1-5「飛行」

 最初に操縦桿を握ったのは、ほんの数分で、真っ直ぐに飛ばすことしか許されていなかったが、飛行時間が増えるにつれ、やれることは増えて行った。


 やれることが増えるにつれ、僕は、空と、そこへ僕を運び上げてくれる飛行機という存在に、ますます夢中になっていった。


 緩やかに翼を傾ける、小さなバンク角での旋回に始まり、上昇や下降、離着陸等の基本動作を学び、それから徐々に、曲芸飛行の様な難しい飛行法の学習に進んでいった。


 基本的な動作で一番難しいのは、着陸だった。飛び立つのはエンジンを全力にして機体の姿勢を制御しながら滑走し、速度が十分ついたら操縦桿を引くだけだから、さほど難しいことは無いのだが、着陸はいつでも緊張した。


 空を飛べると言っても、ずっと飛んでいられるわけではない。燃料が無くなれば、飛行機は落ちるしかない。だから着陸は必須の技術だ。

 だが、空から見ると滑走路というのは意外に小さく見える。地上から見ると滑走路というのは実に広大なのだが、着陸進入を始める時には豆粒ほどにしか見えない。

 その豆粒に向けて、徐々にエンジンスロットルを絞り、速度を低下させて高度を落とし、うまく滑走路に車輪を着けなければならない。この時の速度と進路の調整が忙しい。

 速度がつき過ぎていたり、降下速度が大き過ぎたりすれば、着地の衝撃で車輪が壊れる。速度の調整のためにかかりきりになれば、いつの間にか進路がずれていて、滑走路からはみ出してしまう。


 それに、単発のプロペラ飛行機というのは、離着陸時に真正面がほとんど見えなくなる。

 これが一番、厄介だった。


 機首に大きなエンジンを積んでいるため、仕方のないことなのだが、前が見えないので着陸の最後の瞬間は勘に任せて車輪を接地させなければならなかった。

 機首の両脇、コックピットのキャノピーの両側面から斜め下方を確認できはするので、その側方の視界が頼りにはなったが、それでも難しいことには違いなかった。


 僕はずっとこの着陸が苦手で、なかなか上達せず、教官からはいつも厳しい評価をもらっていた。


 一番恐ろしかったのは、エンジンが停止した状態で、滑空しながら着陸するという訓練だった。


 僕を初めて空に運んでくれた飛行機は、初等練習機というのだが、これは単発複葉複座の飛行機だった。単発ということは、エンジンが1つしかないということで、そのたった1つしかないものに問題が起こると想定した訓練は必須のものだった。


 滑空状態というのは、大まかに言って、高度を消費しながら速度を稼ぎ、飛行に必要な揚力をかろうじて得ているという状態だ。

 つまり、何もしていなくとも、勝手に高度がどんどん下がっていくのだ。


 滑空しながら滑走路へ向けて進路を取り、常に下がり続ける高度を気にしながら着陸するのは、何とも心臓に悪い経験だった。


 それに、僕は着陸に苦手意識を持っていた。

 着陸進入に失敗し、危険だと判断されて、教官にエンジンの緊急始動をされるということを、僕は何度も経験する羽目になった。


 やがて、基本的な飛行をマスターすると、僕は初等練習機を卒業し、中等練習機での操縦訓練へと進んだ。

 中等練習機は初等練習機と同じ様に単発複葉複座の飛行機だったが、エンジンの馬力は初等練習機の2倍以上もあり、最大速度も毎時200キロメートルを超え、20年ほど前であれば第一線の戦闘機としても十分通用した性能を持つ機体だった。


 中等練習機でも、引き続き基本的な飛行訓練は実施されていたが、徐々に曲芸飛行の練習時間が増え、他の機体と編隊を組む訓練も行う様になっていった。

 僕も徐々に飛行機の操縦に慣れてきていたから、この頃から、空を飛ぶことを純粋じゅんすいに楽しめるようになっていた。


 だから、ちょっとばかり無茶もした。


 曲芸飛行の一種、ループ(縦方向に一回転する、いわゆる宙返り)を行おうとしていた時だった。

 調子に乗った僕は、誰よりも大きなループを決めてやろうと、機体をめいっぱい加速させた。

 エンジンを全開にし、機首を下げて高度を速度に変換しながら、機体に設定されている制限速度まで速度をあげたのだ。


 いつも口うるさい教官を、少し驚かせて、ぎゃふんといわせてやりたかった。

 速度が出過ぎていることに気付いた教官が慌てて声をあげた時、僕はしてやったと得意な気分でいっぱいだった。


 だが、次の瞬間には、僕は自分の浅はかさを呪っていた。


 制限速度いっぱいまで速度を付けた僕は、操縦桿をぐっと引いた。速度がついていて重くなっていたから、両足を踏ん張って思い切り引いたのだ。

 すると機体は、馬に後ろ足で蹴り上げられたみたいに急上昇した。


 その時はいい気分だったのだが、突然、びーん、と、何かがちぎれる音がした。


 何と、機体の上翼と下翼を支えていた細長い鋼線こうせんの1つが、かかった力に耐えきれずにちぎれとんでしまったのだ。

 そして、その音は、びーん、びーん、びーん、と、続けざまに僕の耳に届いた。


 それは、僕の機体が負荷に耐え切れずに、壊れつつあるということを示していた。


 このままでは、空中分解だ!

 事態を理解した僕は、背筋が寒くなった。


 だが、幸いなことに、機体はバラバラにはならなかった。

 上昇したことで速度が失われ、機体にかかる負荷が軽くなったためだった。


 それに、同乗していた教官の、素晴らしい操縦技術と判断力のおかげだった。

 僕から操縦を奪った教官は、ループの頂点まで来るとそのまま背面飛行に移り、ゆっくりと機体をロール(回転)させて、通常の水平飛行へと見事に戻していった。


 この出来事で僕がこっぴどく怒られ、様々な罰が与えられたのは、言うまでもないだろう。


 パイロットをクビにならなかったのは、奇跡だったと言える。

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