エピローグ1 胡桃
俺の怪我は、両足骨折に全身打撲。
最後の夏の大会には当然間に合わなかった。
別にそれで良かった。
俺はもう、十分走った。
ギプスを両足につけ、退院して最初の登校日。隣の席の三代木は、ゴミを見るような目を俺に向けていた。
「アンタ、倉見のこと殴ったんだって?」
きっとこれもまた、俺の罪なのだと思う。
「ああ」
「……サイッテー」
絶対零度の視線が俺を射抜く。
「あたしを殴るのは構わない。あたしらは対等だから。でも、アンタと倉見は違う」
「返す言葉もございませんよ……」
「しばらく口開かないでくれる? DVが感染る」
なんじゃそりゃ、と俺は思ったが口にはしない。
……結果として、俺は三代木に、しばらく無視され続けた。
放課後は担任兼陸上部顧問に呼ばれていた。
誰も居ない第二理科室に連れてこられた。
「お前、女を殴るタイプには見えなかったんだけどな」
「奇遇ですね。俺もそう思ってました」
ははは、とお互い笑う。
「いや、笑いごとじゃねぇからな? 経緯は知ってる。事故から助けて骨折したんだってな。でも、殴ることはねぇだろ。下級生の女子だぞ?」
どういう理由で殴ったのか。三代木と同じ類いの邪推をされている。
多分、こういうストーリーなのだろう。倉見を助けるために骨折して、そのやり場のない怒りを倉見にぶつけた結果の蛮行。
根本的な部分が間違っている。理解して貰おうとも思ってない。
「女を殴るヤツって、サイテーですよね?」
「分かってて、どうして殴った?」
そりゃあ、決まっている。
「自分に対するケジメです」
「お前、自分に酔ってるだろ? いっとくけどな、クズは欠陥持ちにしかモテないぞ? 現に三代木はお前の顔もう見たくないって言ってたしな。お前も気づいてるかもしれないが、あいつはマトモだぞ? 逃がしたら二度と釣れないからな?」
「……それで、いいんです」
「はぁ?」
「それは、俺のやったことですから。俺は結局、そういうヤツだったんですよ」
思ったより、自分を曲げなかったことの代償は大きかったらしい。
でも、後悔はこれっぽっちもしていない。
それが全てだった。
「あ、センパーイ!」
放課後、校舎内ですれ違うと倉見が元気な声を上げる。
頬の青痣を隠すための湿布の匂い。
周囲が俺を見る。
DV彼氏を見るような目が俺に刺さる。
好意的な目を向けてくるのは倉見だけである。
「怪我、大丈夫だったんスか?」
「これが、大丈夫に見えるか?」
松葉杖を指差すと、倉見の視線が落ちる。
「やっぱ、大会は間に合わないッスか?」
「仕方ねぇよ……だから、俺の分も、お前が頑張ること。いいか?」
ぽん、と頭を軽く叩いて俺はこの場を離れようとする。
カッツカッツと、歩きづらい松葉杖の音は超響いた。
少しして、鼻をすする音が聞こえてくる。
振り返ると、倉見が佇んでいた。
もうちょい、上手くやれたらよかったんだが。俺にはこうするしか無かったんだ。
悪い、許してくれ。
結局、市大会は俺も連れていって貰えるようだった。
倉見が来て欲しいと言ってくれたらしい。
顧問に、DVは絶対に辞めとけと言われた。
心外だが、否定する材料はない。
結局、俺は倉見のことは嫌いじゃない。
むしろ大好きだ。
助けられて本当に良かったと思えるほど好きだ。
でも、殴ったという事実だけが俺たちの間にわだかまりとして残っている。
俺にはアイツと付き合う資格はない。
どうせ、あいつも数年すれば俺のことを忘れる。
アイツは陸上短距離を背負って立つ逸材だ。
俺のことなんて、すぐにどうでもよくなる。
元々、なんで好かれているのか分からない関係なのだ。
部内で一番足が速いから?
そんなものに価値は無い。
さて、大会会場へと向かうバスの車内。
倉見は俺の隣に座っている。
「センパーイ! 今日は私の全力疾走を目に焼き付けて貰うッスからねー!」
「そりゃ楽しみだ。でも、転ぶなよー?」
「もちろんッス! あ、せっかくなんで選手控え室まで着いてきて欲しいッス!」
「それは無理。俺だって忙しい」
俺はマネージャーとして帯同しているのだ。
仕事ならいくらでもある。
「じゃあ、せめて競技中はゴールで待ってて欲しいッスー……」
「それぐらいならしてやるよ」
ぱっと、倉見の顔がうれしそうにほころぶ。
単純なヤツである。
……俺もだけどな。
「あんなことをしたのに」その笑顔がまぶしく見える。
車窓へと視線を逸らす。
広がるのは、絶好の競技日和。
空は馬鹿みたいに青々としていた。
倉見は、1年女子100メートルとリレーに出場する。
予選の時点で倉見は参加標準記録、大会記録、県中学記録を更新した。
12秒1。空を飛ぶような走りは健在だった。
「なんか、全然ダメだったっス!」
しかし本人は、テントに返って来るや否やそう愚痴っている。
「そうか?」
「そうっス! やっぱ、センパイが隣じゃないとダメっスね!」
「無茶言うなよ……」
ぷーっと、倉見が膨れた。
「センパイ、やっぱ私のこと嫌いなんでしょ……」
「おいおい、どうしてそうなる。ちゃんとゴールで待ってたぞ?」
「でも、声掛けてくれなかったッス……」
「は?」
「走ってる途中、黙って見てたっじゃないッスか!」
「応援しても聞こえないだろ……」
「大事なのは気持ちッス! センパイが応援してくれてるーってだけで、速く走れるような気がするんスよ!」
本当に、面倒なヤツだと思う。
そもそも俺の怪我の原因でもある。
最初から、鬱陶しさは人一倍だった。
「……分かったよ、決勝は、ずっと応援してるから」
そう言った瞬間ぱっと喜色満面になった倉見を見て、かわいいと思った。
これが惚れた弱みなのかもしれない。
「アンタ、マネージャーのくせに何デレデレしてんの? あ、あたしの決勝の荷物、持ってってくれない?」
「あ、悪い! じゃ、倉見! 決勝応援するから、またな!」
三代木のスパイクを持って俺はテントを出る。
「えー!」
不満げな声に後ろ髪を引かれる気がするが、それはそれ、これはこれなのだ。
そんなこんなで、倉見の決勝の時間が来る。
俺はゴール付近のフェンスに陣取る。
選手の点呼が始まる。
「ファイトー!」
聞こえて無いだろうけど、倉見の名前が呼ばれた瞬間に応援する。
会場中が倉見を応援する雰囲気ができあがっていた。
「位置について、用意」
ドン、という合図と同時、堰を切ったように各校の応援が始まる。
「倉見ー! 頑張れー!」
俺は叫んだ。
届くなんて思わない。
それでも、約束したのだ。
走ってる途中、応援するって。
気持ちが大事だと、倉見は言っていた。
なら、これが最善だ!
スタートから20メートルの時点で頭ひとつ抜けていた。
ぐんぐんと後続との差は離れていく。
でも、倉見にとってはそんなことは些細なことだ。
飛ぶような走りの、そのタイムだけを気にしているのだ。
「倉見ー! ラストー!」
最後の20メートル。
ぶっちぎりで走っていた倉見と俺の目が合う。
「粘れー!」
倉見は、2ミリだけ微笑んで……そのままゴール。
「……ただいま行われました、女子1年100メートルの結果の速報です。1着、倉見かなこ選手。記録、11秒82。これは全中新記録となります」
……11秒台、ぶっちぎりやがったよアイツ。
鳥肌が立った。
アナウンスが流れると当時に、犬みたいに喜んだ倉見が俺の元に駆け寄ってくる。
「センパイ、やったッスよ!」
「ホントすげぇな。おめでと」
「センパイ、応援、聞こえたッス!」
気持ちはありがたいけど、あんだけの応援の声の中で?
「そりゃ空耳だろ」
「倉見、がんばれー!、倉見、ラストー! 粘れー!……でしょ?」
にやり、倉見が笑う。
「なんか、聞こえたんスよね!」
見返りを求めていた訳ではないけれど、暖かい気持ちになる。
「それじゃ、リレーの方走ってくるッス! 応援お願いッスよ!」
去る倉見を見送ると、俺は誰にもバレないように涙を拭う。
結局、リレーの決勝でも倉見は、ゴボウ抜きを披露して1位で返って来た。
帰りの車内、倉見は俺に寄りかかるようにして寝ていた。
俺の心臓はバクバクと音を立てていたことは言うまでもない。
結局、倉見はこの夏、女子中学生で一番足の速い存在になった。
様々なところから取材を受け、それが終わると大会で記録を出してまた取材が来る。
「ずいぶん遠い存在になったものねぇ」
「面白そうだな、三代木」
「まあ、いい気味だなとは思ってるけど?」
なんとも複雑な気分である。
今まで、なんだかんだ言って三代木は俺のことが好きだったことが分かっている。
ただ、それは「ゴミを見るような目で見られた」俺ではない。
昔のように、今まで通り接しようと心がけてるけど。
それが上手く出来てるのかは、分からない。
「あ、この問題の解き方分かる?」
「それはこことここの辺の比が同じで、角度も等しいから、」
「あ、理解」
聞かれたのは今日の1限で出された宿題である。
少なくとも今は、こういったことをそれほど気兼ねなく聞ける間柄。
それ以上でもそれ以下でも無い。
裏を読むのは不毛だから。
結局、俺は「鈍感になること」を選んだのだ。
自分に対しても、誰かに対しても。
やり直せないことが、こんなに怖いとは思わなかった。
これがきっと、俺に対する罰なのだろうなと思う。
何度もやり直して、そのたびに誰かの気持ちを無視し続けた、俺に対する報い。
軽い吐き気のような気持ち悪さ。これはもしかしたら、一生続くのかもしれない。
やがて、卒業式が来た。
倉見とは相変わらず。三代木とも大きな変化は無い。
サヨナラの日、といってもあまり実感はないのだけれど。
そういえば朝、机の中を漁ると、倉見からの手紙が入っていた。
「放課後、もし良かったら、あたしの家に来てください」
直球勝負なヤツだ。
それを無碍に出来るワケがない。
ただ、俺にはどうも負い目がある。
殴った。その汚点を拭う気にはなれない。
少なくとも、あの一発は俺が見舞ったものだ。
どうやって断ろうか。それだけを考えてるうちに、卒業式が終わる。
解散となり、ほぼ全員が打ち上げに行く中、俺は一人教室に残っていた。
「お前……打ち上げ行かなかったのか?」
「先生……」
3年間、いやそれ以上お世話になった先生だ。
見飽きた顔だけど、もう見ることは無いかもしれない。
「なんか、そういう気分じゃ無かったんですよ」
「……お前、そういうとこあるよな。誰とでもそこそこ仲良くするけど、壁も作る」
「あ、バレてました?」
「ここ1年で、急にそうなったよな」
ホント、よく生徒のことを見ている先生だ。
だから、嫌いにはなれなかった。
「倉見に対してもそうだったよな?」
「……あ、これオフレコでお願いできます?」
「教職という肩書きに誓って墓場までもっていってやる」
「なら安心して。……俺、あいつが怖かったんですよ。確かに殴った。それなのに、前と変わらず、犬みたいに慕ってきて……犬だって、殴った人間は避けるのに? ほんと、ワケが分からなかった」
「……それが、お前の言い分か?」
「ええ」
「なるほどな。ちなみに俺にはこう見えてた。犬は殴ったヤツを避けるさ。殴った理由が分からないからな。でも倉見は違う。……俺はお前の暴力を肯定しないぞ? でも、倉見はきっと、お前が殴った理由を分かってたのさ」
「……そんなわけ、無いですよ」
「ま、所詮俺の妄想よ。真実は分からん。けど、ナニカは伝わっていた。俺はそう思ってる」
「……」
結局、心のもやは晴れない。
だからどうしたというのだ。
暴力は暴力だ。
どんなに正当化したところで、償ったつもりになったところで、殴った感触は消えないのだ。
「……卒業、おめでとう。元気でな」
「先生も、ご自愛ください」
「お前、そういう風に格好付けるとこあるよな」
「なっ!」
ははは、と先生は笑って去って行く。
さて、俺はどうすればいいのか。
倉見の家に行くべきか否か。
行く資格はあるのか。否だ。
行きたくないのか。それも否だ。
そんな風に、ぼんやりと考え事をしながら歩いていた。
だから、反応が遅れた。
「あっ……」
車道に出た瞬間、横から猛スピードの乗用車が突っ込んできた。
運転手は、俺のことを見ていない。
俺は回りを確認しなかった。
前方不注意と、わき見運転。
どっちもどっちだ。
これで終わりか。
なんとも締まらない、どうしようもなかった人間の最後にふさわしい。
そう思った瞬間、誰かに手を引っ張られる。
「うわっと!」
何かを下敷きにして転んだ。
次の瞬間、誰かに体をまさぐられる。
「……い、生きてる! 心臓も動いてる! や、やっと、ま、間に合った!」
……まさか。
俺が下敷きにしていたのは、倉見だった。
倉見の暖かい手が、制服の内側をまさぐっている。
何か変な気分になってきた。
まさか、こいつに助けられるとは思わなかった。
「えーっと、ごめ」
言い終わる前に、顔に衝撃。
ぶへっと息が漏れた。
続けて二発、三発と、連続していいストレートを貰った。
「センパイ、ふざけんなッス! やっと、諦められるか、諦めないで済むか、それが分かるとこだったんスよ! それが事故で死ぬとか、本当にあたしのこと嫌いなんスか? 答え出すぐらいなら死を選ぶとか、マジふざけんなッスよ! そんなので諦めきれるワケ……な゛いじゃな゛いっずがぁー!」
涙声でになった倉見は、俺にしがみつくようにしてワンワンと泣いている。
「良がっだ、本当に良がっだずよー!」
そう言ってすがりつく後輩。命の恩人。大好きな人。
それを無碍に出来るのか。否である。
ポンポンと背中を叩く。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が目の前にある。
「お前、ループしてね?」
「今、終わっだんずよー!」
倉見は俺のことを、一際強く抱き締める。
ああ、ようやく終わったんだ。
なにもかもが進み始める。
そんな予感がしていた。
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