第3話
ぽっちゃりだけど背が高くて、なんだか熊のような体格の人が、うぅむと唸りながらピアノの前で四苦八苦している。
その様子がなんだかおかしくて、ほんの少しだけ、私の中の恐怖は消えていた。
「音階はゆっくりですけどちゃんと読めていますね。これなら、ゆっくり練習していけばある程度は弾けるようになると思います。そういえば、ご友人の結婚式はいつですか? 弾く予定の曲はもう決まっていたりします?」
エレクトーン四台分ほどの距離をとって、間にバリケードのようにエレクトーンがあるおかげか、男性相手だというのに普通に話すことができた。
頑張って楽譜を読み取ろうとする姿が、似ていたからかもしれない。初めての楽譜を目の前にして、一生懸命になって譜読みをする子どもたちと。
それに、細見さんの持つ雰囲気は、柔らかくて、なんだかあたたかい。人の好さが伝わってくる笑顔と、柔らかな話し方。
しかし、そんな細見さんが私の問いかけに初めて苦い表情を見せた。
「それが……結婚式は十月なんですけど、友人のリクエスト曲が『結婚行進曲』で。僕に弾けるでしょうか……?」
メンデルスゾーン作曲の『結婚行進曲』。出だしのパパパパーン、というフレーズが有名で、よく結婚式の入場やCMにも使われている、結婚式の定番曲である。
最近はJポップやバラードなど、様々な曲が溢れているというのに、クラシックの定番曲をリクエストされてしまったのか。
今は、二月。結婚式まで一年もない。
ほぼ素人の細見さんが、どれだけ弾きこなせるのかは分からない、が……。
「確かに、今の細見さんにとっては難しいかもしれません。でも、定番のメロディを弾けるように集中して練習すればなんとかなるかと……楽譜通りにすべて弾いてしまうと長いですし、繰り返すメロディをしっかり残して短く編曲してしまえば……うん、頑張ればきっと大丈夫だと思います」
「本当ですかっ! 僕、頑張ります! 結婚するのは小学校からずっと仲良い友達で、せっかく僕に声をかけてくれたから……お祝いの気持ちをちゃんと伝えたくて!」
不安そうな表情から一変、ほっとしたような笑みを浮かべて、細見さんが思いを語る。
「篠田先生、僕、頑張りますから! これからもレッスンよろしくお願いします!」
細見さんは立ち上がり、直角に頭を下げた。
「え、わ、私でいいんですか?」
物理的距離感を置かなければならない、男性恐怖症を抱えた厄介な講師なのに。
「はい。篠田先生がいいです! あ、でも、篠田先生は男性が苦手です、よね……? もしかして、僕みたいなむさ苦しい男は目に毒でしょうか……?」
表情がコロコロと変わる人だ、と思った。
細見さんは、善い人だ。
それは、人を見る目がある岡村さんが大丈夫だと言った時から分かっていた。
けっして、私が引いた見えない一線を踏み越えてこようとはしない、優しい人。
そんな人が、何故か私がいいと言ってくれた。
講師として、選ばれたことは素直に嬉しい。
それなのに、私は細見さんが男性というだけで怖くてたまらない。
数年前のことなのに、つい昨日のことのように不安と恐怖が蘇るのだ。
(でも、男性が全員、あの人と同じ訳じゃないってことも、頭では分かってる……)
このままずっと、男性恐怖症という心の病を抱えて生きたくない。
みんなに心配ばかりかけて、気を遣わせて。
そんなの、もう嫌だ。
こんな私にだって、普通に恋愛して、普通に幸せな結婚をしたいという憧れがある。
友人たちが“普通”にしているそれが、どれだけ今の自分にとって困難であるか。
分かっているから苦しくて、ずっと悩み続けていた。
そんな日々も、そろそろ終わりにしたい。
劇的な変化じゃなくていい。
それでも、ほんの少しだけでも自分が変われるように。
私は勇気を出すことに決めた。
「私は、男性恐怖症で……細見さんにご迷惑をおかけすることもあるかと思うのですが、是非、講師をやらせてください」
「僕の方こそ、ダメダメな生徒だと思いますので、ビシバシご指導よろしくお願いします!」
自信がなくてボソボソとした私の挨拶に、にっこりと細見さんが笑顔を浮かべる。
「じゃあ、一緒に『結婚行進曲』を結婚式までに完成させましょう!」
教室の両端で、講師と生徒が拳を突き上げた。
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