第4話 2分15秒、DNF
ペースは身に染みている。
熱い空気を切り裂いて走る。
晴れている。ほんと、憎たらしいぐらい。
最短距離は知っている。
ここは後ろから猛スピードのトラックが走ってくるから避ける。
結果的にはちょっと減速。でもこれは必要経費。
次のカーブで中間点。
もう一段ギアを上げた。
練習後だというのに体が軽い。
使っていなかった筋肉はまだ動く。
いかに昔の走り方が非効率的だったか思い知らされる。
もし伸ばす手が間に合ったら、倉見に聞いてみよう。
あの領域にはまだ遠い。
この先のカーブを曲がれば後ろ姿が見えるはず。見えたら叫べばいい。
ぎゅんと回って前を向く。まだ見えない。……見えない? マジで?
嫌な汗が流れた。
「もしかしたら、俺がどれだけ全力で走っても、間に合わないかもしれない」
……おいおい、嘘だろ?
認めたくない。
無力感が襲いかかる。
手で太ももを二、三度叩く。
自分を奮い立たせなければ、やっていられない。
体はバラバラになりそうだった。
目の前は真っ白で、それでも足は止められない。
最後のカーブを曲がる。間に合ってない。倉見がそこにあった。
心のナニカが、ぷっつんと、音を立てて切れた。
「……アンタ、タイム落ちた?」
三城木がストップウォッチを見て言った。
休憩時間だから測ってあげる。
そう言われたので、お願いしたのだ。
「マジで?」
「マジマジ。ほら?」
見せられたストップウォッチは、2分38秒。
2年の時のベストラップより10秒ほど遅い。
「なんか、やる気でなくてさぁ」
三城木はどうしようもない奴だ、と言うかのようにため息をつく。
仕方ないだろ。だって、やるだけ無駄なんだから。
「いい加減、倉見のこと忘れなよ。かわいい後輩が居なくなって、張り合いがないのは分かるけどさー?」
そういうのじゃない。
いや、そうなのかもしれないけど。
握り混んだ拳に力が入らない。
心の支えは、壊れていた。
その日の帰り道、部活動顧問が俺を呼んだ。
他のメンバーが足早に帰っていき、グラウンドに二人だけが残っている。
「お前、本当に大丈夫か?」
当たり前のことを聞く。
大丈夫な訳がない。
「先生にはどう見えます?」
言葉の代わりにため息が返ってきた。
「お前さ、めっちゃ痛々しいんだよ。重傷だろ。一生引きずるぐらいの」
「そりゃ大げさなハナシっすよー。たかが後輩が死んだぐらいですよー?」
頑張って笑おうとする。
……駄目だ。
作ろうとした顔が崩れていく。無様。それを見せたくなかったから、先生の胸に顔を埋める。
俺より頭一つ背の高い、ムカつく先生だ。
「せんせー。なんかやる気でないんですよー」
「そうか……あるよな、そういうときも」
「俺、メンタルは強い方だと思ってたんですよー」
「俺もそう思うよ」
「でもさー、限界ってもんがあるじゃないですかー?」
「……」
「本当は、ほっといて欲しいんですよ」
俺が一人でなんとかする。
具体的なプランは思い浮かばないけど。
そう思っているのに、どいつもこいつも、可哀想なモノを見る目で俺を見る。
そんなんじゃ、俺だって揺らぐよ。
「俺じゃどうしようもない」かもしれないのに。
「そりゃ無理だ」
「先生?」
顔を上げた。
普段とは違う、頼りがいのある大人の顔がそこにある。
「だってお前、ほっといてなんとかなる顔してねぇんだから」
視界が揺らぐ。
唯一残った意地が、顔を胸板におしつける。
「休め、少年」
俺はこの日以降、陸上部を休んだ。
休んでいるうちに、最後の大会が終わった。
9月になった。
あれだけ俺のことを振り回した倉見は、手を離して遠くに行ってしまった。
宙ぶらりんになった俺は、今、なにも残ってない。ただ平凡なだけの存在だ。
何が出来れば解消できるのか、それは分かっているんだけど。
そういえば、ちょっと前に先生が言っていた。
『多分お前は聞きたくないと思う。でも、大人としてこれだけは言っとく。……人生ってさ、お前が思ってるより長いんだ』
本当にそうであったのなら、また前を向けたのかもしれない。
「進めないのに前をむけ、ねぇ……」
残酷な話だ。
俺にはこの1年しかない。
過去に戻れなければ、恐らく俺は死んでいる。
ポケットティッシュみたいに軽い人生に、前向きになるほどの価値があるとは思えない。
「アンタ、最近よく寝てるわよね」
目を覚ますと夕暮れ。隣で勉強していた三城木が、ジト目で俺を見ていた。
教室には二人だけ。
顔の向きを変えて、窓の外を見ることにする。
もう、放っておいてくれ。
「ま、気持ちは分からないでもないけど、子供よね」
小馬鹿にした雰囲気。無視だ、無視。
「……アンタ、昔っからそうだったよね。絶対に人に頼らない。自分のことは話さない。自分でなんとか出来るって思い上がってて、実際、いままでなんとかなってきた。でも、どうしようもない壁に初めてぶつかった」
「……お前には分からねぇよ」
「ええ、もちろん分からないわ。だってアンタの言葉死んでんじゃん。分からないだろうって自惚れて、使わないでいたら、そりゃ腐るわよ」
「黙れ……痛っ!」
耳を塞いで目を閉じた。机に突っ伏した俺の髪を、三城木が引っ張りあげる。
「テメェ! 何しやがる!」
振り払うと、軽い三代木は吹っ飛んだ。
がしゃんと音を立てて机が倒れる。
しかし、痛がる様子もなく立ち上がった。
キッと、力強く俺を睨んでいる。
「イラッと来たから、引っ張った。それだけじゃない」
「喧嘩売ってんの?」
「アンタ、そうでもしなきゃこっち向かないでしょーが」
「はぁ。つまり、俺が悪いと?」
「別にぃ。誰も悪くないわよ。事故は、仕方がないじゃない」
「……」
仕方ない。仕方ない。
そっか。お前はそう思ってるのか。
そりゃあそうか。だってお前、知らないもんな。俺がこの時間を繰り返してること、全く知らないもんな。
そのくせ、俺に指図か。
ああ、面倒だ。
「帰る」
「あっそ。お疲れ」
気分が悪い。
いっそのこと犯罪でもしてみようか。
どうせ過去に戻るんだ。
何をやってもいいんだ。
例えば、駐輪場にある自転車。
鍵が掛かってない、不用心なママチャリ。
そいつを乗り捨てて、知らん顔。
俺は速く帰れるし、気分はスカッとするし、むしろやらない理由がな
おい今何を考えていた?
そうだ、簡単なことだったんだ。
押して駄目なら引いてみな。
俺は天才ではない。走っても間に合わないのなら、手段を選んではいけない。
今すぐ意識が戻た直後の場所へと行きたい。綺麗なフォームを意識して走ると、すぐについた。
この街は平和な街だと思っていた。
大きな事件があったなんて話は聞いたことがない。
せいぜい倉見が死んだことぐらいだろう。
飛び出しに対処できなかったというのが事故原因らしい。あれだって事故だ。
とにかくこの街には、悪いことを進んでする人間なんて一人もいない。それだけは確かだった。
だからこそ、なのかもしれない。
鍵を掛けてないチャリを探してみる。
1台、2台、3台……そこら中にあって驚いた。
本当に不用心だ。ありがたい。
結局「あの日のスタート地点の近所」かつ「鍵の掛かっていない」自転車は3台あった。
これより遠いとマイナスだ。
もちろん、この自転車がいつも同じ場所にあるとは限らないけど。
それでも、タイムの短縮は可能であると示されている。
……一応練習しておこう。
それから毎日、サイクリングが俺の日課となった。
流石に、チャリをパクってまでやる度胸はなかったけど。
そして3月になり、俺はまたトラックに轢かれた。
スタートダッシュは上々。
まぶしい日差しが差し込んでくるや否や、俺は走り出す。
最短距離のチャリは無かったが、二番目のチャリはあった。
このチャリは、近所の顔見知りの人が使ってるものだ。よくこれに乗ってスーパーを往復している。後で謝ろう。菓子折りひとつで救えるのなら安い。
すぐに漕ぎ出そうとすると、重い。
さてはこいつ、あまり手入れされてないな?
ふん、と力を込めるとペダルが沈む。動き出したらこっちのものだ。
全力で漕ぐと、走るのより楽にスピードが出る。
これなら、チャリに乗るまでのロスタイムを回収してお釣りが来る。
そう思ったのが、油断だった。
後ろからの衝撃に跳ね飛ばされる。
何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
宙に舞う体にぐるぐる回る視界。
「……あっ」
忘れていた。
この車は、走ってるときに猛スピードで俺の横を突っ切った、あの車。
チャリに乗っていると、ここでぶつかるのか。
「マジで?」
ボンネットをバウンドし、道路に投げ出される。
畜生。凡ミスかよ。
俺の意識はそこで途切れた。
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