第2話 魔獣プレディカ
「連れてって。まだ、生きてるんでしょ?」
ウルラの足に二の腕を優しく掴まれて運んでもらい、森と近くの里との入り口付近で蝶の魔獣に膝枕をされている少女を眼下に見つけても、感情はさざ波ほどの動きを見せなかった。
「なにがあったの」
優しく下ろしてもらってウルラをひと言労い、ゆっくりと少女へと歩み寄ってティアは訪ねた。
「ぼ……っち、姉ちゃん、ごめんね……」
「ごめんじゃない。なにがあったか言いなさい」
「なんでも……ない、よ……。従妹が死んで、おじさんがあたしの責任だ、って殴った、だけだから」
腫れ上がり、ろくに開いていない目で少女は笑う。いや、笑おうとした。口角を僅かに上げた途端、咳き込み、一緒に血も吐き出してしまう。
「なんでもないことないでしょ」
「いつもの……、こと、だもん。血も繋がって無いから、機嫌が良くても殴るからさ、あのひとたち」
大体の事情は察した。
当人が受けた苦しみも含めて、人間の世界ではそれほど珍しい事件では無い。
人間は弱い。心があるから。
魔女は、その力を得る代償として心を壊す。悠久の時を生きる魔女たちにとって、人の脆い心は枷にしかならないからだ。
なのに、少女を見つめるティアを支配するこの感情は何だ。
「……まだ、生きていたい?」
「分からない、よ。生きてても、あのひとたちに殴られる……だけ、なら、もういいかな、って思うし」
「魔獣になれば、生き残れるわ」
「……ほんとう?」
「ええ。でも、あたしを絶対の主人として崇めることになるし、人間の基準でいえばバケモノの姿になるわ。永遠に」
それに、とひと呼吸置いて、
「いまあなたの内にある思いや記憶の大半は一ヶ月もしないうちに消えてしまうわ。血縁者や近親者、それらに対する全ての情念も、全部」
少女は、またうっすらと笑った。
「……なら、魔獣になる」
それ以上少女は語らなかった。
ティアも、追求はしなかった。
「分かったわ」
言ってくるりと周囲を見回し、ティアは近くの木の枝に留まっていたカマキリに目を付ける。
「お前にするわ。来なさい」
手を差し伸べてカマキリを渡らせ、息も絶え絶えな少女の腹に乗せる。
「お前はいまから人間じゃなくなる。名は……、プレディカよ」
こくりと頷く。
それを見届けてティアは袂から針を取り出し、右親指に刺す。ぷく、と溢れ出した血を針に伝わせる。
つっ、と垂れ落ちる血が針から離れるよりも速くティアは糸を取り出し、針に通す。血は糸と交わり、淡く輝き始める。
「魔女ティアーボ・チッチェリーが名において新たな魔獣を産製(さんせい)す」
一歩踏み出し、少女の額、カマキリの頭部、少女の左胸の順に針を通す。双方に痛みを感じた様子は無く、穏やかな表情を浮かべている。
「新名、プレディカ」
少女たちのからだはふわりと浮き上がる。ティアの手から離れた針が、未熟さの残るからだの各所とカマキリの成熟したからだを縫い繋ぎ、やがて糸は繭のようにふたりを包み込む。
糸が放っていた輝きは深紅に染まる。
そして始めは緩やかに、徐々に激しく脈動を始める。
針だけがふたたびティアの手に戻る。
「互いを受け入れて魔獣となり、我に傅け」
ぷつ、と針を繭に突き立てると、薔薇の花が咲くように深紅の繭が解け、中から一体の魔獣が地面に降り立った。
「おはようございます。旦那さま」
目線の高さはティアよりも少し上。頭部と胴体だけはあの少女のものをカマキリの胴に移植した異形がそこに居た。
「手も身体も、自分の意志で人間のものにできるようになってるから」
言われてプレディカはビリジアン色の鎌となった右腕をじっと見つめる。と、もごもごと肉が動き、瞬く間に人間のそれへと変貌した。色はヒジの辺りからビリジアンのまま変わっていないが。
「あ、ありがとう。ぼっち姉ちゃん」
軽々しい口をきいたことにウルラと蝶の魔獣がプレディカを睨むが、ティアはいいよ、と返す。その表情は透明で、場に居る誰もその奥にある感情を読み取れなかった。
「じゃあウルラ、送って」
はい、と片膝を付いてウルラはティアの背後へ飛んで移動し、空中で前後二本ずつの足指を大きく開く。ウルラが主人の肩を掴む直前、んーと、と一呼吸置いて、ティアは視線を逸らしながら言う。
「あんたが欲しくて魔獣にしたわけじゃないし、三日ぐらいなら森を離れてもいいから。あとはあんたの自由にしていいよ」
プレディカには視線を戻さず、両手を広げて合図する。そっと肩口を掴まれたティアのからだは静かに浮き上がり、舞い散る羽根に紛れて樹海の上へ去って行った。
蝶の魔獣もいつの間にかいなくなっており、残されたカマキリの魔獣プレディカは、つい先刻まで暮らしていた里の方向を、じっと見つめていた。
「ただいまー」
送ってもらったウルラに礼を言って見送って、ティアは自宅のドアを開ける。
「旦那さまお帰りっ!」
案の定カーニャが飛びついてきた。踏ん張ってどうにか受け止めて頭を撫でてやる。
「よしよし。留守番ありがと」
「どういたしまして!」
カーニャの声は大きいが不快ではない。元気いっぱいの彼女を見ているとこちらも元気が湧いてくるのでよほどでない限りはそのままにしている。
「お帰りなさいませ旦那さま」
部屋の奥から、ゆったりとした女声が聞こえる。
お互い人間だった頃は祖母だったフィーロだ。
すらりとした長身に、腰まであるアッシュグレイの長髪。腹部から下と、ヒジから先を黒と白のまだら模様の短毛が覆う彼女は、いまは蜘蛛の魔獣としてティアの生業となっている刺繍の為の糸を紡ぐ毎日を送っている。
「うん。ただいま。何か変わったことは無い?」
「問題ありません。旦那さまこそお疲れでしょう。お湯を沸かしてありますからコーヒーになさいますか?」
あくまでも主導権をこちらに置いてくれるフィーロの気遣いが嬉しい。かつては肉親であってもいまは主従なのだとはっきり認識させてくれるから。
「ありがと。ちょっと一休みするね」
「はい。ではソファでお待ち下さいませ」
言ってしずしずと台所へ向かう。頭も体幹もまったくブレないのはいつ見てもすごいと思う。
「あ、旦那さま、雨降ってきたよ。早く入って」
「うん。ありがと。洗濯物は大丈夫?」
「大丈夫! フィーロが早めに取り込んでおきましょう、って言って、わたしも手伝ったから!」
「そっか。えらいえらい」
ドアを潜りながら、もふもふの頭を撫でてやる。
特に三角耳の付け根を撫でられると気持ちいいらしく、きゅうん、と甘えた声で啼くのがかわいい。
「フィーロも、洗濯物ありがとうね」
「いいえっ! 当然のことです!」
うわずる声にティアは苦笑する。
こんなことは過去に何度もあったのに、それでも褒められるのってそんなに嬉しいのかな、と思うがこんなに喜んでくれるならいいか、とすぐに割り切った。
部屋に入ってすぐにコーヒーを淹れる音と香りがティアを包む。
今日はひどく疲れたが、家に帰ってきた実感にそれも吹き飛んだ。
玄関を潜って正面はカーニャが雨の日などに遊ぶための広間が、右手にはリビングと台所があり、風呂場はリビングの奥にあるドアを潜った先に。寝室やそれぞれの部屋は玄関正面の階段から上がった二階にある。
魔女に成った時に三人で造ったこの家に暮らして百年弱。
魔女と魔獣の肉体は不老であり、森の環境も日々や季節の変化はあっても年単位で見れば誤差程度の変化しかない。
ひとりでは、人間の心を持ったままではきっと、とっくに朽ち果てていただろう。
ソファにゆったりと座って、コーヒーを待ちわびながらティアは深く目を閉じる。
明日からの日常も、平穏無事でありますように。
まだ残っている心の底でそう願うが、きっとそうはならないのだと予感する。
プレディカを魔獣に変えてしまったから。
結局あの子の人間の名前、覚えなかったな、とティアは苦笑した。
けれどその思いも、コーヒーを一口飲んだ時にはもう消えていた。
魔女とはそういう種族だ。
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