第2話:「パイロット候補生」

2-1「鬼教官」

 エメロードはまさに、宝石の様な飛行機だった。

 彼は僕の意思に寸分たがわずに従い、僕の思い描いた様に飛んでくれる。


 その日、とうとう我慢できなくなった僕は、基地の上空で3回宙返りをし、くるくると機体を独楽こまの様に何度もロールさせ、S字カーブを描きながら飛行した。


 本当に、本当に、素敵で、楽しい時間だった。


 こんな瞬間が、いつまでも続けばいいのに。僕は本気でそう願った。


 だが、いつまでもこんな風に遊んでいる時間は無かった。

 訓練飛行の後だったから、燃料がもうギリギリで、僕は夢から覚めなければならなかった。


 僕は、未だに着陸については苦手意識を持っていたが、エメロードは素晴らしい機体だったから、滑走路へのアプローチも、そして着陸も、実にスムーズだった。


 無事に着陸を決めた僕は、そのまま機体を滑走させ、先に着陸した仲間が機体を並べている駐機場へと向かった。


 今日の飛行訓練は、これでお終いだ。後は着陸後の点検を行って、訓練の報告書を作成し、上官に提出すればいい。


 機体を綺麗に一列に並べ、エンジンを停止した僕は、パイロットが行う機体の点検をさっさと済ませ、幸福感の余韻よいんに浸ったままキャノピーから身体を乗り出した。

 その時だ。


 ぱん、ぱん、ぱん、と、乾いた拍手の音が聞こえてくる。


 音のした方向に視線を向けると、そこには、ここにはいないはずの教官殿が、満面の笑みを浮かべながら立っていた。


 僕は素早く、教官殿の全身を上から下まで確認する。

 何でも、幻覚や幽霊というものは、身体が透けて見えたり、影が無かったりするものなのだそうだ。

 きっと、今、目の前に立っている教官殿も、僕の幻覚か、幽霊に違いない。


 そうであって欲しい!


 だが、僕のそんな願望は叶わず、教官殿には影も形もあった。


「いやぁ、ミーレス。実に見事な飛行だったじゃないか」


 教官殿はにこやかな表情を保ったままそう言い、余裕たっぷりの足取りで僕の方へと向かってくる。


 僕は、へびにらまれたかえるの様に、動けない。


 今更だが、ミーレスというのは、僕の名前だ。この大陸に存在した古代文明の古代語から両親がつけてくれた名前だったが、意味はよく覚えていない。

 それに、今、そんなことは重要ではない。


「れ、れ、れ、レイチェル中尉殿。み、み、み、見ておられたのですか? 」


 かろうじて、口だけが動く。

 声が裏返っている。

 身体の震えが、止まらない。


「見ておられたのですか、じゃ、ねーだろゴラァッ!!? 」


 笑顔が一転、僕らの教官殿、レイチェル中尉は、迫力たっぷりのだみ声をあげ、鬼の様な形相を作った。


 名前から察した人もいるだろうが、僕らの敬愛するべき教官殿、レイチェル中尉は女性パイロットだ。

 日差しの豊富な王国南部の出身者に多い、よく日焼けした肌と黒髪を持ち、整った精悍な相貌そうぼうを持つ。身長も高く、引き締まった身体はスラリとしていて見栄えがする。隊内では美人として有名だったが、今は、鬼か悪魔の様に恐ろしい顔をしている。とても怖い。

 僕らの教官を務めていることからも分かる様に、誰からも認められる抜群の実力を持つパイロットで、鍛えぬいた身体を有している。腕力も体力も、精鋭の男性兵士と変わらない。


 そしてレイチェル中尉は、口よりも先に手が出るタイプだった。


 僕がまだなぐられていないのは、中尉との間に距離があったからで、そうでも無ければとっくにぶたれていただろう。

 今まで何度もそんな目にっているので、間違いないと断言できる。

 中尉の恐ろしさは身に染みている。


 僕は、思わず逃げ出そうとして、キャノピーから転がり落ち、機体の下翼の上に背中から落ちる。どすんとなかなか良い音がした。


 起き上がったころには、既に中尉が至近にまで迫っていた。


「おう、ミーレスよぅ。お前、あたしの命令、聞いたよなぁ? 訓練で命じられた以外じゃ、勝手に曲芸飛行すんのは禁止だってヨォ? なのによォ、随分ゴキゲンなことやってんじゃねェかヨ? 」


 中尉は、飛行帽の上から僕の頭を鷲掴わしづかみみにすると、きりきりと締め上げながら、たっぷりとどすの効いた声で詰問きつもんする。


 現場をはっきりと抑えられている以上、僕は何の弁明もできなかった。


「どういうこと何だヨ? 何か理由があるんなら言ってみろヨ? 聞くだけは聞いてやるからサ? それとも、あたしの命令がきけなかったってーのカ? 」


「も、も、も、申し訳ありません中尉殿っ! ちょっと、機体の性能を確かめただけでして、 決して中尉殿の命令を忘れていたわけでは無くっ! 」


 僕は、命乞いをする様にまくし立てた。


 中尉は、尚も僕の頭蓋ずがいをその強靭きょうじんな握力で締め上げ続けている。飛行帽の上からゴーグルが食い込んできて、かなり痛い。


 だが、僕は、何の抵抗も反抗もしない。

 少しでも反抗的な態度を取ろうものなら、余計に痛い目を見るだけだと知っているからだ。


「ミーレス、お前には罰が必要だ。二度とあたしの命令に背かないよう、しっかりと記憶に残るような、とびきりの罰がな……。分かるよなァ? 」


 僕の頭蓋ずがいを容赦なく圧迫しながら、中尉は言い聞かせる様に、ゆっくり、じっくりと話す。


「ハ、ハイ、ヨ、ヨク分カリマス」


 僕は、一も二も無く、了承する他は無い。


 僕の返事を聞くと、レイチェル中尉は、にっこりと満面の笑みを浮かべた。


「よぉし。んじゃさっそく罰を受けてもらうぞ。……忘れられない様に、たっぷりとかわいがってやる」


 僕は、ただただ、震え上がるしかなかった。

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