第7話


 細見さんとの数度目のレッスン日。

 少しばかり緊張しながら、私は彼を待つ。

 七時になったが、細見さんはまだ来ない。

「いつも五分前までには必ず来てるのにねぇ」

 岡村さんも、不思議そうにしている。真面目な細見さんが、レッスンに遅れてくるなんてことは今まで一度もなかったのだ。

「何かあったんでしょうか」

 そうして連絡もなく、十数分が経過した頃、細見さんはスーツ姿で現れた。

 ひどく慌てた様子で、息を切らしている。

 開口一番、謝罪の言葉を口にした。

「本当に申し訳ありません! 年度初めで仕事が立て込んでいた上に、携帯を家に忘れてしまって連絡ができず……っ」

 仕事終わりにそのまま急いで来たらしい。

 しゅん、と落ち込む細見さんに、岡村さんと私で声をかける。

「大丈夫ですよ~。レッスン日を忘れてた、っていう子もいますから」

「そうですよ。それに、レッスンは仕事じゃありません。お仕事が大変な時は休んでくださっていいんですよ」

 真面目な細見さんだからこそ、ちゃんとしなければ! と思ってしまうのだろうが、せっかく楽しいはずの音楽が義務のようになってはいけない。

 よく子どもの親が強制的にピアノを習わせに来ることがあるが、やはり本人が楽しんでやらなければ上達なんてしない。

 無理をして来る必要はない、と私は思っている。

「その分、しっかり練習してくれていたら何の問題もありませんから!」

 ただし、細見さんの場合はタイムリミットが迫っているので、練習は欠かさずしてもらわなければ困る。

「が、頑張ります……っ!」

 ちょっと不安そうな細見さんに、岡村さんと私は笑ってしまった。

「あ、もし篠田先生と細見さんが大丈夫なら、次の時間誰もいないし、三十分部屋使ってもかまわないですよ?」

 レッスンの稼働表を確認して、岡村さんが聞く。

「僕は、もしお願いできるなら三十分していただきたいです。今週ちょっと練習不足で、少しでも弾いておきたくて……」

「それなら、岡村さんの言葉に甘えて、今から三十分やりましょう」

 その後、今週ほとんどピアノに触れていなかったという細見さんの言葉通り、前回よりもミスが多く、進みも悪かった。

 短く編曲しているとはいえ、曲の前半部分しか進んでいないのだ。あと半年ほどで仕上げなければならない。


「だめだめでしたね……この土日でしっかり練習しておきます」

「お仕事が忙しいと、仕方ないですよ。週に一度だけでも、レッスンでこうしてピアノに触れているので、まったく弾かないよりましです」

 溜息を吐きながら、大きな熊のような背中がまるくなっている。練習不足を痛感してかなり落ち込んでいるようなので、私は遠くから励ます。

 すると、細見さんがくるりと私の方に振り返り、改まった様子で口を開く。

「あの、篠田先生」

「……な、なんですか?」

「もしよかったら、一度篠田先生の演奏を聴かせてもらえませんか?」

 そういえば、この距離を保っているせいで、私は細見さんとのレッスン中ピアノに触れたことはない。

「僕は外に出ていますから! ドアの前で、聴かせてもらってもいいですか? ネットで動画を見たり、曲を聴いたりしているんですが、どうにも色々ありすぎて、篠田先生の弾き方を真似てみたいんです」

 生徒にここまで言われて、やらないなんて選択肢はないだろう。

 私は、講師なのだから。

「分かりました。数回ほどしか弾いていないので、すべて完璧には難しいかもですが……弾きましょう。あ、外に出なくてもいいですよ。どうせなら、手の動きも見ていてください」

「……い、いいんですか?」

 すでにドアへと向かっていた細見さんを止め、大丈夫だと頷いた。本当は男性に見られることにもかなり抵抗があるのだが、ちゃんとお手本を見せられる講師でありたい。

 私は立ち上がり、一歩一歩ピアノに近づく。必然、細見さんとの距離も縮まっていく。

 緊張で心臓は跳ねていたが、最初の頃のように身体の震えや冷や汗などの症状は出なかった。

 これなら、問題なく弾けるだろう。

 椅子の高さを調節し、私は一呼吸おいてピアノに向き合う。鍵盤にそっと手を置き、目を閉じた。

 そして、幸せな結婚の明るい門出をイメージして、曲を奏でる。

 弾き終えると、細見さんから全力の拍手をいただいた。なんだか目がきらきらしている。

「さすがですね! すごく素敵でした!」

「ありがとうございます。少しは、曲の感じが掴めましたか?」

「はい! なんとなく、ですが。篠田先生みたいに、弾けるように頑張ります」

「では、来週は頑張って進めてくださいね」

 年上なのに、元気よく頷く笑顔はなんだか可愛く見えた。


(飼い主に尻尾を振るわんちゃんみたい)


 そんな少しばかり失礼なことを考えていたからか、私の足は地面に這わせていたエレクトーンの電源コードに引っかかていた。


「ひゃぁっ……!」


 おもいきり転びそうになったところを、細見さんがしっかり受け止めてくれた。

 しかし、その力強い腕とたくましい胸に男性であることを意識した途端、私は反射的に突き飛ばしていた。

 がたいの良い細見さん相手に、私の力が通じるはずもなく、反動で結局自分が尻餅をつく。


「だ、大丈夫ですか? ちょっと待っててください! 今、岡村さんを呼んできます!」


「……は、うっ、はあ……」


 久々に男性に触れて、私は過呼吸に陥っていた。


 うまく息が吸えず、頭がくらくらする。


『お前みたいな地味で面白みのないブスと付き合ってやれんのは俺ぐらいだ』


 視界がぐらついた。


 感覚が、思考が、過去へと遡っていく――。



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