ヘンペルの容疑者

十二月二十五日 午後三時二十分



 ホテル・エクセルシス・デオの最上階にある宴会場は普段は結婚式の披露宴や各種団体のパーティーに使用されており、テニスのダブルスの試合が二つ同時に開催できそうなくらいの広さがあった。

 寄せ木細工のように複数の建材を幾何学的に組み合わせた壁が特徴的で、絨毯には暖色のより糸で編まれた最高級のキリム織りが使われている。天井を見上げると、アーチ状の梁が放射状に渡されており、その中心には重さ数百キロの硝子と真鍮からなる豪奢なシャンデリアが層をなして垂れ下がっていた。

 しかし贅の限りを尽くした内装や調度品よりもアリア達の目を惹いたのは会場からの眺めだ。


「ひゃー! スッゴイ景色!」


 一般的なホテルの宴会場と違って壁の一部がガラス張りになっており、その向こうに白銀と黄金にきらめく世界が広がっていた。見渡す限り他に人工の建物が存在しない孤絶した雪山の遠景とホテルの駐車場にそびえるクリスマスツリーやイルミネーションの温かみのある光が好対照をなしている。


「事件があったからかな? まだ片付けられていないまたいだね」


 創介の言葉に視線を室内に戻すと、テーブルの上には穴の空いたビンゴカードや空のワイングラスなど、昨夜のパーティーの名残が今もそのままになっている。


「たぶん今頃、パーティーの関係者は別室で警察の事情聴取を受けているんでしょう」

「じゃあ、調べ物するなら今のうちだね!」

「探すとしたら、出席者名簿とか宿帳の類かな?」


 捜索を開始した直後、唐突に会場の扉が開く音がして三人ともおもわず体が硬直した。


「あなた達、ここで何してるの?」


 半開きになった会場のドアから顔を覗かせたのは若い女性だった。艶のある黒髪をアップにまとめ、肩の大きく空いた白いイブニングドレスの上から紺色のカーディガンを緩く羽織っている。


「え、えーと、アタシたちは通りすがりのスキーチームです!」

「???」


 奇妙なポーズで誤魔化そうとする彩夢の横で創介の背中に隠れていたアリアだったが、部屋に入ってきた女性を見て軽く会釈する。


「やや、これはちょうどいいところに。上野美子うえのみこさん、貴女にも確認したいことがあったんです」


 アリアの発言に残りの三人がおもわず目を丸くした。


「……えっと、どこかで会ったからしら?」


 戸惑いながらも首をかしげる上野に対してアリアは自信たっぷりに首を振る。


「や、もちろん初対面ですケド、見ての通り宴会場はまだ片付いてないし……」


 そう言ってアリアは散らかったままの宴会場を手で示した。


「今夜、パーティーが開かれないのは明白です。にもかかわらず、そんなオシャレな格好をしているということは、事件発生から今にいたるまで警察の事情聴取に付き合わされて着替える時間が無かった昨日のクリパ出席者と考えるのがフツーじゃないですか?」


 アリアの問いかけに彩夢も創介も無言で首を横に振ったが、構わず説明を続ける。


「そして確かに素敵なドレスですが、胸元のネックレスやイヤリングに比べて手元はいかにも寂しい。指輪や時計はおろかネイルさえしていないところを見ると、何か手先に気を遣う仕事をしているのかなと思いますよね、フツー? パッと思いつくのは飲食関係者か、あるいは医療関係者……そう思ってよく観察すると、ホラ? 手の甲トコに……」


 アリアに促されるまま二人が女性の手を見ると、薄っすらとボールペンで何かを書いたような跡が残っていた。


「一四九/九五? ナニコレ?」

「――そうか、血圧だ!」


 創介の解答に満足気に頷くとアリアは再び女性に向き直った。


「以前、ウチの姉が教えてくれたんですけど……看護師さんって、手をメモ代わりにすることが多いそうですね? この数字を仮に血圧とするとかなりの高血圧症です。きっと昨晩、会長の様態を診た時についクセで書いてしまったのではないですか? そしてそんなことをする事件関係者は看護師の上野美子さん、貴女だけです」

「事件って……あなた達、一体何者? ただのスキー客には見えないけど……」


 手の甲を隠し、あからさまに不審そうな顔で、三人を見る上野。

 無理もない、超が付く高級リゾートホテルの宴会場に安物のスキーウェアを着た学生が三人も紛れ込んでいたら誰だって怪しむ。


「えっと……事情を説明するとかなり複雑なことになるんですけど……」


 何と説明したらいいものか創介が迷っていると、上野の方が先に何かに気付いた。


「そのパーカー、明智医大みょうちいだいのよね? 私もあそこの卒業生なんだけど……もしかしてキミ、小林教授の手伝いで来たの?」

「え? ええ……まぁ、そんなトコです」


 反射的に頷き苦笑いを浮かべる創介。上野の推理はアリアと違って全くの的外れだったが小林教授のことは創介も知っていた。

 創介が通う明智医科大学には死亡時画像診断Aiを始めとした先進的な設備を備える法医学教室が存在し、変死体の検死や解剖を行っている。中でも小林教授は市内で発見される変死体の三分の一を解剖している凄腕の法医学者として有名だった。


「あの先生、医局からは距離を置いてる分、昔から学生をあごでこき使うのよね」

「優秀だけど変わり者だって、学生の間でも有名ですね」


 創介が自分の後輩だと分かったせいか上野は警戒感を緩めていた。


「でも、目を掛けられてるってことは優秀な医大生なのかしら?」

「そうだと良いんですけどね……先輩は大学を卒業して今は附属病院で働いてるんですか?」


 同学の話題に花を咲かせる二人から少し離れた所でアリアと彩夢は目的の物を見つけていた。


「それは?」


 アリアが手にした黒い革表紙のノートを見て、彩夢が尋ねる。


「これはパーティーの芳名帳ゲストブックですね。誰が何時に来たか細かく書いてあります」

「うぁ、すご! 各局の女子アナに地元出身のスポーツ選手、政治家も居るよ」


 有名人の名前に色めき立つ彩夢をよそに、アリアは必要な情報を記憶に転写していく。



 八時四十五分 神宮部多恵

        神宮部喜也

       ︙

 八時五十分  上野美子

       ︙

 九時     神宮部諸仁

       ︙

       ︙

 十時三十分  神宮部牧人


「あれれ? 会長さんと秘書の人の名前がないね」


 芳名帳をパラパラと何度もめくり返しながら彩夢が首をかしげた。彼女の言うとおり、アリアの記憶の中にコピーされたページにも二人の名前は見当たらない。しかし理由は明白だった。


「今回のクリパの主催は神宮部会長ですから、そこに名前が無いのは当然です。おそらく秘書の人と一緒に開場の八時四十五分より前にはホテル内に居たはずです」


 それよりもアリアが気になったのは上野美子と被害者の入り時間の僅かな差だ。長女夫妻がそうであるように、カップルなら一緒に会場入りするのが普通だが、二人には十分のタイムラグがある。

 そのことを上野に尋ねると、意外な答えが返ってきた。


「ああ、それね……彼、会場の入口で女子アナたちにちょっかいかけてたのよ。私が車に興味なくて免許も持ってないから、代わりに買ったばかりの新しい玩具スポーツカーを自慢したかったんじゃないかしら?」


 何でも無い風に答えたものの、その苦笑の下には一物も二物も抱えているように創介には見えた。


「へぇ、けっこう意外ですね。子満堂の創業者一族って言えば、保育園とか図書館を建てたりして、社会貢献している立派なイメージがあったんですけど……」

「会長さんは本当に立派な方だと思うわ。でも、お子さんたちは後継者争いとか色々あるみたい。諸仁さんも後妻の子だからってだけで会社の実権は何も握らされてもらえないってよく愚痴ってたわ。昨日もそれで喜也さんと派手に喧嘩しちゃってたし」

「いっぱいゲストが来てるのに喧嘩ですか……」

「最初は悪酔いしてゲストに絡んでいた諸仁さんを喜也さんが注意しただけだったんだけど、売り言葉に買い言葉ってやつで、掴み合いの大喧嘩。見兼ねた会長さんが秘書の天庭さんに言って、二人を連れ出してなかったら、どうなっていたことやら……」

「――待ってください! 三人は一度会場を出たんですか?」


 突然、大声を上げたアリアにビックリしながらも上野は頷く。


「え、ええ……でも天庭さんは十分くらいで戻ってきたわ。その三十分後くらいに喜也さんも……」

「被害者は!?」

「会長に叱られたのが流石に応えたみたいで、酔いが覚めるまで部屋で大人しくしていたみたい」


 そう言って、上野はLINEの画面を見せた。


九時二十分  「大丈夫?」

      ︙

九時二十二分 『別に……少し外の空気吸ってくる』

       「そう、少し酔いを冷ました方がいいかもね」

      ︙

九時四十七分 「どう? 少しは酔いが冷めた? お水か何か持っていこうか?」

九時五十分  『大丈夫。それより、さっきはゴメン。パーティー楽しんで』

      ︙

十時三十五分 「牧人さんが探してる」

十時三十六分 『ヤベぇ。部屋に行っても寝てるって言っといて』


 その後も何度かやり取りをしているようだが、どれも他愛の無い会話ばかりでいくらでも偽装ができそうだ。


「探偵さん、もしかしてキミは会場を出た直後に被害者が殺されたと考えているのか?」


 創介もアリアと同じことを思ったようで、二人で顔を見合わせる。しかしすぐに上野美子が二人の考えを否定した。


「それはないわ。だって、諸仁さんが殺されたのは車で二十分以上離れた中澤峠でしょ? パティーが終わった後もそこの窓から彼の車が停まっているのが見えていたもの」

「暗くて見間違えたとか?」

「アリエナイわ。昨日は雪も降っていなかったし、夜中もずっとイルミネーションが光っていたから、ここからでも赤い車がはっきり見えたわ。だいたい、あんなド派手なスポーツカー、他に停まっていないから見間違えようが無いわ」


 上野は自信たっぷりに請け合った。




十二月二十五日 午後三時四十五分



「ベントレー、BMW、アストンマーチン、アルファロメオ、フォルクスワーゲン……」


 まるで高級車の見本市のように、国内外の様々なスポーツカーやクラシックカーがずらりと並んでいる。そんな中、黒塗りのベンツと白いフォードのGTカーに挟まれた創介の軽自動車はかなり浮いていた。


「でも赤い車は一台も見当たらないね……」


 上野の話を聞いたアリアは再び駐車場に戻り、停まっている車を一台一台確かめたのだが、被害者と同じ車種や色の車は見つからなかった。


「上野さんたちが被害者の車を見間違えたという線はなさそうだね……」


 創介と彩夢が白い息を吐き出す中、アリアは何かを思い出したように顔を上げた。


「〝ヘンペルの容疑者〟……」

「え? 何だって?」


 創介が聞き返すとアリアは慌てて、手を振る。


「あ、や……なんかふと、姉が昔書いた小説を思い出したんです」

「探偵サンのお姉さんて、確かミステリー作家の皆葉みなばイリア先生だよね」

「ええ……」


 〝現役JK作家〟として華々しく文壇デビューした姉は数々の賞を総なめにし、ベストセラー作家として人気を博していた。ところが数年前、取材旅行に出かけたのを最後にぷつりと音信不通になってしまったのだ。

 表舞台からは姿を消したものの、ネット上では、その失踪の謎を含め、皆葉イリアの書きかけの小説に関する議論は絶えない。


 『ヘンペルの容疑者』もそんな皆葉イリアの代表作の一つだ。

 探偵のも下へとある年老いた資産家が依頼を持ってやってくるところから物語は始まる。


『私はこれまで金儲けのために散々悪どいことをやってきた。人に命を狙われてもおかしくない』


 資産家は最近、無言電話や脅迫状に悩まされているという。


『老い先短い命を惜しいとは思わんが、恐怖に怯えたり、苦しんで死んだりするのは嫌だ』


 ついては、自分に恨みを抱いていそうな人物を招いてパーティーを開くから、その場で脅迫状の送り主を見つけ、守って欲しいと依頼する。


『何を身勝手な……』


 そう思いつつも金払いの良いその老紳士の依頼を結局は断りきれず、探偵は人里離れた洋館へと赴いたのだった。

 ところが探偵が目を光らせていたにもかかわらず、依頼人は脅迫状通り殺害されてしまう。容疑者はパーティーに招待された五人。

 探偵は己のプライドにかけて依頼を完遂するため、尾行や盗聴を駆使して徹底的に容疑者を調査し、着実に犯人を絞っていく。

 やがて最後に残った容疑者を警察と共に追い詰めたが、逃げようとした際に車の運転を誤り事故死してしまうという、何とも後味の悪い幕切れとなる物語だ。


「あれ? でもその話って確か真犯人が別に居たんだよね」


 彩夢が一生懸命記憶を掘り起こそうとしていると、横で話を聞いていた創介が手を叩いた。


「分かった! 探偵が犯人とか?」

「ブブー! 兄さん、〝ノックスの十戒〟って知ってる?」


 推理小説オタクの彩夢が二十世紀初頭の著名な推理作家が示した指針について得意顔で説明する中、アリアが答えを教える。


「真犯人は殺された資産家です」

「え? それって、つまり狂言自殺ってこと?」


 資産家は自分に恨みを持つ架空の六人目をでっち上げて五人それぞれに接触し、今回の暗殺計画を持ちかけたのだった。

 五人は脅迫状や無言電話など嫌がらせを行っただけだったが、資産家が本当に殺されてしまったことで、お互い疑心暗鬼になり、仲間の裏切りと捜査の手に怯え、やがて追い詰められた一人は、つまらない事故で命を落としてしまう。

 それすらも〝六人目〟が予め用意していた逃走手段だということも忘れて……。

 かくして老紳士は恐怖と痛みに怯えることなく自ら安らかに命を絶ち、あまつさえ自分に恨みを抱く人間の一人を死出の道連れにしたのだった。


「どっちにしろ、あまり後味の良い話じゃないな」

「皆葉先生って、美人なのにけっこう闇抱えてるっていうか、エグい動機の話多いよね」

「ンまぁ、ウチの姉が病んでるかどうかは置いといて、この物語の主題は『調』ということです。劇中、探偵は容疑者四人までの潔白を証明したことで残り一人をクロと、誤った判断をしたためみすみす人を死なせています」


 今回の事件にも似たような事が言えるかも知れない。

 アリアは自分に言い聞かせるように呟く。


「他に赤い車が無いからといって、イコールそれが被害者の車とは限らない……」

「え? え? どゆことー?」


 首をかしげる彩夢の声は既にアリアの耳には届いていなかった。しんしんと降り積もる雪が音を遮り、アリアの意識は方向さえ見失う白眩の世界に居た。

 光の万華鏡、鮮血に染まった撲殺死体、逆進する腕時計、出会いと別れを繰り返す化学式――。

 無秩序に舞い散る無数の情報を一つ一つを受け止めるようにアリアは両手を伸ばした。けれども、触れた瞬間に溶けて失くなってしまう。そんな些細な知識の欠片、一見何の関連性も無い記憶の切れ端にも必ず原因と結果があるハズだ。

 そう思って今日の出来事を振り返ったアリアの脳の片隅で何かが引っかかった。


「……そうか」


 それは小さな違和感だったが、まるで空気中の小さな塵を核に美しく精巧な六枚の花弁が花開くように、様々な事柄と結びつくことで徐々に大きくなり、やがてはっきりとした輪郭を成していく。

 そして頭に浮かんだ一つの推理が事件の真相を鮮やかに浮かび上がらせる。


 ――今、因果の糸は繋がった。

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