第9話

 痛い。怖い。嫌だ。

 もうやめて……聞き入れてもらえなかった言葉が、胸につっかえる。

 苦しくて、身体が震える。


「……のだ先生! 篠田先生! 大丈夫?」

 意識が朦朧としていた私の耳に、岡村さんの声が聞こえてきた。

「はい、深呼吸して」

 慌ててかけつけてくれた岡村さんに背中をさすられ、すーはー、と何度か深呼吸をして、だんだんと落ち着いてきた。

「大丈夫? 病院行く?」

「……す、すみません。ご迷惑をおかけして。病院は、大丈夫です」

「迷惑だなんて思ってないわよ。本当に病院行かなくて大丈夫なの?」

「……はい」

 岡村さんの言葉に、弱々しくも頷く。

 ちょっとしたことでトラウマを思い出して発作が出るなんて、やっぱりまだ自分は普通ではないのだと落ち込んだ。

「そうだ、細見さんも心配してロビーで待ってくれてるけど……話せそう?」

 自分のことにいっぱいいっぱいになってしまい、細見さんのことをすっかり忘れてしまっていた。

 彼は転びかけた私を助けようとしてくれただけなのに、申し訳ないことをしてしまった。

 しかし、今の精神状態では顔を合わせられそうにない。

「ごめんなさい……今日は無理です」

「そう、分かったわ。私から伝えておくから、篠田先生は少し待っていてね」

 岡村さんの背を見送り、どうして自分はこんな風になってしまったんだろうと涙が出る。

「もう何年も前のことなのに……いつになったら、私は“普通”になれるの?」

 男の人の手が怖い。

 でも、ピアノを弾いている細見さんの手は、怖くなかった。

 大丈夫かもしれないと思ったけれど、私の心は弱いままだ。

「細見さん帰ったわよ。篠田先生のこと、とても心配していたわ。無理しないでくださいって。本当に優しい人ね」

 生徒の目の前で、かっこ悪いところを見せてしまった。

「はい。細見さんは、本当にいい人だと思います……だから、レッスンは他の先生にお願いした方が良いと思います。やっぱり、私には無理です」

 男性の生徒を持つなんて。

 怯えてビクビクしているだけの講師なて、駄目だ。

 細見さんは優しくて、暴力なんてふるわないと分かっている。

 それでも、いつ豹変するか分からない。

 その、“もしも”の可能性に怯えて、私は今まで生きてきた。

「そう? 案外、篠田先生も楽しそうにやっているように私は見えたけど」

 何もかも見透かしたような目で、岡村さんが微笑む。

 楽しかった。

 ピアノに真っ直ぐ向き合って、一生懸命練習して、弾けるようになった時はとても喜んでいて。

 講師として、その姿を見るのが、とても。

「細見さんね、入会金を払う時に私に何て言ったと思う?」

「……こんな講師じゃ頼りない、とかですか?」

 自分に関することは、いつも後ろ向きな考えしか浮かばない。

「『篠田先生を怖がらせないためにはどうすればいいですか?』って、真剣な顔で聞いてきたのよ。だから、私も真剣に答えたわ。篠田先生を気にするよりも、細見さんはピアノを弾くことだけに集中してください! ってね」

 岡村さんには敵わない。本気でそう思った。

 細見さんがピアノに集中して、一生懸命だったから、私は男性であることを強く意識せずに指導ができていたと思う。

 でも、やはり。同じようなことがレッスン中に起きて困るのは、細見さんだ。

「ねぇ、篠田先生?」

 その声に顔を上げると、岡村さんが心配そうな笑みを浮かべて私を見ていた。

「今すぐに答えを出さなくてもいいんじゃない? とりあえず、一週間、考えてみて」

 ずっしりと重い宿題を出されたような気分だった。



(私は、どうしたい……?)

 このレッスンを断れば、私は男性と関わらない生活に戻れる。

 細見さんに出会う前の私なら、一週間考えるまでもなく無理だと答えていた。

 しかし、今は心に迷いが生じている。

 このまま、元の生活に戻ってもいいのだろうか。

 細見さんとのレッスンは、講師としてのやりがいに満ちていた。

 彼が男性で、私が男性恐怖症であることを除けば。

 細見さんは、目の前で発作を起こした私を見てどう思っただろうか。

 不快だ、面倒だ、と思っただろうか。

 厄介な講師であることは自覚している。

 でも、もし細見さんに断られたらと思うと、嬉しいというよりも悔しいが勝っていた。

 だって、まだ曲は完成していないのだ。

 最後まで弾く姿を見たい。友人への祝いの曲を、きちんと弾かせてあげたい。

 講師としてのプライドが、こんな私にもあった。

 そのことに気づかせてくれたのは、他でもない細見さんだ。



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