第10話
一週間後。
私はいつも通り、細見さんの到着を待つ。
「よかったわ。篠田先生が本心で細見さんのレッスンをやりたくないって思っていなくて」
にっこりと、岡村さんが笑う。
「私以外の先生の方が、きっとうまく指導できるんだろうなって思ったんですけどね。体験レッスンの時の、まっすぐな細見さんの目を思い出して。それに、私言っちゃったんですよ。一緒に曲を完成させようって……だから、細見さんに断られない限りはちゃんと最後まで指導したいなと思ったんです」
「篠田先生、強くなったね」
「そんな、岡村さんのおかげです。私一人じゃ、自分から男性に近づこうとも思わなかったですから……」
岡村さんからのあたたかい眼差しに、私はぎこちない笑みを返す。
なんだか恥ずかしい。
「あら、嬉しい。でも、まだこれからでしょう?」
「はい。でも、本当にありがとうございます」
私の男性恐怖症が治った訳ではない。完全に過去のトラウマを乗り越えた訳でも。
だから、岡村さんの言う通り、まだこれからだ。
岡村さんと話をしていると、細見さんが時間通りにやって来た。
「細見さん、先週はご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした!」
「いえ、僕の方こそ、驚かせてしまってすみませんでした」
「そんなっ! 細見さんは私を助けようとしてくれただけです!」
「ちょっと二人とも、何をロビーで頭下げあってるんです? この調子じゃレッスン時間なくなりますよ」
顔を合わせるなり、互いに謝罪し合う私たちをみかねて、岡村さんが口をはさんだ。
「あ、そうですよね。細見さん、行きましょうか」
「篠田先生、あんなことがあったのに、これからも僕のレッスン続けてくれるんですか?」
「みっともない姿をお見せしてしまいましたが……細見さんが嫌でなければ、続けさせて欲しい、と思っています」
「嫌な訳ないじゃないですか! よかった……これからは怖がらせるようなことは絶対にしません! あ、でも命の危険とかやむを得ない場合は、また触れてしまうかもしれませんが……」
ぱあっと笑顔を見せたかと思えば、しゅんと縮こまる細見さんを見て、私は小さく噴き出した。
「はい、ありがとうございます」
そうして、一波乱あったものの、私と細見さんのレッスンは問題なく始められた。
「そうだ、今日はもうレッスンも終わりだし、三人でご飯でも行きません?」
レッスン終わり、岡村さんが笑顔で出待ちしていた。
は? と固まる私と細見さん。しかし、岡村さんの中ではすでに決定事項だった。
「向かいの定食屋さんでいいわね?」
安くて美味しい、定食屋『吉まる』。
よくお昼休みに一人で食べにくるこの場所に、まさかこんなメンバーで来ることになろうとは。
角のテーブル席につき、上機嫌な岡村さんとそわそわしている細見さん。そして、久々の男性交じりのご飯ということに緊張している私。
「細見さんここ来たことあります?」
「いえ、初めてです」
「ここね、から揚げ定食がおすすめですよ」
「じゃあ僕はから揚げ定食で」
「篠田先生は?」
「あ、私はレディース定食で」
吉まるでは、野菜中心のレディース定食が定番だった。
注文を終え、料理が出てくる頃には先ほどまでの気まずさは薄れていた。
岡村さんの雑談のおかげだろう。
細見さんも、にこにこと楽しそうに話をしている。いつもレッスンでしか見ていないため、普通に話をしているのを見るのは不思議な気分だった。
「……それで、最近僕の友人たちみんな結婚ラッシュで」
「細見さんはそういう人いないんですか?」
「今はいないですね。仕事ばかりでそういう出会いも全くなくて」
「私の友人なんて結婚ラッシュが終わったと思ったら離婚ラッシュよ。焦って結婚なんてするもんじゃないわよ~」
岡村さんが、カラカラと笑う。
かくいう岡村さんもバツイチのシングルマザーだったりする。岡村さんは子どもさえいてくれれば男はいらない、と豪語している。
「私は結婚以前の問題なんですけどね……」
岡村さんのいつものノリに乗せられて、私も思わず口をはさむ。
「でも、男性恐怖症の篠田先生が細見さんのレッスンできてるんだから、すごい進歩よ! ね、細見さん? 篠田先生ちゃんとレッスンしてくれてますよね?」
「はい! 僕が下手でも、すごく優しく教えてくれます! だから、毎週すごく楽しいです」
グッと細見さんが笑顔で親指を立てた。
「そんな! 私の方こそ、ありがとうございます……って、本人目の前にしてできてないなんて、細見さんが言える訳ないじゃないですか!」
「ほらほら、こうやってレッスン以外でも普通に会話できてるんだから、少しは慣れてきたんじゃないの?」
私よりも何枚も上手な美女のウインクに、何も言えなくなってしまった。
そう。今までなら、こんな風に男性を交えて食事をしたり話をすることなどできなかった。
レッスンを通して、細見さんを“男性”ではなく、“細見さん”個人として認識できているのかもしれない。
ただ、触れてしまったり近づくと、どうしても男性特有の体つきであったり、大きな手に恐怖を感じてしまう。
先日も、そのせいで迷惑をかけてしまった。思い出して、申し訳ない気持ちで細見さんを窺うと、ばっちり目が合ってしまった。
「篠田先生は、本当にいい先生だと思いますよ」
私の目をまっすぐ見て、細見さんがにっこりと笑う。
毎回のレッスンで不快な思いをさせていないかとか、十分に指導できていないのではないかとか、楽しんでもらえているか、とか……子どもたち以上に、細見さんのレッスンは不安と緊張が大きかった。
その不安や緊張が、この一言で消えた気がした。
自信を持っていい。そう言われたような気がして、胸が熱くなる。
(どうして、細見さんはいつも私が欲しい言葉をくれるの……?)
私はいつも自分に自信がなくて、自分で自分を否定していた。
だから、私は自分を守れなかった。
好きだと言われただけで浮かれて、こんな自分を頼ってくれることが嬉しくて、尽くしたくて、捨てられたくなくて、暴力を振るわれても彼に必死で縋り付いていたのは自分だった。
男性恐怖症になったのは、彼だけが原因ではない。私の心が弱くて、自分を守ることができなかったから。
自分で自分を認めることは難しい。でも、まっすぐな目で、誰かに認めてもらえると、どうしてこんなにも力が湧いてくるのだろう。
なんだか、泣きそうになった。
「ありがとうございます……でも、もっと頑張ります!」
ぎゅっと拳を握り、私は宣言した。
いい先生は、きっとうじうじ悩んだりしない。
変わるんだ。細見さんだって、忙しい仕事の合間にピアノの練習を頑張っている。
すぐに上手に弾ける訳ではなくても、確実に進んでいっている。
私も、前に進みたい。変わりたい。強くそう思った。
~♪~
あれから、ご飯会のおかげもあってか、私と細見さんは最初よりも近い距離でレッスンを行えるようになっていた。とはいえ、隣での指導はまだできない。
それでも、細見さんの努力が実を結び、本番を目の前にした九月には一曲通しで弾けるようになっていた。
「ようやく、ここまで来ましたね!」
「はい! まさか本当に僕が弾けるようになるなんて思いませんでした! 篠田先生のおかげです!」
「いえ、細見さんがたくさん練習したからですよ」
むず痒いくらいに、講師と生徒で褒め合う。
しかし、それも仕方のないことだ。
これが、細見さんの結婚式前の最後のレッスンなのだから。
「本番、しっかり頑張ってくださいね。この調子で弾ければ、問題ありませんから」
「はい! あぁでも、篠田先生がいないところで弾けるか不安です……」
「大丈夫ですよ。ちゃんと弾けていますから。あとはお祝いの気持ちをたっぷり込めて弾くだけです!」
本番を前に、珍しく細見さんが弱気になっていた。私自身も細見さんの本番についていきたい気もしているが、さすがにそれはできない。
だから、細見さんが自信を持てるように励ます。
「細見さん、頑張ってくださいね!」
目的である結婚式が終われば、細見さんはもうレッスンには来ないだろう。
それを、心のどこかで寂しいと感じる自分がいた。
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