第8話

 また、殴られた。痛いけど、もう慣れた。

 ピアノを弾く両手だけは庇って、私は彼の機嫌をとるために跪く。

 謝り続けていれば、悪魔のような彼は気をよくして、元の優しい彼に戻るから。


『梨衣、ごめんな。でも俺、本当にお前のこと愛してるんだ』


 私を殴ったその手で、彼は嘘みたいに優しく私を抱く。

 おかしな世界に迷い込んでしまったかのように、私の思考や常識はぼんやりとしていて、彼のこと以外何も考えられなくなる。

 同じ音大の先輩で、打楽器専攻の彼。

 学内でいくつかオーケストラを編成することになった時、私は彼と初めて出会った。

 第一印象は、明るくて、ノリがいい人。

 そして、目立たないように大人しく座っているだけの私のことも気にかけてくれる優しい人。


『俺、篠田さんが好きだな。俺たち、付き合わない?』


 嬉しかった。今まで告白なんてされたことはなかったし、自分は誰にも好かれないと心のどこかで諦めていたから。

 だから、聞けなかった。

 どうして、彼が私なんかを好きになってくれたのか。

 私のどこが好きなのか――なんて。

 彼の様子が変わったのは、半年ほど経ってからだった。

 一人暮らしの彼の家で、仲間内で集まって飲み会をしていた日。

 私は料理やお酒を準備するために呼ばれていた。

 彼女だと友人に紹介されて、とても幸せだった。

 それなのに、友人らが帰った後、他の男に色目を使っただろう、と酒に酔った彼は怒り始めた。

 否定しても聞いてくれなくて、私は初めて頬をぶたれた。怖い。そう思ったけれど、私をぶった彼の方が泣きそうな顔をしていたから、何故か慰めてしまった。

 あとから思えば、その優しさが私も彼も駄目にした。

 お酒に酔った時に感情が高ぶると手が出るようになったし、束縛も激しくなっていった。


『梨衣がいないと、俺ダメになりそうなんだ』


 誰にも見せられない彼の弱い部分を、私だけが支えられる。

 こんな私でも、彼に必要とされている。

 感情的になって私を殴るのは、それだけ私のことを求めて、愛しているから。

 そんな見当違いな思い込みで、私は彼の側を離れられなかった。

 しかし、私の様子がおかしいことに親友たちは気づいていた。

 隠していた腕や太ももの痣が佳代に見つかり、問いただされた。

 その時はじめて、私は暴力を受けていることを話した。

 そして、佳代たちの言葉でこれが正常ではないのだということに気づいた。

 彼が怖かったから、すぐに別れるのは無理だと思い、距離を置こうとした。

 それも、逆効果だとは気づかずに。


『俺はこんなにも梨衣を愛しているのに……』


 彼は逆上し、私を部屋に閉じ込めた。

 彼の好きなように殴られ、蹴られ、泣きすぎて声は枯れ、痛覚も麻痺してしまいそうだった。

 それなのに、彼は婚姻届を持ってきて、結婚しようと囁いた。

 結婚すれば、もうこんなことはやめるから、と。

 好きだったはずの彼の笑顔に、もう恐怖しか感じなかった。

 結婚して、私を家に閉じ込めて、飼い殺しにするつもりなのは明白だった。

 佳代が、探してくれなければ、私はあのまま強制的に結婚させられて、悪魔の彼から逃れられなかっただろう。


 今は、まともに彼の顔を思い出すこともできない。脳が拒否しているのだと思う。

 それでも、殴られた時、蹴られた時、死ねと言われた時の胸の痛みはすべて覚えている。


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