第2話
体験レッスン当日。
久々に男性に近づく、ということで必要以上に私は緊張していた。
「篠田先生、大丈夫?」
「だいじょう、ぶじゃ、ないです」
あたたかいお茶を手渡してくれた岡村さんに、私は青白い顔で首を横に振る。すでに、数日前の決意はかなりぐらぐらと揺れていた。
「ほら、笑って。そんなに怯えてたら可愛い顔が台無しよ?」
「冗談はやめてください……私は、可愛くないですから……」
自分で否定して、ずぅんと落ち込んだ。
私は、とても平凡な容姿をしている。
妹は目鼻立ちがくっきりした可愛らしい顔立ちをしているのに。
目立った特徴もない私は、小中高大どの集合写真でも地味すぎて埋もれていた。時々、写っていないことに気づかれない時もあった。
そんな切ない過去もあり、私は自分に自信が持てないまま大人になった。
その上、今は男性恐怖症を抱えている。
「やっぱり男性の生徒なんて、む」
「それじゃあ今のうちに生徒さんの名前とか話しておくわね」
無理、と言おうとして遮られた。岡村さんの、逃がさないぞ、という笑顔に少し引きつつ、頷いた。
それ以外の選択肢は残されていなかった。
「名前は、
「結婚式のため?」
「そう。何でも細見さんが昔ピアノをやっていたことを新郎が思い出して、余興で弾いてくれって頼まれたそうなのよ。習っていたのは小学校低学年の頃だったし、ほとんど覚えていないからちゃんと習いたいんだって」
友人の結婚式のために、わざわざピアノを習おうとしている。
きっと、真面目で優しい人なのだろう。岡村さんが私にお願いするぐらいだし。
そう思えば、落ち込んでいた気分が、ほんの少しだけ浮上した。
「そうだ、細見さんの見た目なんだけどね」
噴き出し笑いをこらえながら言う岡村さんの言葉に、続きが気になっていると、階段を上る足音が聞こえてきた。
そこには、ぽっちゃり体型の男性がいた。柔らかな印象の目元は、少し緊張気味に周囲を見回している。茶色のニットに黒のパンツ姿のその人は、岡村さんを見つけてぱあっと笑顔になった。
「あら~、細見さん。こんばんは」
営業スマイルを浮かべた岡村さんが、その男性に向き合う。
(この人が、細見さん? 全然細くないのに、細見……)
岡村さんが言わんとしていたことが分かって笑いたい気持ちはあったが、私の身体は男性を見てすぐにいつもの拒否反応を示す。
「あの、そちらの方が?」
「えぇ、体験レッスンをしてくださる篠田先生です」
一定の距離は空いている。大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせて、私は覚悟を決めて前を向く。
「篠田です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。でも、顔色が悪いようですけど、大丈夫ですか?」
心配そうに問われ、私はなんとか頷く。
「篠田先生、いつもは小学生を相手にしているから緊張しているんだと思います。それに、少しばかり男性に免疫がなくて、ね。まぁとりあえず、教室に入りましょう!」
岡村さんに促され、私たちはL部屋に入る。
ピアノだけではなく、エレクトーンも置かれているその教室を見て、驚いたのは細見さんだ。
「僕一人なのに、こんな広い部屋を使うんですか?」
「えぇ、この教室でなければ色々と不都合がございまして」
岡村さんの有無を言わさぬ笑顔に、細見さんは納得せざるを得なかった。
岡村さんが広い部屋にしてくれたのは、私への気遣いだろう。
狭いS部屋で、男性と二人きり。三十分間のレッスンなど耐えられない。
しかし、L部屋を使うのは私も初めてだ。
基本的に、L部屋ではエレクトーンのレッスンが行われ、大会が近づくとアンサンブルの練習が入る。
アンサンブルは、二人以上の演奏者で曲を演奏するもので、エレクトーンのアンサンブル大会は定期的に行われている。ピアノのコンクールもあるが、私はコンクール向けのレッスンはしていない。
そして、今はちょうど大会が終わって落ち着いた時期だ。だから、個人レッスンにL部屋を使えるのだ。
私は気を取り直して、戸惑う細見さんに声をかける。
「細見さん、それでは……ピアノの前に座ってください」
「はい」
エレクトーンが主の部屋で、壁際にひっそりと置かれたアップライトピアノ。
その上には、使い古されたメトロノームと時計。
「簡単に弾ける初級の楽譜を用意してみました。どれぐらい楽譜が読めるのか見せていただいてもいいですか?」
譜面台に置いた初級バイエルを指し、私は尋ねる。
過去に習っていたことがあるという細見さんの実力を確認しないことには進めない。
「分かりました……っけど、あの、どうしてそんな離れた位置にいるんですか?」
我慢ならずに声に出た細見さんの疑問は、ごもっともだろう。
ピアノから最も離れた対角線上のエレクトーンの予備椅子に、私は座っているのだから。
なんとかごまかせやしないか、と思っていたが、やはり違和感ありまくりだった。
普通に考えて、レッスンを行う講師が生徒からここまで離れて指導することはない。
「え、と。すみません私、男の人が苦手で……でも、ちゃんと見えていますから! それに、これは体験レッスンなので、駄目だと思ったらすぐに言ってください……!」
目は良いのだ。
それに、小学生のレッスンでよく使っている曲だから、楽譜は覚えている。
そういう問題ではないのだが、焦る心のままに口が動いた。
「そういうことだったんですね。よかった、僕が近づけないほど臭いとかじゃなくて」
「そ、そんなことはありませんっ!」
にかっと笑う細見さんに、私はおもいきり首を横にふる。
確かに、これだけあからさまに距離をとられていたら自分に問題があるのか、と思ってしまいそうだ。
私は、大変失礼な態度をとっているだろう。
それなのに。
「篠田先生こそ、無理しないでくださいね」
「あ、ありがとうございます……」
非常識だと怒られるかも、と内心怯えていた私は、返ってきた言葉に拍子抜けしてしまった。
(まさか、私の心配をされるなんて……)
そうして、細見さんは十数年ぶりに見る楽譜を前に、たどたどしく指を動かしていく。
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