11.王子の凱旋

 スパイク谷で最大の人口密集地とはいえ、エイクリムは小さな町である。三人がワイバーンの首を持ち帰ったのは夕暮れ時だったが、その日のうちに話は広まった。王は褒美を授けるため宴席を設けるかもしれない、王子は今夜にも酒場で魔獣退治の武勇伝を披露するだろう――と人々は期待したが、そうはならなかった。当のスヴェンが動けなくなってしまったからだ。


「いだっ、いだだっ……くそっ、指一本動かせねぇ……全身が石になっちまったみたいだ……」


 翌日になってもベッドの上でうめくスヴェンを、アンサーラは腕組みして見下ろした。


 そこは城内にある彼の自室である。ワイバーンの返り血を浴びた鎧や衣服を脱ぎ、アンサーラの勧めに従って薬草湯で身を清めた後、ベッドで一休みとばかりに寝転んだところで魔法が切れて動けなくなったのだ。


「あの魔法は生命力を引き出して一時的に肉体を強化するものです。本来は使われないはずの力を絞り出した反動ですよ。症状としては単なる全身筋肉痛みたいなものですから安心して下さい。他に問題は無いようですし、想定通りの結果です」


 横になったまま動けないスヴェンはうらめしそうにアンサーラを見上げた。


「文句は受け付けませんよ。話を聞かなかったのは貴方です」


「ああ、良い教訓になった。次から人の話はちゃんと聞くことにする」


 素直な物言いに、アンサーラは少し意外とばかりに目を丸くした。苦しそうではあるが憑き物が落ちたような表情をしている。


「マグナルは?」


「傷も毒も手の腱には達していませんでした。倒したワイバーンから抗毒血清も作れましたし、二週間ほどで抜糸できるでしょう。それから握力が戻るまでは少しかかりますが、障害は残らないはずです。しかし……本当に間一髪でした」


「あいつがいざとなればああいう行動に出るのは知っていたのにな。危険な目に遭わせちまった。あんたには本当に感謝してる」


 間一髪だったのはマグナルよりむしろスヴェンのほうだったのだが、敢えて言う必要もない。「どういたしまして」とアンサーラは胸に手を当て優雅に頭を下げて見せた。


「また様子を見に来ます。何かあったら呼んで下さい。ワイバーンの骸はわたくしが処理しておきます」


「ああ、分かった……頼む」


 廊下に出て扉を閉めたアンサーラは、ずっと自分を待っていたらしい気配のほうへ目を向けた。この王族が住む区画は廊下を挟んで二部屋ずつが向かい合っていて、一番奥に王の自室がある。その前に立っていたのはハルド王その人であった。


 身長はスヴェンより低いが平均より高く、がっしりした戦士らしい身体つきをしている。白髪交じりの長髪と髭は色褪せた金髪で、鉄の王冠がまるで頭を締め付けているように見えた。スヴェンと同じはずの紺碧の瞳は翳っていて暗く、顔には長年の苦労が刻み込まれている。


 アンサーラは右手の拳を左胸に当てて頭を下げる北方流の礼をした。「ご尊顔を拝する栄誉を賜りまして光栄に存じます」


「顔を上げてよい、アンサーラ。ちと話をしたい」


「御意に。ハルド王陛下」


「うむ。ではこちらへ」


 王の自室に招かれたアンサーラは護衛がいないことに気付いた。よほどアンサーラを信用しているのか、エルフに対して数人の護衛では役に立たないと知っているのか――それとも、王としての見栄か。


 大きさはスヴェンの部屋と変わらない。客間にあったような暖炉があって、その上にはスパイク付きの円形盾スパイクシールドと交差する二本の長柄斧が飾られている。衝立に仕切られた奥が寝所であろう。


 特徴的なのは南側の壁一面にはめ込まれた大きなガラス窓である。強風にも耐えられそうな格子状の窓枠は視界を遮らないよう工夫されていて一面が大きく、厚みも均一で濁りも歪みも無く透明。間違いなくドワーフ製だ。人間にはまだこのようなものは作れない。


 ハルド王は自室を横切り、その大きな窓の一部を開いてテラスに出た。アンサーラは寝所の入口に佇む王妃へ一礼してから後を追う。


 谷に向けて張り出したテラスはまるで空に浮かんでいるかのようで、広大なスパイク谷を一望できるのではないかと錯覚させるほどだ。昼の光に満ちた白い渓谷の底を流れる輝く水面。黒々とした木立。山脈の果ては青い空に溶け、筆でさっと引いたような薄い白雲が頂上付近を霞ませている。


 テラスには丸テーブル一つと椅子が二脚。ワインと、銀で象嵌された酒杯が二つ用意してあった。


「ここは代々、王が私的な空間としてきた場所だ。必要以上に気を使わなくてよい。座ってくれ」


 ハルド王は椅子の一つに腰を下ろして、もう一つをアンサーラに勧めた。アンサーラは会釈して椅子に座り、二人は絶景を背景に向かい合う。


「此度の件、そなたの口から顛末を聞きたいと思っていた。息子やマグナルでは余計な脚色をしそうだからな」


〝命と同じくらい見栄が大切〟と言ったスヴェンを思い出しながら、アンサーラはうなずいた。


「はい。では、お二人と出会ったところからお話します――」


 ハルド王は手ずからワインを杯に注ぎ、アンサーラは銀の象嵌を指先で確かめながら甘いワインで喉を湿らせつつ語った。エノック家でのやり取りからハーピーの巣、そしてエイクリムに来てから魔獣退治の様子まで詳細に。太陽が傾き始めると谷はあっという間に影の中へ沈んで行ったが、このテラスだけは雲上の頂がごとく例外であった。


 話を聞き終えたハルド王は手のうちで弄んでいた杯をテーブルに置いた。「……なるほど。息子は運に恵まれたようだ。そなたがいなければ二人とも命を落としていただろう。助けてくれた礼として何か褒美を取らせたいが……」


「でしたら、かさばらず路銀になるようなものを頂きたく思います」


「うむ。ならば金で良かろう」


 アンサーラは軽く頭を下げて感謝を示し、「それと、もう一つ……不躾な質問をさせていただけるなら」と念のため前置きする。


「先程も言ったとおり、ここでは遠慮せぬ事になっている。何でも申すがいい」


「では僭越ながら……なぜスヴェン王子にあのような無茶を許したのですか?」


 ハルド王は腕を組み、こめかみに指を当てて上目遣いにぼそぼそ答えた。


「売り言葉に買い言葉だった……と言ったら、笑うか」


「いいえ。わたくしは人間の暦で八八三年生きてきましたが、まだ自分自身の全てを把握しておりませんし、自覚していても制御できない感情はあります」


「ははっ、そなたの前では四六の俺など赤子のようなものだな」


 王は苦笑して、続ける。


「あいつには、スヴェンには……周囲の人間を動かす不思議な魅力がある。王気、とでも言えばいいのか、そのようなものがな。この谷であいつを次の王と認めない者はおらぬ。今のままでも、いずれは誰もが認める王となるだろう。だが、数年前から急に無茶をするようになった。なぜ無用な危険を冒すのか、何を考えているのか分からぬ……その苛立ちがあったのは認めねばなるまい。二年前の〈黒の門〉の戦いもマグナルがいなかったらどうなっていたか……」


「スヴェン王子は他人ではなく、自分自身に認めさせたかったのでしょう。己は果たして王たる者なのかを。ですから、今回の件で落ち着くはずです」


「慧眼、恐れ入る。なるほど……なぜあれほど苛立ったのか、分かった気がする」


 王は立ち上がり、右手で手すりをぎゅっと掴んだ。奥歯を噛みしめた横顔に一瞬にじんだのは嫉妬に見えた。


「アンサーラ。しばし谷に残り、あの子を支えてやってくれぬか」


「申し訳ございません。わたくしはわたくしの旅を続けねばなりません」


「そうか。残念だ」


 話はこれで終わり、というように王は左手も手すりに乗せて谷のほうを向いた。その背中へアンサーラは再び北方流の礼をして、王のテラスから退出した。


 アンサーラは王族の住む区画から広間に出て、そのまま衛士の詰め所へ向かった。マグナルは普段からエイクリム滞在中はそこで寝泊まりしているらしく、今もベッドを一つ専有している。衛士の詰め所は城の玄関部分と接続している四角い二階建ての建物で、一階は倉庫のようになっていて、二階はベッドが四つあるだけ。内部は梯子で行き来できるが、外付けの狭い階段もある。


 アンサーラが梯子を上って二階に顔を覗かせた時には誰もおらず、室内は暗かった。マグナルが専有している一番奥のベッドは衝立で仕切られていて、その向こうから聞こえてくる呼吸音は穏やかだったが眠ってはいない。衝立の裏でマグナルはベッドに腰かけていた。


「マグナル殿……いけません、起き上がっては」


 まともに毒を受けていないスヴェンでさえ魔法の副作用でぴくりとも動けないのに、より衰弱しているはずのマグナルが起き上がっているとは驚きだ。しかしその声は容態のまま弱々しかった。


「良かった。まだエイクリムにいて……」


「暇も告げずに黙って消えたりしません。さあ、薬と包帯を替えますから横になって下さい。眠りの魔法を使います」


 アンサーラはマグナルの肩を掴んでゆっくり横にさせた。巨漢の従士は抵抗しなかったが、「どうかこのままで」と懇願する。


「痛みますよ?」


「大丈夫です」


 声に力は無いが頑固な物言いだ。アンサーラは諦めて手当てを始めた。包帯を解き、縫合した傷口の様子を見て軟膏をぬり込みながら魔法を唱える。痛みにマグナルの身体はぴくっと反応し、呼吸は荒くなった。二人きりの薄暗い部屋にアンサーラの呪文詠唱が流れ、両手はマグナルの肉厚な手を包んでいる。


「何度聞いても……とても美しい歌声です……眠ってしまったら聞けなかった」


 これは単なる呪文詠唱に過ぎません、と前にも申し上げたはず――そう言いたかったが、詠唱を中断できないアンサーラはただ作業を続けた。


「なんとなく……目を離した隙に消えてしまうような気がするんです。幻みたいに」


 アンサーラにとってそれは、人間のほうだった。人間は少し目を離した隙に消えてしまう。老いや病気や怪我で簡単に死んでしまう。人間から見ればエルフは永遠の存在で、エルフから見れば人間は儚い存在であるはずだ。マグナルの感じている不安が、アンサーラには理解できなかった。


「王子からあなたの旅の目的を聞きました。この谷には他にも魔獣がいます。しばらくここを拠点にして……留まって頂くわけにはいきませんか」


 詠唱は終わり、包帯を巻く作業に移ってアンサーラは答える。「王にも同じことを頼まれましたが断りました」


「なぜ……」


「マグナル殿、あなたはスヴェン王子を残してスパイク谷から遠く離れた異国の地まで旅をしようと誘われたら行けますか?」


 マグナルは首を左右に振った。


「そういう事です。ですから、もし――」と言いかけてアンサーラは口をつぐむ。


「……もし?」


「いえ、何でもありません」


 もし想いを告げるなら今のうちです――それはマグナルにも分かっていたはずだったが、それから毎日顔を合わせたにも関わらず、彼は他愛のない話しかしなかった。そして一週間後、マグナルの容態も安定したのでアンサーラはエイクリムを発つことにした。


 早朝の蒼い薄闇の中、スヴェンとマグナルはアンサーラを見送りに来た。彼らと向かい合うアンサーラの傍らにはスヴェンのものだった脚の太い立派な馬がいる。町の人々は夜明け前からひっそりと目覚めていて、偶然通りかかると、すっかり有名になった魔獣退治の三人組に目をやりながら通り過ぎていった。


「本当にいいのですか? このを貰ってしまって」アンサーラは逞しい馬の首を撫でながら言った。


「いいんだ。俺には他にやれるモンなんてねぇしな」


 アンサーラは素直に「ありがとうございます」と礼を言って、ひらりと馬にまたがった。


「また会えるか?」


「幸運に恵まれれば」


「へっ」スヴェンはニヤリと笑い、「じゃあな、アンサーラ」と軽く手を挙げて別れを告げた。


「はい、お元気で、スヴェン殿。マグナル殿も」


「あっ……」とマグナルが口を開いて何かを言いかけたので、アンサーラは心中で身構えた。これが最後の機会になるかもしれないのだ。いくら奥手でも何かしら言うだろう。


 どう答えるべきかアンサーラは迷っていたが、やはり正直に言うしかないという結論に達していた。エルフと人間は違い過ぎる。人間を知るほどにその違いは際立っていく。共に生きるなど考えられない。スヴェンは気に入らないかもしれないが、可能性を残すような返答はかえって不誠実だ。


 しかしマグナルは顔を真っ赤にしただけで、結局こう口にした。「……はい。アンサーラ殿もお元気で」


 肩透かしを食らってしまったが、それもこの若者らしさか――アンサーラは小さく微笑み、目でうなずいた。手綱を引いて馬首を巡らせ、町を出る唯一の道へ進ませると背後からスヴェンの声が聞こえてきた。


「アンサーラが行っちまうぞ、言わなくていいのか?」


「ななっ、なにをですぅ!?」


 マグナルの狼狽した声にさすがのアンサーラも破顔一笑し、そして振り返ることなく馬を走らせた。

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