるまでに一年もかからず、城下町にまで繰り出しては自分と同い年以上と知れば醜女であれ老女であれ夜を共にした。

 強要したつもりはない。

 どれだけ心を固く閉ざしている者であっても、ダナエの手にかかればたちまち氷解し、翌日には笑顔で人々とふれ合っていた。

 女達がダナエとのことを口外することは無く、男達は振り向けられる笑顔の前に、次第にその源流を探ることをしなくなった。

 愚王の支配に淀んでいた人々の表情に笑顔が溢れ、国は活気を取り戻した。

 楽しかった。

 心地よかった。

 なのに、ダナエの心が満たされることは、一切無かった。

 自分の心には穴が開いている。

 あるいは愛を満たす器そのものが無いのかも知れない。

 これが、最後の機会なのだろう。


「よい縁があると良いがの」


 月も星も、ただダナエを包み込むだけだった。

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