12-12「親父」
その光景を目にした時、僕の身体は勝手に前へと走り出していた。
僕の頭はその行動の理由をはっきりと示すことができなかったが、とにかく、何かをしなければと思った。
エルザが引き金を引くのを止めようと走り出したのは僕だけでは無かった。レイチェル中尉も、カルロス軍曹も、遮蔽物(しゃへいぶつ)にしていた機体の胴体を飛び越え、エルザに向かって走り出していた。
エルザに最も近い位置から走り出したのは、カミーユ少佐だった。エルザと少佐の間にはほんの数秒でたどり着けるだけの距離しかなく、誰よりも先にエルザへとたどり着けるはずだった。
数秒。
たった、数秒だ。
だが、僕らには、その、ほんのわずかな時間でさえ与えられていなかった。
エルザが自身へと向けた銃口からは、僕らの内で誰かが到達するよりもずっと早く、弾丸が放たれるだろう。
彼女の指はすでに引き金へとかけられており、あとは、指に力を入れるだけだ。
そしてそれは、1秒も時間があれば十分な動作だ。
誰も、間に合わない。
エルザを救うことはできない。
僕の頭は、1歩目を踏み出した瞬間(しゅんかん)にそのことを理解したが、それでも、僕の身体は走るのをやめなかった。
諦めたくなかった。
エルザを死なせたくなかった。
僕は、彼女のことをほとんど何も知らない。
彼女が行った破壊工作という事実は消えることは無いし、それは、許される様なことではない。
だが、彼女が自分からスパイとなったのではないと、僕には信じられた。
そして、そうであるなら。
こんな形で死を選ぶのは、間違っている!
それは、彼女にふさわしい死に方ではない。
この基地にいる誰もが、望まない結末だ。
僕は、僕の手が、エルザに届かないことを知っている。
それでも、祈らずにはいられなかった。
僕は、僕の知っているあらゆる聖人、天使、そして、神様へと祈った。
エルザの死を止めることができるのであれば、何でもよかった。
銃が何故か故障してくれたっていいし、弾薬が不良品で不発であってくれてもいい。エルザの指が突然、麻痺(まひ)して動かなくなるというのも、この際、悪くない。
もし、エルザが引き金を引くのを止めてくれるのであれば、それが、悪魔による力でも、全くかまわない。
僕らは、戦争をしている。
命の奪(うば)い合いを、やっている。
僕は望んでそうしたことは一度も無いが、自分自身、戦闘機という、どう取り繕(つくろ)っても兵器以外の何ものでもないものに乗って、敵機を撃ち、敵機から撃たれてきた。
僕らの生と、死は、いつも隣(となり)り合わせに存在する。戦争の渦中(かちゅう)にあって、その境界さえ、もはや存在しないのかもしれない。
そんな時代に、誰かが死ぬことは、当たり前のことだ。
僕にとって、エルザは敵のスパイであり、裏切り者であり、他人でしかない、そのはずだ。
だが、僕は、エルザがこんな形で死を選ぶことに、どうしても納得ができなかった。
彼女が、罪にふさわしいことをやったのだとしても。
ここで、死を選ぶことに、いったい、どんな意味がある!?
永遠に思える様な一瞬の後。
銃声が響く。
それは、格納庫の中に反響して、何度も僕の耳に届けられた。
僕の耳が最初にその音を聞いた時、僕は、全身の血液が急に全て抜けてしまった様な、そんな、冷たい感覚に襲われた。
自然と力が抜けて、僕は、走り出してから数歩、前へと進んだところで、床に膝(ひざ)をついてしまった。
間に合わなかった。
どうして?
なぜ?
僕らは、一体、どうすれば良かったのか?
そんな思いが僕の心の中で膨(ふく)れ上がり、そして、すぐに消えていった。
僕の目が、まだ立ったままでいるエルザの姿を見たからだ。
彼女は、呆然としたような顔で、自身の手を見ていた。
そこには、つい数秒前まで、拳銃が握られていたはずだった。
だが、そこにはもう、何も存在しない。
半開きになって固まっている、エルザの指があるだけだ。
僕が状況を理解し始めた時、格納庫の中に、金属製の物体が床に落ちて転がっていく、コンクリートと金属がぶつかる乾いた音が響いた。
エルザの手から弾き飛ばされた拳銃が落ちた音だった。
エルザの銃からは、弾丸は放たれなかった。
では、さっき、僕が確実に耳にした銃声は、どこから発せられたものなのか?
僕が自分の首と目を何とか動かして銃声の出元を探すと、それは、すぐに見つかった。
その銃は、ハットン中佐の手に握られていた。まだ、その銃口から硝煙が立ち上っている。
僕らが使っている軍の制式兵器としての拳銃ではなく、どうやら、中佐が個人的に所有を認められている銃である様だった。
僕はその銃を見たことが無かったが、グリップと引き金よりも前に弾倉を装着する部分のある、大型の拳銃だ。
銃声はハットン中佐がその大型の拳銃を発砲したもので、発射された弾丸は正確にエルザが持っていた拳銃だけを射抜き、彼女の手から弾き飛ばした様だった。
「エ……? どウ、シて……? 」
エルザは、緩慢(かんまん)な動きで状況を確認し、そして、呆然としたまま言った。
ハットン中佐の、これまでに聞いたことの無い大きな、そして、厳とした声が辺りに響いた。
「エルザ! 君は我が指揮下の第1戦闘機大隊の整備班の1人だ! つまり、私の部下である! 私の部下である以上、我が命令以外で、勝手に死ぬことは許さん! 」
それは、何と言うか、叱りつける様な言葉だった。
父親が、とんでも無い間違いを犯そうとした子供を叱りつける、そんな声だ。
僕は、不思議なことに、自分の父さんのことを思い起こしていた。
僕がまだ幼いころ、家で飼っていた馬にいたずらをしようとして父に見つかり、これ以上ないほど怒られた思い出だ。
当時の僕は幼く、よく理解していなかったのだが、馬というのは賢くて人間の友人となり得る動物だったが、危険な面もあった。
馬は走るのが速く、その上、人を乗せたり、物を乗せたり、何かを引いたりできるほどに力がある。
そんな馬の蹄(ひづめ)に蹴られでもしたら、僕など、ひとたまりもない。
その時の僕は、そのことを知らなかった。友達をちょっとからかってやろうというくらいの気持ちでしか無かった。
だが、もう少しで、簡単に命を失ってしまうところだった。
父さんの怒り様に僕は大泣きに泣いたのだが、今では、それが必要なことだったのだと、僕は理解している。
厳格な声の中に、優しさと、悲しさの入り混じった様な、父親の様な声だった。
ハットン中佐のその言葉は、エルザの心にも届いている。
彼女は呆然とした様に立ちすくんでいたが、やがて、その双眸(そうぼう)から涙がこぼれて頬を伝い、そして、エルザはその場に崩れ落ちてうずくまった。
エルザの、逮捕という名の保護は、すぐに行われた。
自分自身の命を断とうとするほどに追いつめられていたエルザが、もう1度同じことを試みない様にするためには、その身柄を拘束し、身動きを制限することが最も確実な方法だったからだ。
カミーユ少佐がエルザへと駆けより、憲兵を呼んですぐさま彼女を拘束した。
拘束と言っても、エルザの生命を救うというのがその目的だった。少佐はエルザを臨時の勾留場所へと連れて行くことになったが、整備班から志望者を募(つの)り、彼女への同行を依頼した。知り合いに近くに居てもらうことで一時的な放心状態にあるエルザの気持ちを少しでも落ち着け、不安をできるだけ取り除こうという、少佐なりの配慮らしかった。
僕は、ありとあらゆることに感謝を捧(ささ)げた。
僕は結局、何もできないままだったが、とにかく、エルザは死なずに済んだのだ。
それだけでも、僕の胸の中はいっぱいだった。
おかげで、腰が抜けて、立てない。
「ミーレス、あなた、大丈夫? 」
いつの間にか近くまでやって来ていたライカが、ほっとした様な表情のままそう言って僕を心配してくれたが、僕はやっぱり立ち上がることができず、彼女にありがとう、と返すのがせいぜいだった。
僕は、ハットン中佐の指揮下に入ってからもう、随分(ずいぶん)と経つ。
だから、中佐の人柄はある程度知っていたし、尊敬もしていた。
だが、今日の出来事で、僕らの中佐への敬意は、敬愛といったものへと変わることになった。
ハットン中佐のエルザへの言葉には、温かさがあった。
それは、そうそう簡単に誰かへ向けられる様な種類のものではない。
指揮官としてだけではなく、ハットン中佐は僕ら、彼の部下に対し、真剣に向き合い、考えてくれている。
それが、今回の、たった1回の出来事で、僕らにはっきりと理解された。
この日以来、ハットン中佐は、僕ら、第1戦闘機大隊に所属する人々の間で、密(ひそ)かに「親父」と呼ばれることになった。
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