warm~やさしいあなたと~
奏 舞音
第1話
ポロン、ポロロン……と可愛らしい音色が室内に響く。
白と黒の鍵盤の上に、小さな指が踊っている。木製のアップライトピアノの譜面台には、初級のバイエル。
真剣な眼差しで音譜を目で追うのは、三つ編みが可愛い低学年の女の子。
「千絵ちゃん、よく頑張ったね。合格だよ」
「やったぁ!」
くまさんシリーズのシールを渡すと、千絵ちゃんはめいっぱいの笑顔を見せてくれた。
「りい先生、ありがとうございました!」
三十分のレッスンが終わり、千絵ちゃんは迎えに来た母親と一緒に頭を下げる。私もにっこりと微笑んで、見送った。
田舎にひっそりと存在する、イロハ音楽教室。
ここで、私、
シャッター街になりつつある商店街の一角で、夜遅くまで明かりがついているのはイロハ音楽教室と向かいにある定食屋さんぐらいだ。
基本的にレッスンは夕方からなので、必然的に閉まる時間は夜になる。
一階は主に楽譜やCD、楽器の販売を、二階ではピアノやエレクトーン、フルートなどのレッスンを行っている。
あまり広い敷地ではないため、レッスン室は三つだけだ。
八台のエレクトーンがあるL部屋と、アップライトピアノ一台とエレクトーンが二台置かれたM部屋、アップライトピアノのみのS部屋。
私がよく使うのは、S部屋とM部屋である。
S部屋は個人レッスンには使いやすいが、窓がなく、椅子を置いただけでスペースがなくなるので、かなり狭い。
S部屋に比べると、M部屋は窓もあるし、広さもちょうどいいのだが、子どもたちはスペースがあると一人でも走ったり遊んだりしてしまうので、難しいところだ。
千絵ちゃんのレッスンが最後だったので、私はS部屋に置いた荷物を片づけて、ロビーに出た。
「篠田先生、今日はもうレッスン終わりでしたよね?」
イロハ音楽教室の受付事務をしている、岡村美華子が含みのある笑顔で近づいてきた。セミロングの茶髪に、いつも完璧な化粧と身だしなみの美女だ。
黒髪で薄化粧、お洒落もよく分からず、いつも白の長袖ブラウスに暗色のスカートを履いている地味な私と並ぶと、より一層華やかさが際立つ。
(岡村さん、今日も美人だなぁ……)
その上、何かトラブルがあるとすぐに解決してしまう、このイロハ音楽教室には欠かせない人物だ。
しかし、岡村さんがこういう笑顔で近づいてくる時には必ず何か裏がある。
「ねぇ、篠田先生! お願いよ、あなたにしか頼めないの!」
用件を言わずに、懇願から入るあたり、きっと岡村さんの中では断らせる気はないのだろう。
いつもお世話になっている岡村さんの頼みだ。私もはなから断るつもりはない。
「どうしたんですか?」
「今日、体験レッスンの申し込みがあってね、ちょっと急なんだけど明後日の午後七時からお願いできないかしら?」
まだこの音楽教室で働きだして三年目の私についている生徒は、十人ほど。ベテランの先生は音楽教室と自宅のピアノ教室を兼務していたりするので、合計すると私の倍以上の生徒を持っている。
だから、生徒を確保するために体験レッスン等が割り振られるのはよくあることだ。
空き時間はたっぷりあるし、生徒の希望時間にも合わせやすい。
「なんだ、そんなことですか。大丈夫ですよ。それで、申し込んできたのはどんな子なんですか?」
笑顔で了承すると、岡村さんの口元がにやりと歪んだ。嫌な予感がする。
「三十歳の独身男性よ!」
「やっぱり無理です!」
「無理じゃない! 篠田先生、男性恐怖症を治したいって言ってたじゃない!」
「いやいやいや、確かに、治したい気持ちはありますけど、それとこれとは……」
私は、男性恐怖症である。大学時代に付き合っていた彼氏から受けたDVのせいで、男性の姿を見るだけでも身体が震えるし、心臓が嫌な動きをする。
「私がみるのは、小学生の子までって言ってるじゃないですか……!」
成人男性は怖いが、子どもならば大丈夫だ。だから、男の子の生徒は小学生までなら受け入れることにしている。
「いつまでもこのままだと家族に心配かけるって、ついこの間もお姉さん聞いたんだけど?」
「……そう、ですけど」
岡村さんは、男性恐怖症という厄介な病気を抱える私にも理解がある優しい人だ。
これまで、こんな強引なことはしなかったというのに。
(この前、あんなこと言わなければよかった)
私は、男性恐怖症の件もあり、東京の大学を卒業して、実家がある地元香川に戻ってきていた。
つい先日、友人の結婚式の招待状が届いた。
仲の良い友人の結婚は、これで三人目。他の結婚した友人にはもう子どもがいる。
それに……。
――このままずっと梨衣が独身でいるのが、母さん本当に心配だわ。
三歳下の妹はもう結婚して子どもまでいるというのに。二十七歳にもなる娘が……。
母の言わんとしていることは分かった。しかし、一人になっても大丈夫だと言える自信は今の私にはなかった。
妹は素敵な人と出会って結婚して幸せな家庭を築いているのに、どうして姉の私はいつまでも過去に囚われているのか。
前に進みたくても、また否定されるのが怖くて、傷つけられるのが怖くて、足が震える。
私はあの日からずっと、動けないままでいた。
そんな私を心配して、イロハ音楽教室を紹介してくれたのは母だ。ピアノだけが、私の取り柄だったから。
イロハ音楽教室の人は皆あたたかくて、男性恐怖症の私を快く受け入れてくれた。
しかし、結婚式の招待状が来ると、喜びたい気持ちは確かにあるのに、皆自分とは違う世界を見ているのだな、と寂しい気持ちになるのだ。
それに、もうこれ以上、母にも友人にも心配をかけたくない。
その話を岡村さんにしてしまったから、男性恐怖症を克服するために、と考えてくれたのだろうと思う。
「きっと大丈夫よ。とても優しそうな人だったから。もし何かあったら絶対に私が助けるから。ね?」
岡村さんの笑顔の裏に、心配でたまらないという感情が垣間見えた。
(駄目だなぁ、私。岡村さんにも心配をかけてる……)
でも、この体験レッスンがきっかけで本当に男性恐怖症を克服できるのだとしたら。
みんなに心配をかけることも、気を遣わせることもなくなるかもしれない。
少しだけ、勇気を出してみよう。
「分かりました。頑張ります」
私はぐっと拳を握り、了承の言葉を口にした。
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