第5話

 細見さんとの、三回目のレッスン日。

「今日は、一ページ目の譜読みができたんですよ!」

 嬉しそうに楽譜を広げながら報告してくる細見さん。

 そう、私が彼から最も離れた場所に座っているせいで、オーバーな動きになっているのだ。

 申し訳ないとは思うが、こればっかりは仕方ない。細見さんも、これで大丈夫だと言ってくれたし……。


「すごいじゃないですか! 早速、聴かせてください」

 前回のレッスンでは、一ページ目の半分ぐらいで止まっていたのだ。かなり進められたようだ。

 はい! と元気よく返事をして、ピアノの前にかまえて……タタタ、の出だしですでに音が違っていた。

「あ、あれ、おかしいな。練習の時はうまく入れたのに」

「落ち着いてください。最初の音は“ド”ですよ」

 私は手元の楽譜を確認しながら、細見さんがゆっくりと奏でる音を聴く。

 途中で詰まる度に音や三連符のリズムを口ずさみ、離れていてもしっかりと伝えられるように気をつけて指導する。

「まだ譜読みをして二回目でこれだけ音が読めているのはすごいと思いますよ。それに、ちゃんと両手で弾くこともできていますし。お仕事もあるのに、よく練習していますね」

「ありがとうございます! あ、そういえば、ここの部分の弾き方がよく分からなくて」

 と、細見さんが楽譜に向かい、分からないという箇所を弾こうとしているが、あまりにたどたどしくてメロディになっていない。しかし、どこかは分かった。八分音符が連なり、音階が上がっていくところだ。

「そこは、そのまま弾くと指が足りなくなるので、三つ目の音の時に親指を持ってくるんです」

「親指を、ですか?」

「そうだ、これからのためにも指番号は覚えておいた方が良いですね。楽譜にはそういうあえて別の指を持ってこなければ弾けないような時のために、指番号が示されています。親指を一として、小指まで順番に数字を割り振っているんです」

「へぇ。あ、じゃあこの♪の上にある小さな数字って」

「はい。何番目の指で弾くか、というのを書いています」

「楽譜って、ちゃんと意味が分かったら面白いんですね。最初は黒い音譜がただ並んでいるだけで弾けそうにないなんて思っちゃいましたけど。読めたら、まだ弾けてなくても、なんか楽しいです」

「そうなんですよ! 楽譜が示しているのは音だけじゃなくて。テンポや音楽記号によって曲の雰囲気も伝えてくれているんです。基本的にはみんなが分かるように作られているのに、それでも弾く人によって感じがすごく変わるのが面白いんですよね……って、すいません、なんか長々と……」

 細見さんが、ピアノを始めた時の私と同じようなことを言うものだから、つい興奮して余計なことまで喋ってしまった。

「なんで謝るんですか。すごく楽しかったですよ。そういう話を聞くと、僕も昔もっとちゃんとピアノ続けていればよかったなと思います」

「どうして、ピアノ辞めちゃったんですか?」

「辞めたのは小学校四年生の時なんですけど、ちょうどその頃少年野球のチームに入ったんですよね。ピアノよりも、野球に夢中になった感じです」

 なるほど、と私は頷いた。

 私の生徒の男の子も、やはり運動系のクラブに入るとピアノを辞めてしまう子が多い。両立をしている子も中にはいるけど、やっぱり学校もあるし、遊びも大事だし、練習時間がうまく作れないのだ。

「でも今、社会人になって新しい趣味ができて楽しいです。余興を頼んでくれた友人に感謝ですね」

 細見さんは嬉しそうに笑った。私は、ピアノを楽しんでくれることが、嬉しい。

「あ、篠田先生は、どうしてピアノ講師になろうと思ったんですか?」

「……ピアノの楽しさを伝えたかったから、ですかね」

 嘘ではないが、真実でもない。

 昔から、ピアノは大好きなのに、人前で弾くのは苦手だった。

 人一倍練習したはずなのに、自分に自信が持てなくて、舞台に上がった瞬間に目の前が真っ白になって、思うような演奏ができない。

 そんなことを繰り返すうち、私は気づいた。

 地味な自分がたった一人で舞台に立つこと自体が不釣り合いだったのだ、と。

 中学生に上がった頃から、発表会やコンクールには出なくなったが、ピアノは続けていた。

 何の取り柄もない私の、唯一の特技だったから。


――お姉ちゃん、教えるの上手だね。ピアノの先生になったら?


 妹と比べられて、何一つ姉として自信を持てなかった私に、妹がくれた言葉。

 妹はすぐにピアノをやめてしまったが、私はこの一言が嬉しくて、姉として自信を持ちたくて、ピアノを続けて、本当にピアノ講師になった。

 純粋なピアノへの想いだけで講師になった訳ではないから、細見さんにきらきらとした眼差しを向けられて、気まずかった。

 だから、私はこの話を終わらせる。

「そういうことですので、ご友人のためにも、楽しくピアノを練習しましょう。さ、もう一度弾いてみてください」

「はい!」

 席が離れているから、私のぎこちない笑顔には気づかれなかったようだ。細見さんは気を取り直してピアノに向かっている。


 最初はどうなることかと思っていた細見さんとのレッスンは、思いのほかうまく進んでいた。


(普通に話せるようになってきたし、身体の震えもなくなってきた……!)


 このまま、男性恐怖症を克服していけるかもしれない。

 細見さんとのレッスンを重ねるうちに、私はそんな希望を胸に抱いていた。


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