第3話 2分22秒、そして号砲

県大会。

晴れていて暑すぎない。最高の条件だった。

汗をかいて、粉ポカリで補給する。それの繰り返しは、もうちょっとだけ続く。

選手はほぼ全員、競技か応援、付き添いのために出払っている。

テントにいるのは俺と顧問だけだ。


「予選、2分4秒でした」

「……お前、ほんと早くなったよな。真面目だったもんな」


きっかけはやっぱり、あれなんだろうなと思う。


もしまたあの日に戻れるとしたら。

あり得ないことだと思う。

俺は未だ覚めない夢の中だ。

なんて残酷な話なのか。

でも、ほんの僅かでも、夢でないとしたら。

通りすぎることしかできなかった二度目のあの日が、夢ではなく本物だとしたら。


次で最後かもしれない。

いやもしかしたら、これが最後だったのかもしれない。

最初からそんなものはなかったのかもしれない。


普通、過去は変えられない。

でも、手を伸ばせば届くかもしれない場所に、あの日の倉見がいる。

醒めない夢だ。

俺は未だ、過去に囚われている。

時間を遡れたらとしたら。

本気にする奴は馬鹿だ。

でも今は、それにすがりつくしかない。


「決勝、頑張れよ?」

「全国はちょっと厳しいですけどね……」

「あとちょっとじゃん。いけるいける」


顧問も馬鹿だ。

予選1組に、涼しい顔で2分を切っていった化け物がいた。

勝てるわけがない。

ジュニアオリンピックへの切符は各都道府県の1位のみ。

全中に出るためには、参加標準記録である2分0秒5を切らなければならない。

どちらも無理だ。


「……せいぜい足掻いてみますよ」

「そうそう。そのメンタルが大事よ。俺も高校で全国行ったときそうだった」

「えっ? 先生にそんな栄光あったんですか?」


意外だった。

思わず口に出してしまう。


「お前、ひでぇこというなぁ」

「一度もそんなこと言わなかったじゃないですか」


てっきり、今までの俺と同類だと思っていたんだけど。


「……ま、マイナー競技だったからな。県で真面目に取り組んでた奴が俺以外居なかっただけの話よ。言うほどのことじゃねぇ」

「凄いじゃないですか」

「全国じゃ手も足も出なかったよ……ホント、すげぇやつは、どの業界にもいるもんだ」


あはは、俺は笑う。

分かるよそれ。

出来る奴は、軽く流してでも出来る。

俺は、荒く息まいて藻掻くしかない。


「……そろそろ決勝の点呼なんで、行ってきますね」

「付き添い要るか? 寂しいなら俺が行ってやるぞ?」

「子供じゃないんで結構です……でも……」

「でも?」

「いや、倉見が居たら、アイツはついてくるんだろーなーって思って」

「……だな!」


結局、俺に着いてきた。

寂しがり屋かよ。

ちなみに、俺は決勝で2分を切ることは出来なかった。それが全てだった。

そのまま、月日が流れて、そして俺はまた足を滑らせる。視界には前回轢かれたトラック。

抗う気はない。

きっとそれが運命なのだから。

意識が飛ぶ。

暑さを感じた瞬間、俺は走り出す。

何度も走って距離を掴んだ、最短ルートを進もうとした。

……おかしい。

体がいつもより重い。

練習後だから、か?


「あっ」


俺はアホか。

過去に筋肉は持ち越せない。

体を鍛えてどうする。

いや、今は無駄なことを考えるな。

一秒でも早く、速く、疾く……!

息も心臓も限界。

目的意識だけが体を動かしていた。

もうすぐ、事故現場だ。

長くて短い2分半。

倉見の後ろ姿はまだ見えない。

分かってしまった。

今回は、間に合わない。

それでも走り続けた。

最後のカーブを曲がる。

事故現場に、倉見はいた。



膝をつく。もう限界だった。意識が飛びかかる。でも、踏ん張る。だって、俺は死なないから。

霞む視界が赤い。それが何なのか、分かってしまう。


「……センパイ?」


倉見の声だ。俺は荒い息のまま、頷くことしかできない。


「ごめん。事故っちゃったっすね……」


遺言を聞きに来た訳ではなかったのに。

涙か雨か、水が頬を伝った。


「本当に、大好きだったんスよ?」


その水痕を倉見が拭う。


「だから最後ぐらい、泣かないで欲しいっすね」


馬鹿野郎。そんな弱々しい奴、殴れるかよ。

そう思いながら、俺は笑った。

ひきつっている、形だけの笑顔を見せる。

ほっとしたような吐息のあと、倉見の手が、俺の頬を離れた。


雨が降ってきた。

倉見が救急車が運ばれた後も、俺は動けなかった。




「なんかアンタ、走り方変わった?」


なんだかんだ俺のことをよく見ている疑惑のある三代木が覗き込んでくる。


「あ、分かる?」


筋肉は裏切る。でも、知識は裏切らない。

間食代わりにサラダチキンを食べる生活はやめた。

その金で走り方の本を読むことにした。


「走るという行為は、物理法則である」


最初に読んだのは、そんな書き出しから始まる本だった。


「アンタ、倉見のファンだったからねぇ」

「そりゃどういう意味だよ」

「いやなんか、あんたの走り見てると、倉見に似てきたなって」


体のどこにチカラを入れてるか分からないのにスイスイと進んでいく。かつて俺は倉見の走りに対してそう思っていた。それは才能だと、そう壁を作っていたのは、もしかしたら俺の方だったのかもしれない。


「体に芯を通して、地面を蹴るチカラを膝から逃がさない。重心は若干前で倒れるチカラを利用する。最近はそんなイメージで走ってるよ」

「へー。面白そうだし、あたしもやってみるわ」




結局、今回の俺の800メートルのベストラップは、2分11秒だった。




夏の大会から、半年が過ぎた。


「おはよー」


隣の席の三城木が、眠そうな顔をして座る。


「おはよー……そういえばアンタ、まだ走ってんの?」


そういえば昨日、事故現場まで走る途中、三城木とすれ違ったんだったっけ。

俺の意識が戻った場所から事故現場まで走るのが、前回の周回以来俺の日課となっていた。


「なんか、走ってないと落ち着かなくてさ」


鍛えすぎると「あの日」からのズレが大きくなってしまう。かといって何もしないのも落ち着かない。


ちなみにストップウォッチで計ったベストは2分21秒。この数字はあくまで参考にしかならないけど。

そういえば、もう12月である。

そろそろ、雪が降ってくる。

その雪がやむ頃、俺はきっとまたあの日に戻る。


「ふーん……ま、いいことよね。あんたは成績にヨユーあるし? 高校、陸上部なんでしょ?」

「え?」

「高校入ったらすぐ走れるように走ってるんでしょ?」


高校に入ってから?

遠い世界の話に聞こえる。

イマイチ、ピンと来ていない。


「……変な奴」


三城木はそう言って、単語帳に視線を落とす。


それからは何事もなく過ぎていった。

そしてまた卒業式の日を迎える。

三度目の正直。そう気合いを入れた。

前と同じ場所で、俺は足を滑らせる。

ドンと体に衝撃が走ると、また暑い夏に戻っている。

何かを考える前に走り出す。

今度こそ、それだけ思って腕を振る。


2分後、俺は絶望の意味を知る。

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