第2話 陸上部

もし今が5月8日だとしたら。

あの、5月8日だとしたら。


考える前に飛び出す。

時間のロスが痛すぎる。

あいつと別れてから何分経った?

もう遅い。それでも、何かせずにはいられなかった。

別れた場所まで戻って、そこから全力で走る。

息ができない。壊れそうなほど苦しい。それでも足は止めない。もしかしたら間に合うかもしれない。後悔はしたくない。

ここをまっすぐに行って、次を右に、右に曲がれば……。


遅かった。




「はあ……」


部屋のベッドに倒れこむ。

全身から力が抜けていくのを感じる。

俺は何もできなかった。

しかし、時間だけはある。無駄にある。

過去には戻れない。

そう思っていた。

だとしたら、これは?

幻覚のたぐいかもしれない。

でも、そうじゃなかったら?


「本当に、過去に戻っているとしたら?」


もし、大金を手にいれようとすれば、すぐにできるだろう。これから紙面を賑わせる大きなニュースは割と覚えている。連続殺人がいつどこで起こるか、議会の解散が行われないし、戦争も起こらない。日経平均の終値までもなんとなく覚えている。3月までは上昇傾向だから、安心して先物買いしていい。


ただ、金を手にいれてどうなるというのか。

どれだけ嘘を突き通しても、お年玉よろしく没収される未来しか見えない。


連続殺人だって確かに止められるかもしれないけど、平日に学校サボってまでして見ず知らずの人を助けて、どうするというのか。

なんで学校サボったの? 起きることを知っていたから? なんで知っていたの?

善行に見返りを求めるのは自分勝手。しかし、損してまでしてやることかと聞かれれば、うーん。


結局、手が届く範囲のことしか出来ない気がする。

次があったら倉見を助ける。

俺がやりたいことはそれだけだ。

本当にムカつく奴だった。

好きだ好きだ言っておいて、勝手に去っていった。

このやり場のない思いはどうなる。勝手に死にやがってふざけんなと、一言言ってやらんと気が済まない。

それが出来れば、どれだけすっとするだろう。


次のチャンスは絶対に逃さない。そう心に決めて外に出る。あの場所から事故現場までおよそ800メートル。明かりのない空の下を、全力で走る。






「アンタ、そんな足早かったっけ? いっつも倉見に置いていかれてるから、そんなイメージなかったんだけど」


市大会の予選を走り終わり、テントに戻る。

おやつ代わりにサラダチキンを食ってると、女子陸上部のキャプテンである三城木に、記録を見に行かないかと誘われた。俺は食いながら、記録が貼り出されるのを待っていたのだ。


「……あ、出た」


俺の名前の横に、予選順位を示す「1」という数字。記録は2分8秒。距離は800メートルだった。


二年のときのベストラップは2分29秒。

それを考えればかなり伸びたと言える。


「倉見より遅いアンタが1位かー」

「あいつは別格だろ……」

「や、そうなんだけどさー。アンタ、優柔不断だし、あんまシャキっとしてないし。イメージってやつがどーしてもねー」


ひどい言われようである。


「一応、中距離で負けた覚えはないぞ?」

「アンタの平凡な走り、そんな長い間見てらんないわよ」


ふわぁ、と三城木はあくびをした。

平凡な走り、か。

思わず苦笑いだ。


「あいつ、凄かったよな」

「ホントよね」


倉見は、100メートルを12秒フラットで走った。

中学1年の女子の記録じゃねぇ。

一年男子100メートルの予選記録を見てみる。

一番早い奴は12秒4で走っていた。

倉見はこの市で一番足の早い一年だったことになる。

紛れもない化け物。そいつは不思議な走りをするやつだった。

体のどこかに力をいれてるようには見えないのに、すすすっと前に抜けていく。

よく俺の隣で走っていた。この部で私の次に足速いの先輩ッスよね? とかそんなことを言いながら。俺は毎回置いていかれた。

その後ろ姿には華があった。フォームに見とれてしまう。

まるで空を飛ぶように、すいすいと進んでいく。

真似すれば、もっと速く走れそうな気がする走り。絶対に真似できない走り。


「お前の決勝っていつから?」

「14時40分。アンタは?」

「13時20分」

「そっか。じゃ、暇だったらあたしの応援してくんない?」

「あれ? お前、俺にみられてるのきらいじゃなかった?」


1、2年のとき、コイツには「絶対に応援するな。気が散る」と滅茶苦茶に釘を刺されまくった。今回もそうだと思ってたんだけど。


「いやまあ、嫌いだけど。目潰ししてやろうかって思うくらいには嫌だけどさ」


なにそれ怖い。


「でも、アンタが見てたら、早くなれそうな気がするんだよね……通信大会、あたしも出たいしさ?」


通信大会。

全国に行かない限り、それは最後の大会だ。

実質県大会と言ってもいい。

それに出るには条件がある。

参加標準記録の突破か、市予選で3着以内。

標準記録は、2分11秒だった。


「あ、見てて欲しいって言ったけど、サラダチキンくわえながら見てやがったら殺すからね?」

「お、おう」







「あれー? 先輩、応援ですか? 珍しいですねー?」

「決勝終わったら暇なんだよ……」


結果は一位。途中から安全に走る余裕があった。プロテインバーをくわえたまま、応援場所に向かう。


男子は部員が2名しかいないためリレーに出場しない。女子は出るが枚数が足りていない。県大会の当落線上ってところか。


「倉見がいたら優勝候補だったんだがねぇ……」

「先輩?」

「あ、ごめん独り言」


三代木の出場種目、女子共通200メートルが始まろうとしている。

選手一人一人の名前が呼ばれ始める。

三城木の名前が呼ばれた瞬間、全員で頑張れーと叫ぶ。

10人居ない部員では、少し寂しいかもしれないけど。

手を振る。三城木は応えるよう、にやっと笑った。


ゴールまでの距離は200メートル。時間にして30秒もない。


「センパイ、三代木先輩と仲いいですよねー?」

「そうか? 普通だろ」

「じゃあ、なんで今手を振ったんですか」

「見てますアピール」


うっわーこの人そんなこと言うんだーって顔をされた。


「倉見だったら喜ぶかなって」

「センパイ、やっぱり馬鹿だったんすね」

「やっぱりってなんだよ」

「あ、ほら始まりますよ?」


位置について。用意。

ドン、と機械音声が響くと全員が一斉に走り出す。

各校の応援が始まる。

ちなみにうちのチームにそんな伝統はない。

人数が足りないので映えない。

だから、見ているだけだ。


「……アイツ、あんなに早かったっけ?」


コーナーを抜けると2位だった。

1位は足の速い1年だ。

百メートルの持ち記録は確か、13秒1。

速い。抜群に速い。でも、数メートル差に食らいついている。


「センパイ、めっちゃ頑張ったんすよ。倉見ちゃんが居ないから、私が頑張るって。最後の2ヶ月、私が引っ張らないといけないって」


レースは終盤に入る。

ここからゴールの順番は分からない。

でも、中盤で1位が離れていく。もう届かない。3位以下との距離も縮んでいく。


「センパイが一人で走っていたとき、先輩は私たちを引っ張ってくれてたんですよ……行ってあげないんです?」

「俺よりお前らの方が喜ぶだろ」

「……アンタは先輩のこと、何も分かってないんですね」


ため息をついた後輩に背中を叩かれ、俺は追い出された。

あの野郎。完全に俺を舐めてやがる。

後で覚えてろ。

ゴールでぼんやりと立っている三城木の方へと向かう途中、そんなことを思っていた。



「どうだった?」

「2位」

「おめでと」

「ありがと」


三城木はにやりとして、Vサイン。

後で記録を見てみたら4位と0.1秒差。

粘り勝ちだった。


「あとはリレーだけだな……」

「アンタは気楽でいいわね」


少し、ほんの少しだけうらやましいような気がする。

そういや、三城木はアンカーか。


「ゴール地点で待ってようか?」

「いや、3走とアンカーのバトンパスの辺りでお願い」

「了解」

「それじゃあ、そろそろ召集だから」

「頑張れよ」


もうお互い話すことはない。

集合場所には、他のリレーメンバーが既に居る。

競技の終わったフィールドに踏み入る。

ここから先は進入禁止だ。

俺は見ていた。

黙って、その後ろ姿を見ていた。



要望通り、アンカーのスタート地点の近くにいた。

参加チームの紹介が終わり、あとは号砲をまつばかり。

いちについて、用意。

合図と共に8人が飛び出す。

三城木のチームは第2レーン。

1走から2走、3走へと渡ったバトン。

順位は4位。

いよいよバトンが渡る。

アンカーはエース対決になる。

各チーム、一番速い選手が走る。

正直うちのチームは有利ではない。


「あいつ今、笑った?」


「頑張れー!」


聞こえてないだろう。

アイツは一瞬、俺を見てにやりと笑い、前を向く。

見てろよと、その後ろ姿が語っている。


トルソーフィニッシュの瞬間まで、俺はその後ろ姿を見ていた。


あいつの順位は4位だった。

市大会は、俺の知らない終わり方をした。





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