魔力の森の魔女とひとりぼっちの卒業

月川 ふ黒ウ

第1話 魔女

 大国リングラウズの外れには広大な森が横たわっている。

 魔力の森。

 古くから魔女が棲み、近付いた者を異形へと変化(へんげ)させ、人の心を消し去ってしまう恐ろしい森だ。


「ねー、ボッチ姉ちゃん。遊んでよー」

「いま忙しいの」

「ねーってばー」

「あたしはボッチなんて名前じゃないって何回も言ってるでしょ」

「姉ちゃんずっとひとりで暮らしてるんでしょ? だったらボッチじゃないさー」

「ちょっと引っ張らないで。手元が狂うから」

「そんなのあとにしてさー、遊ぼうよー」


 森の奥深くにある小屋からは、朝からそんなやりとりが繰り返されている。

 椅子に座り、裾を引っ張られながらも刺繍を続ける黒髪の乙女と、遊びをねだる少女。

 端から見れば姉妹のように見えるが、ふたりに血縁は無い。

 黒髪の乙女、ティアは刺繍にひと区切り付いたのか、裏地で糸を結んで器用に歯で切った。まだ糸の通ったままの針は針山に刺して少女に向き直る。


「だいたいあんた、家の手伝いはしなくていいの?」

「いいの。妹が病気になってから、あのふたりはあたしのことなんて見向きもしないんだから」


 拗ねたように少女は言うが、ティアはそれで興味を失ったのか、後ろにある布の束を持って少女の前に置く。見れば一枚一枚に丁寧な刺繍が施されている。


「はい、今月の分。お供付けてあげるから今日は帰りなさい」

「やだ。帰りたくない」


 もう、と鼻息をひとつ。しかしティアの決断は変わらない。


「カーニャ。この子を森の出口まで送ってあげて。あたし出かけるから」

「なにそれずるい。あたしもお出かけする」

「だめよ。魔女しか入れない場所なんだから」

「じゃああたしも魔女になる」

「魔女はなろうと思ってなれるものじゃないの。前も教えたでしょ」

「だって帰りたくないんだもん」


 ふぅん、とだけ返事をしてティアは刺繍を終えた布を手にして椅子から立ち上がる。


「旦那さまっ! お呼びですか?」


 たたたっ、と部屋に駆け込んできたのは、ティアよりも少し年上の女。

 淡い金髪と、なによりも頭頂部にふたつ並んだ三角形の耳。ヒジから先とへそから下、つま先までかけて淡い金色の毛がふさふさと揺れている。


「えー、カーニャ姉ちゃんはあたしが遊んであげる方になるから、やぁだ」

「文句言わないの」カーニャに向き直り、「じゃあお願いね、お姉ちゃん。できるだけこの子のお願い聞いてあげて」

「はい、旦那さま!」


 右手をぴんと挙げて元気よく返事をする。よく見ると、カーニャの後ろ腰から生えるふさふさの尻尾が勢いよく横に振れている。


「よしよし。帰ったらブラシかけてあげるから」

「旦那さまありがとっ!」


 えへへ、と笑うその顔はティアよりも幼く見える。昔はもっとキリっとした姉だったのにな。


「じゃあおばあ、あたし学校行ってくるから!」


 天井に向けて大声で言うと、


「いってらっしゃいませ。旦那さま」


 と艶やかな女声が二階から聞こえてきた。

 祖母はいま糸を紡いでいて手が離せないはずだからこれでいい。

 軽い足取りで部屋の片隅にある地下へ続く階段を降り、ほんのりカビ臭い石造りの地下室の一番奥にある古びたクローゼットを開ける。

 中は真っ白い空間が広がっていて、ティアはよいしょ、と遠慮無く足を乗せて光の中へ飛び込む。


「いってきまーす」


 ティアの姿も声も光の中へ吸い込まれると、クローゼットの扉は静かに閉まる。

 そういえばあの女の子の名前、なんだったっけ、という疑問は、浮かんですぐに消えた。




 光が収まるとそこは、白と黒だけが支配する建物の中だった。

 包む色は白と黒。窓もないのにほどよい光に溢れ、気温もちょうど良く保たれている。

 無事に到着できたことに安堵し、ティアは歩き出す。

 ここに来る度にティアの脳裏に過ぎるのは、彼女がまだ人間だった頃に通っていた学校の情景。

 本当に遙か彼方の記憶なので所々風化しているが、それでも似ていると思う。

 このモノトーンに支配された建物もまた、学校なのだから。

 ティアたった一人だけが通い、学ぶための学校。

 ティア以外は生徒も教師もいない、ティアひとりのためにある学校。

 見渡す限り部屋が真っ直ぐに並ぶ廊下を静かに歩き、三つ目の部屋のドアに手をかけ、横に開く。


「おはよー」


 教室の中には三十名ほどの生徒たちがそれぞれグループで喋っていたり、本を読んでいたりと賑やかに見える。

 しかし、よく見れば生徒たちのからだや衣服の色はなく、輪郭線ばかりがはっきりと見える。

 彼らの言葉を聞くことも、話しかけられることも、ましてやこちらが触れることもティアには叶わない。

 生徒たちの全ては幻なのだ。

 それでも最初はどうにかしてコミュニケーションを取ろうと頑張ったこともある。思いつく限りの全てが徒労に終わってようやくティアは諦め、ただ眺めるだけの存在と彼らとの距離を定めた。

 談笑する生徒たちの脇を素通りしていつも通り、入り口から対角線上の一番奥の机に座る。机に置かれていたのは、紐で綴じられた紙の束。ぺらぺらとめくってみるとびっしりと文字や数字が羅列してある。

 ティアは眉根を寄せて呟く。


「今日は問題集、か」


 机の中にしまってあるペンを取り出し、さっそく取りかかる。

 この量なら夕方までには終わるはず。

 飽きてきたら刺繍をして気分転換。

 食事は魔女のからだにはほとんど不要なので、たまに水を飲む程度でいい。

 かりかりとペンが紙の上を走る音が教室に響く。

 問題に没頭していくと、魔女になる前の記憶がうっすらと脳の片隅に浮かんでくる。

 もっと大勢の人間と、楽しい時間をふわふわと過ごしていたような、そんな記憶が。

 ふいに分からない問題が出てきた。

 んむぅ、と首を捻って考えてみるが、解き方をすっかり忘れてしまっている。放置して次の問題に進むことはティアの性分ではできない。

 無理に進んでも、解けなかったもやもやが後を引いてつまらないミスをしてしまうことが何度もあった。

 決めた。


「図書室に行こ」


 課題の束とペンを手に立ち上がって、教室を後にする。歩いているうちに解法も思い出すかもしれないと期待しつつ。


「失礼しまーす」


 白と黒だけが支配するこの学校で唯一、色を感じられるのは図書室だ。

 天井までそびえる本棚。黒か白か紺が基本だが、時折はっとするほど鮮やかな赤や黄色の混じる背表紙。窓の外はいつも青空。

 と、眺めているだけでも飽きがこない。

 なによりもティアはここの蔵書の数々をいたく気に入っている。

 教科書や資料をはじめとした勉学に関するものは当然として、小説、まんがなどの形式を問わずあらゆるジャンルの物語も収められている。

 誰がどこから集めたのかを訪ねられる相手が居ないのは寂しい限りだが、ラインナップには満足しているのでヒマさえあればここで読書にふけっている。


「っと、参考書探さないと」


 今日の目的は読書じゃなくて勉強。

 それは分かっているが、目的の書架へ行く途中には読みかけの物語がいくつも置かれた書架がある。

 その誘惑に勝てる自信は、はっきり言って無い。


    *


「ただいまー」


 ひょこ、とクローゼットから顔を出し、ほんのりかび臭い地下室へ足を下ろす。


「お風呂でも入ろっかなー」


 んーっ、と伸びをしながら階段を上ると、カーニャが満面の笑顔で出迎えてくれた。


「おかえりなさいませ! 旦那さま!」

「ん、ただいま」


 よしよしと頭を撫でてやるとしっぽを千切れそうな勢いで振り始める。かわいい。


「おばあはまだ上?」

「うん。さっき遊びに行ったら今日は絶好調だからって追い返されちゃった」


 へにゃ、と頭の耳が垂れる。


「そっか。お留守番お願いね」


 もう一度頭を撫でてやると、えへへとだらしなく笑う。ああもう本当にかわいい。

 ひとしきり撫でて、お風呂の用意をするようにカーニャに言いつけ、その間自分はコーヒーでも飲もうかと台所に立つ。


「旦那さま! 旦那さま! ウルラにございます!」


 唐突にドアを猛烈な勢いでノックされて、ティアは思わず肩を震わせてしまう。


「な、なに。どうしたの」


 いつも冷静なはずなのに、と不審に思いつつドアを開ける。

 そこには、両手を翼に、へそから下は羽毛に、膝から下は鳥類のそれへと交換したような姿の魔獣が居た。

 普段は森の入り口などの樹木から、不用意に近付く人間がいないかを見張ってもらっている。


「あの少女が、入り口で倒れています」

「あの少女って、いつも刺繍した布を取りにくる子?」

「はい。その、何者かに暴行を受け、とても危うい状況です」


 なんでこんなことを口にしたのか、ティア自身にも分からなかった。


「連れてって。まだ、生きてるんでしょ?」

 ウルラは沈痛な面持ちで頷いた。


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