4.アーダの庭

 翌朝、ウラク村の人々は板窓の隙間から外を覗き見て、何事も無いのを確認してから、戸を押し上げた。朝日が北の山の稜線を影絵のように浮き上がらせ、川のせせらぎが村の雑音に飲まれる前の薄明の時間、アンサーラも酒場から出て両腕を伸ばし、深呼吸した。新鮮な朝の空気に混じる村の生活臭は鼻につくが、それでも酒場の中よりはずっとましだった。


 やがて森の吐き出す朝靄を朝日がミルク色に染め、ニワトリが鳴いた。井戸では村人同士が挨拶を交わし、道端の細長い葉先からテントウムシが飛び立つ。ウラク村の目覚め。一日のはじまり。


 朝食に出された〈キャベツとウサギ肉のシチュー〉は塩気がちょうど良く、ニンニクの風味が利いていて美味しかった。念のため主人に頼んでニンニクを分けてもらい、酒場を出たアンサーラは村の中を歩いて回った。どの家にも何らかの魔除けが施されている。ナナカマドの枝と矢、フェンネルの束、ドワーフの守護のルーンらしき落書き、そして蹄鉄。村人が人狼を恐れている証だ。


 ついでにオーケの牛が殺された現場とニルスの家の庭も調べて、それらが人狼ひとりの仕業だと確認した。次は……と、男たちの声に目をやると、製材所に原木を引き上げているところだった。掛け声に合わせて引かれるロープは天井についた滑車と、外にある頑丈そうな柱に取り付けられた鉄の輪を通って原木に結ばれている。製材所の床は川原より高いため、そうした仕組みが無かった頃はもっと大変な作業だったろう。原木が床に固定され、ロープが外される。そこまで見物してから、アンサーラは村長宅へ向かった。


 扉をノックしようとして気配に手を止め、家の横手を覗くと、裏庭へ通じる柵の奥で植物に手を入れながらアーダが小声で歌っている。


〝よっぱらいのゴルムおじさん、

 今日も朝から酒浸り。

 一人の家に戻る時、

 道から落ちて死んじゃった!〟


「こんにちは。勝手に入って来てしまって、不作法をお許しください」


 飛び跳ねんばかりの勢いでアーダは立ち上がり、目を真ん丸にして振り向いた。白い肌をほんのり朱に染める。「いつから……もしかして聞いてました?」


「おもしろい歌ですね。悲しい出来事なのに陽気な曲調。悲劇と喜劇はコインの裏表という皮肉めいた含蓄のある……」


 アーダはますます顔を赤らめた。「いえそんな大げさなものじゃなくて、昔からあるただのつまらない歌です。父に用事ですか? 呼んで来ましょうか」


「いえ、実はアーダさんを訪ねて来ました。育てていらっしゃるというハーブを見せていただきたくて」


「あ、ああ、昨日の話ですね。それなら……ここがそうです。ここから裏庭までで全部です。どうぞご覧になってください」


「ありがとうございます」アンサーラは枝で組んだ柵を開いて庭に入った。「どうぞ作業をお続けになってください」


 棒のように突っ立っていたアーダは愛想笑いを浮かべて零れた金髪を頭巾の下に押し込み、作業を再開した。


 小さな庭でまず目を惹くのはダンデライオンの鮮やかな黄色の花だ。開き始めたカモミールの白い花も可愛らしい。魔除けにするためかフェンネルはほとんど刈り取られてしまっていて、わずかに残るのみ。マグワートと、ヘンルーダもある。


 アンサーラが見て回っている間、アーダは鉢植えのミントに手を入れて葉の裏や茎を調べていた。


「アブラムシですか?」


「ええ、この時期に付くと大変なので」


「それならテントウムシを放つといいでしょう。天敵ですから」


「あっ」アーダは口元に手をやった。「それでおばあちゃんはテントウムシを捕まえてこいって言ってたんだ……」


「ハーブの育て方はおばあ様から?」


「いえ、ほとんど自己流です。ここを作ったのは祖母ですけど、わたしが子供の頃に亡くなってしまって。すぐミントに覆われてしまったから、父が酢をかけて全部抜いてしまおうと言ったんです。でも何だか嫌で。それから世話するようになって」


「この、ミントを鉢植えで育てる方法もご自分で?」


「ああ、それは……実はエスキルのアイデアなんです。色や香りが良いものだけ残したいけど勝手にどんどん増えて雑ざっちゃうって話をしたら、水瓶を持ってきて、この中で育てたらどうだって」


「……昨晩の彼の態度を見てしまうと、想像できませんね」


 年頃の娘の、はにかんだ笑みは波が引くように消えた。「彼は……以前からあんな感じだったわけじゃないんです。去年の秋に……」そこで一度は口をつぐんだが、続ける。


「……村の近くに熊が出たんです。追い払おうとしたけど人を怖がらないみたいで、トーベンさんが襲われて大怪我を……エスキルは責任感が強いから、一人で森の奥に行ってしまって、一週間以上も戻らなかった。もう死ぬほど心配で、眠れませんでした。探しに行こうとしてベントさんに止められたりもしました。彼が戻って来てすごく嬉しかったけど、以前とは別人みたいにわたしを避けるようになって……何があったのか聞いても話してくれないし、わたしが何か悪いことしたのかなって悩みましたけど、わからなくて……」


「それでもまだ彼のことを?」


「……変、ですよね」アーダはミントの葉にやさしく触れ、見つめたまま話した。


「たぶん、いいえ、きっと、世界には彼より素敵な男性がたくさんいる。でもわたしはこの村で生まれ育って、遠出してもせいぜい半日ほど下流にあるノアさんの農場くらいまで。それがわたしの世界の全てで、そこに住む人の中にエスキル以上の男性はいません。いつか父さんの手伝いでアードリグに行くかもしれないし、素敵な人が村を訪れるかもしれない。でもそれは一時のすれ違いに過ぎなくて、わたしの人生の一部にはならない……あなたもそうです、アンサーラさん。だからこんなに恥ずかしいことも言えてしまう」


 ちっぽけな世界の中で限られた時間を生きるのが人間――それは理解していても、アンサーラに気持ちは分かるなどと傲慢な言葉は口にできなかった。目の前で瑞々しく咲き誇るアーダも、ほんの少し目を離した隙に枯れ、果てる。一〇〇年もすれば顔も声もおぼろげな記憶になってしまうだろう。いつか同じような場所で、似たような娘と出会った時に、既視感を覚える程度になってしまうだろう。だからこそ今この瞬間に意味があるのかもしれなかった。


「アーダさん。もしかしたら彼は……」


「あ……エスキル」


 アーダの目はアンサーラを飛び越えて遠くを見ていた。振り返れば、村の入口から続く緩やかな坂道を狩人の青年が下って来ている。装備から察するに、森へ行っていたようだ。まっすぐ歩いて来る彼を見てアーダの青い瞳に希望が浮かぶ。しかし彼はこちらを一顧だにせず家の正面に向かい、二人からは姿が見えなくなった。


 村長を呼び出す声と、応じる足音。扉が開く。アーダは素知らぬふりをしながら聞き耳を立てているが、アンサーラには意識しなくとも普通に聞こえた。


「村長。あいつが山を下りて来ている」


「まさか……あの熊が戻ったのか?」


「ああ。おそらくそうだ」


「ならば、様子見はできんな。人を集めよう。いいか、今度は一人で行くんじゃないぞ。熊狩りは明日だ」


 話を聞くにつれ、アーダはみるみる青くなっていった。「ア、アンサーラさん……どうしよう……また……」心の傷に手を添えることはできないが、震える彼女の肩に触れることはできる。「大丈夫、一人では行かせません。そこに座って、ゆっくり深呼吸をして。ハーブの香りが助けてくれます」


 アンサーラが庭を離れて顔を出すと、エスキルはまだ玄関先にいて森を見上げていた。指先で顔の傷痕に触れながら、殺意に満ちた目でつぶやく。「……今度こそ、仕留めてやる」

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