16-34「怖い」

「あら、兄さん! 」


 茂みの中から出て来たアリシアは僕を見かけると、髪の上に葉っぱを乗せたままそう言って笑顔を見せた。

 それから、彼女は僕の腕の中で、僕に「守ってくれ」と必死に身体を寄せているブロンの姿を見つけ、嬉しそうな顔を見せる。


「それに、ブロンも! まぁ、兄さんが捕まえてくれたのね! 」


 だが、ブロンに1歩近寄ろうとしたアリシアに、ブロンは威嚇(いかく)する様な鳴き声を上げ、僕の腕の中でアリシアから少しでも遠くに逃げようとして暴れはじめた。


「お、おい、ブロン! どうしたんだ? 何で、こんなに暴れて!? 」

「そうよ、ブロン! どうして私から逃げようとするのよ? 」


 ジタバタしているブロンに、アリシアは呆れた様な顔を向ける。

 ブロンには人間の言葉は分からないはずだったが、長く人間に飼われているせいで何となく何を言われているのかが分かる様になっているのだろう。彼は「お前なんか、嫌いだ! 」とでも言いたそうに再び威嚇(いかく)する様な鳴き声を上げると、そっぽを向いた。


 ひとまず僕の腕の中で暴れるのをやめてくれたが、僕には、どうしてブロンがそんなにアリシアを避けたがっているのか、あるいは、嫌っているのかが分からない。

 アリシアは僕たちの生まれ育った牧場でブロンの様なアヒルの世話はしっかりとやっていたし、手落ちは無いはずなのだが。

 もしかして、また、アリシアがそのドジっ子な部分を発揮したのだろうか?


「えっと、アリシア? 何かあったの? 」

「何にもないわよ! 私は普通にその子のお世話をしようと思っただけなのに。何で逃げたり隠れたりするのか、少しも分からないわ! 」


 アリシアは不満そうにそう言うと、それから、その不満の矛先を僕へと向けて来る。


「というより、兄さん? 兄さんこそ、その子の世話をちゃんとやっていたの? 食べるんじゃなくてペットなんだから、もっと健康の管理をしっかりしないと! 見てよ、その子丸々と太って! フォアグラが取れそうなくらいじゃない! 」

「え? いや、それは、その……」


 僕は言い淀んでしまった。

 実際、ブロンはよく太っている。そして、そんな彼の世話をこれまでしてきたのは僕だ。

 アリシアが僕の不手際を疑うのは当然だった。


 だが、僕にも、僕の言い分がある。

 僕はブロンが太り過ぎないよう、精一杯努力してきたつもりだ。


 彼は301Aのマスコットで、みんなからとてもかわいがられている。

 僕は彼が太り過ぎない様にエサの量を調整し、他の仲間たちにもあまりエサを与え過ぎない様に注意していたのだが、ブロンはずる賢く、僕のいない間を狙ってはあっちこっちでエサをねだっている。

 ねだる方もねだる方だが、結局、彼の愛嬌(あいきょう)のある仕草に負けてエサを与えてしまうのが、とてもよろしくない。


 ブロンは、丸々と太って、まさに食べごろだ。

 しかし、そうなったのは僕だけのせいじゃない。僕1人は、どうすることもできなかったのだ。


「まぁ、それはいいわ。だって、兄さんはパイロットで、忙しかったんだろうし。これからは私がしっかりと食事を管理して、美味しそうじゃなくて、ほっそりスリムなカッコいいアヒルにしてあげるんだから! 」


 アリシアは僕の事情を察してくれている様だった。

 それに、ちょっと張り切っている。


 そんな彼女に向かって、ブロンは抗議する様な鳴き声を上げた。

 「誰も痩(や)せたいなんて言っていない」とでも言いたげだった。

 そんなブロンに向かって、アリシアはにやりと不敵な笑みを浮かべる。


「ふふふ。ブロン、抵抗は無駄よ! ハットン中佐にお願いして、部隊の人たちには貴方に勝手にエサを与えない様にってお触(ふ)れを出してもらったし、もう、貴方が自由にごはんを食べることはできないわ! その代わり、私が毎日きちんとごはんをあげるんだから、それで我慢しなさい! 」


 ブロンは、「そんなの嫌だ! 」とでも言いたげな悲鳴を上げ、それから、僕にすがる様な視線を向けて来る。

 どうやら、彼は僕がどれだけ彼に対して寛大(かんだい)であったかをようやく理解した様だった。

 僕はパイロットとして忙しかったというのもあるが、ブロンがライカや301Aの人々のお気に入りだということで、かなり甘いやり方をしていたと思う。


 ブロンに頼られて悪い気はしないのは確かだったが、アリシアのやろうとしていることは明らかに正しかった。

 ブロンは、どう贔屓(ひいき)目に見ても太り過ぎだ。

 アリシアは基本的にしっかりしているから、彼女に任せていれば、ブロンは遠からずすっかりスリムになって、健康的になっていることだろう。


 その上、アリシアはハットン中佐にかけあって、勝手にブロンにエサを与えないようにというお触(ふ)れまで出してもらったのだという。

 僕はこれまで全くそんな手を思いつかなかったが、僕らは軍隊組織だったから、非公式なものとはいえ上官からのお達しは効果抜群だろう。

 ブロンにとっての「春」は、確実に終わりを迎えようとしている。


「さ、兄さん。その子を渡して? ちょうどブラシをかけてあげようと思って探していたところだったの。その子ったら、私を見るとすぐに隠れちゃうんだから」


 アリシアはそう言うと、ブロンを僕から受け取るために両手を差し出しながら1歩前へと進んだ。

 それに対し、ブロンは、「見捨てないで! 助けて! 」と、すがる様な視線を僕へと向けて来る。


 少しだけだが、僕の心は揺らいだ。

 だが、アリシアが実行しようとしている、ブロンスリム化作戦は、全面的に正しい。


 僕はブロンのために心を鬼にし、彼をアリシアへと手渡した。

 ブロンは、「裏切り者! 」とでも言いたげに鳴き、僕の方を睨みつけ、それから「触るな! 俺は痩(や)せたいなんて思ってないんだ! 」とでも言いたげに激しく鳴きわめきながらアリシアに抵抗を試みた。


 だが、アリシアも家禽(かきん)の扱いは手慣れている。

 ブロンはアリシアの両手でがっちりと抑え込まれ、彼女には勝てないと理解したブロンは、全ての希望を失ってしまったかのようにガックリとうなだれた。


「あら、やっと諦めたのかしら? それじゃぁ、ブラシをかけてあげるわね。せっかく綺麗な羽をしているんだから、ちゃんとお手入れしてあげないと」


 アリシアはそう言うと、懐(ふところ)からアヒル用のブラシを取り出し、ブロンの羽毛を優しくなで始める。

 ブロンは、複雑そうな表情だ。

 ブラシでなでられて気持ちいいのは間違いなかったが、自由にエサを食べられる我が世の春を終わらせてしまった張本人の手の中にあるのだから、悔しくて仕方が無いのだろう。


 僕は確か、ブロンにブラシをかけてやろうと思って探していたはずだったが、妹にその権利は譲ることにした。

 それに、自分でするよりも、妹がブラシをかけてやっている様子を眺める方が気分もいい。

 何だか、牧場で、平和に、楽しく、家族と暮らしていたころに戻った様な気がするからだ。


 僕の家は、今、どうなっているのだろう?

 最後に見た時はまだ僕の記憶のままの姿でそこにあったが、まだ無事に建っているだろうか。


「なんだか、懐(なつ)かしいわね」


 昔を懐(なつ)かしく思っているのは、どうやら僕だけではない様だった。


 だが、僕は、アリシアの顔を見てぎょっとした。

 何故なら、彼女の双眸(そうぼう)から、涙が零(こぼ)れていたからだ。


「あ、アリシア? いったい、どうしたんだい? 」

「ごめんなさい、兄さん」


 僕が心配すると、アリシアはそう言って涙をぬぐい、笑って見せた。


「何でも無いの! 」


 彼女はそう言うが、しかし、何でも無いのに急に泣くはずが無い。

 アリシアの腕の中にいるブロンも、不機嫌そうな態度を作ってはいたが、心配そうにアリシアの方をチラチラと見上げている。

 奴は食いしん坊で傲慢(ごうまん)なアヒルだったが、そういう気づかいはできる鳥だ。


 僕は、必死になって、アリシアの涙の理由を考えた。

 アリシアはしっかり者で、他の弟や妹たちの面倒をよく見ていたし、そんな弟や妹たちを心配させないために、辛い時でも笑顔を見せる様な性格だ。


 彼女は一見すると元気そうだったが、考えてみれば、今も無理をしているのかもしれない。

 故郷から遠く離れ、家族とも別れ、今は、連邦軍機の攻撃によって、借り家とはいえせっかく手にした家も焼き出されてしまった後だ。

 それに、母さんも、怪我をした。

 アリシアは心配ないと言って笑って見せたが、それは、僕を心配させまいとしただけだ。


 僕は母さんが怪我をしたと聞いて驚き、無事であったと知ってすっかり安心して、目の前にいる妹がどんな目に遭ったのか、どんな気持ちでいるのかに考えが及ばなかった。

 アリシアは母さんと同じ場所にいて、母さんが怪我をする瞬間を見ていたはずだ。


 1歩間違えば、母さんが死んでしまっていたかもしれない様な場面を、その目で見ていたはずだ。

 そして、彼女自身も、そんな、辛い目に遭っていたのだ。


「アリシア。……怖いのかい? 」


 僕がそうたずねると、アリシアは驚いた様な顔で僕の方を見上げた。


 そして、その双眸(そうぼう)が、涙で滲(にじ)む。


 アリシアは肯定も否定もしなかった。

 だが、彼女がどんな思いで日々を生きて来たのかは、何も言わなくても伝わって来る。


 僕には、やるべきことがある。

 だが、そのことに必死で、妹のことを見ていなかった。

 母さんが怪我をしている今、僕が、真っ先に気がついてあげなければならなかったのに。


 僕はきっと、悪い兄なのだろう。


 僕は、アリシアをそっと抱き寄せると、「きっと、僕が何とかするから」と、彼女に約束することしかできなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る