10.魔獣退治
翌朝、三人はまだ太陽が〈黒の山脈〉の向こうにある暁闇の中、エイクリムを出発した。スヴェンの馬にはアンサーラが同乗し、マグナルの馬には大きな雄豚が乗せられている。魔法でよく眠っているが、念のため足首を縛ってある。
朝靄に沈む静かな町を抜けて坂道を上り、見張りの衛士が立つ分かれ道を折り返す。マツ林を切り開いて造られた山道には階段状に整備された箇所もあって、ただ往来のうちに道となったようなものではない。百人規模の軍隊でも通行できそうである。
柱のようにまっすぐな木々の合間に見えていたエイクリムは、上へ上へと進んで行くと全体が見渡せるようになった。絶壁とその上にある小さな城、流れ落ちる細い滝、湖畔から川沿いに点々と並ぶ家々はまだ蒼い薄闇の中にある。
そこへ〈黒の山脈〉の向こうから暁光が差し、木々や家々から長い影が伸びた。朝日が谷を満たしていくにつれて山から流れ込む霧は薄く溶けてゆき、小さな湖面がキラリと白く輝く。谷はみるみるうちに昼の姿へと変わっていく。それは新たな一日の幕開けであり、世界が新生した瞬間であった。もしこれから足手まといの人間二人と共にワイバーンを狩るのでなければ、きっとアンサーラも楽しめただろう。
道中スヴェンは雄豚を〝マグナル〟と名付けていちいち彼をからかい、マグナルはむくれたり文句を言ったりしつつも時に一緒になって笑い、時に拳で軽く小突いたりした。二人の若者のじゃれ合いは明らかに緊張を隠すためのものだったが、見ているアンサーラの気持ちを和ませた。それは愛情とも言える心持だが、他人の幼子を見て感じるような無責任なものでしかない。マグナルがアンサーラに抱いているという愛情とは――そして彼が期待しているであろう愛情とは――違うものだ。
朝露に濡れた三人の外套が乾く頃には山道もすっかり明るくなり、エイクリムは〈世界の果て山脈〉から伸びる山裾に隠れて見えなくなった。スヴェンは力強い足取りで山道を登ってきた馬の速度を緩めて、肩越しに後ろのアンサーラへ話しかける。
「この辺りのはずだ」
アンサーラは周囲を見回した。蛇行しながら峠へ向かう山道において比較的直線的で開放的な場所だ。左右にあるマツ林とも距離がある。しかし地上に着地した跡はなく、羽毛が落ちているわけもない。一見して何の痕跡も無いが――いや、あった。三本のマツの先端が同じ方向に折れてぶら下がっている。山道にいる衛士を狙って高度を落とした時にかすめたのだろう。
「では、ここで待ち伏せましょう」
三人は馬から下りた。地面に打った杭と豚の足をロープで結び付けて放置し、馬は山道脇の林の中に隠して逃げないようにしておく。それから木の陰で待機できそうな場所を探して陣取った。風が吹けば朝露が落ちて来る木の下で、湿った地面に尻を付けないようにして持ってきた朝食を食べる。
「なあ、こんだけ広い山ん中で、どうしてここで待ち伏せてればいいと思うんだ?」
ナイフで切り取ったパンを渡しながらスヴェンが問うた。それを受け取り、こぼれたパンくずを目当てに小動物が寄ってくる気配を感じながらアンサーラは答える。
「ワイバーンは狩りに成功した場所を覚えていて、まずそこを一つずつ確かめていく習性があります。テムさん以前に衛士が襲われたのもこの付近だったのではありませんか?」
「おお、確かにそうです」マグナルがうんうんうなずく。
スヴェンはマグナルにもパンを切って差し出した。「俺たちがここにいるってバレなきゃいいが」
「ワイバーンの目は温度差を見分けられますから、お二人が隠れるのは難しいでしょう」
「え? それじゃ俺たちがここにいたら降りてこねぇんじゃ?」
「すでに衛士の方々が襲われているのをお忘れですか。ワイバーンにとって数人の人間など恐れるような相手ではありません。それに姿さえ確認できれば、この待ち伏せは成功したと言えます。そのまま追跡して地上に降りた瞬間を狙ってもいいし、巣の場所まで案内させてもいいでしょう。その場合は……すみませんが、わたくしは全力で走りますのでお二人には付いて来られないと思います」
スヴェンは不満げに唸った。「もしそうなったら、あんたとしては成功かもしれねぇが、俺らとしては失敗になるな」
「一人で追いかけるなんて駄目です!」とマグナルがパンくずを巻き散らす。それを狙って野ネズミがさらに二匹増えた。
「手柄は三人のもの、で良いではありませんか。わたくしたちは仲間なのですから」
「そういう問題じゃねぇ」
「そういう問題じゃありません」
不満げに口をとがらせて、二人の若者は同時にそう言った。
それからしばらくの間は穏やかな時間が流れた。夏の太陽は夜の名残を完全に消し去り、植物はその恩恵を受けようと精一杯に葉を広げている。警戒しながらパンくずを掠め取って行った野ネズミの一匹は、その先でキツネに捕食された。頭上で笛の音のような鳴き声を響かせている大鷹は残念だが別の獲物を探さねばならない。アンサーラはあぐらをかいて地面に座り、両膝の上に二本の剣を渡して指先を揃え、目を閉じて静かに待った。一匹のリスが右肩に下りて左肩へ伝い、また木に戻っていっても微動だにしない。
山の生き物たちはそれぞれ単調だが複雑に絡み合った命の循環を繰り返している。ここでは雑音でしかない二人の若者ですらその一部だ。そこへ闖入者が現れた。大鷹の声がぴたりと止み、キツネは全力で巣穴に飛び込んで息をひそめる。アンサーラは目を開いて立ち上がると二本の剣はそれぞれ両腰に吊るした。
「来たのか?」というスヴェンの問いかけには唇に指を立てて答え、掌を開いてから握って見せる。それで察したスヴェンはベルトの小袋からドングリを取り出して、マグナルにもそうするよう促した。そのドングリこそアンサーラの魔法と人間をつなぐ触媒であり、彼女の魔法そのものでもある。
アンサーラは選び抜いた三本の矢をそれぞれ指に一本ずつ挟んで、弓を手にして前へ出た。口の中で呪文を詠唱して身体強化の魔法を発動させると、二人の若者の身体に秘められた力が解放されて全身に行き渡る。本人たちも当然それは感じているだろう。目を丸くして顔を見合わせている。
その間にもアンサーラは射撃位置に付いた。山道とそこでウトウトする豚が良く見える岩の陰だ。二人の戦士も斧を手にして木の裏に隠れる。
戦いの始まりには何の合図も無かった。
頭上を大きな影が横切った次の瞬間にはもうワイバーンは目の前にいた。後ろ足で豚を掴み、一気に上昇しようと大きな翼を打ち下ろさんとしている。豚の足に結ばれたロープも打ちつけられた杭も、何ら妨げにはならないだろう。
すでに弓を引いていたアンサーラは立ち上がりざま、弦の音が重なって聞こえるほど素早く三連射した。
ワイバーンは長い首をひょいとくねらせて頭部を狙った必殺の一矢を避け、アンサーラを驚かせたが、残りの二矢は命中した。一本は翼の皮膜を貫通し、もう一本は左の翼手の付け根に深々と突き刺さる。たまらずワイバーンは獲物を離して地面に伏せ、自由になった雄豚は悲鳴を上げて杭を引きずりながら逃げていった。
間近で見ればやはり、トカゲというより蛇だろう。長い舌をチロチロと出し入れしている頭から尾の先まで全長約二四フィート。首と区別のない胴体を山なりに湾曲させ、折りたたまれた翼手と発達した後ろ足で身体を支えている。矢のせいでバランスを崩して着地したが左の翼手が使えなくなるほどの怪我ではないようだ。
飛び立つ前に深手を負わせなければ――アンサーラがそう考えたのと同時に、スヴェンとマグナルは木の裏から飛び出して雄叫びを上げながらワイバーンに突撃した。アンサーラの魔法によって人間とは思えないほど素早いが、その無鉄砲さが無くなるわけではなかった。なまじ素早いだけに止める間も無い。
迂闊な、と口にする余裕もなくアンサーラは右手で左の剣を抜きざまに投げた。回転しながら飛んだ剣は鎌首をもたげるように上げられた尾の先端に弾かれたが、マグナルを狙う動きへの牽制にはなった。マグナルは発達した後ろ足に蹴り飛ばされてごろごろ転がったが猛毒の尾に貫かれるよりましであったろう。
より素早いスヴェンは翼手の下を潜り抜けて斧の間合いに到達していた。
「はああっ!」
気合と共に振り下ろした斧をワイバーンはまたもや首をくねらせてすいっと避ける。そして蛇のような口を開いて舌を突っ張らせるのを見て、アンサーラは岩を飛び越えながら左手で右の剣を抜いた。スヴェンを狙っていると思いきや、ワイバーンは顔を上げてアンサーラの着地を狙ったかのように毒液を吐き出す。まさしく稲妻のような反射神経と強靭な足腰で、アンサーラは急制動をかけて真横に転がり回避した。一瞬前までいた地面から後ろの岩まで毒液が黒い線を引く。
勢いよく横転し過ぎたアンサーラが再び態勢を立て直して動けるようになった時、状況はすでに抜き差しならないものになってしまっていた。
スヴェンは地面に押し倒され、左の翼手の爪で胸を抑えられて逃げられない状態だ。猛毒の尾の先端はすでに狙いを定めている。あっ、と一声発する間にスヴェンは致命的な一撃を受けるだろう。魔法を使う時間は無い。また剣を投げて尾の動きを邪魔できても、続く手が無い。ワイバーンには毒液を吐き出す事も、その強靭な顎で兜ごとスヴェンの頭を潰す事もできる。
彼は助けられない――とアンサーラは覚悟してしまった。そして予想外の動きをする人間がもう一人いるのを忘れていた。
「うおおっ!」という叫びと共にワイバーンの背後からマグナルが飛びかかり、毒の滴る刃のように鋭い尾の先端を掴んで無理やり引き下ろした。最大の武器であり誰しも恐れるはずの尾を押さえられて、ワイバーンはびくりと身を硬くする。
アンサーラもまた弾かれたように駆け出した。
剣先が地面を擦りそうなほどの低い構えから、大きく身体を開きつつ斜め上へ一閃。尾の先端は見事に一太刀で切断され、ギッギッギッと耳障りな悲鳴を上げながらワイバーンは身をすくめて後退る。尾から溢れ出した鮮血が地面に黒く跡を残し、先端部分を掴んでいたマグナルは後ろにどすんと尻もちを付いた。
アンサーラはビクッ、ビクッと左右によじれる尾の先端を蹴り飛ばしてマグナルの前に膝を付き、すぐさま呪文を唱えながら毒消しを彼の両手にすり込む。
マグナルは痛みに悲鳴をあげた。両手の傷からは黒い泡がブクブクと吹き上がっている。魔法が効いている証拠だ。まだ間に合うかもしれない。アンサーラは力ずくで手袋を引き裂いて投げ捨て乱暴に傷口を洗い、再び魔法を使う。声ならないマグナルの悲鳴。相当な苦痛のはずだ。
「申し訳ありませんが痛み止めをしている余裕がありませんので、気絶するならして下さい」
てきぱきと処置を進めるアンサーラ。マグナルの全身は痛みに震え、顔は真っ青で目だけが充血し、脂汗が滝のように流れている。それでも巨漢の従士は意識を手放さずに言った。
「俺よりも王子を……ううっ! アンサーラ殿!」
アンサーラは下からマグナルを睨みつけてはっきりと言う。「従士だとか王子だとか、わたくしには関係ありません。お二人ともただの人間です。救えるほうを救います」
とはいえアンサーラも背後の動きには気を配っていた。痛みに歪むマグナルの目にもスヴェンの姿が映り込んでいる。
ワイバーンが後退したおかげでその手から逃れたスヴェンはもう立ち上がっていて、斧を構えて魔獣と対峙していた。尾を失ったワイバーンはこのまま逃げようという動きを見せていたが、逃がすまいとじりじり足を出せば、シャーッと蛇のような威嚇音を出して口を開く。
睨み合う両者。どちらが先に動くか、という緊張感の中でスヴェンは突然怒声を張った。
「いいか、よく聞け怪物め! 俺はお前を殺す者、スパイク谷の王ハルドの息子スヴェンだ! お前はもう逃げられん! 今、この場で、必ず、殺す!」
そして斧を振り上げ「うおーっ!」と雄叫びを上げた。人間など恐れないはずの魔獣がびくりと頭を引く。その瞬間にスヴェンは斧を振り下ろすようにして投げた。魔法で強化された怪力によって投げられた斧は縦に回転して飛び、矢が刺さっているせいで動きの鈍いワイバーンの左の翼手にどっかと食い込む。
投げると同時に走り出していたスヴェンは、食らいつこうとするワイバーンの顎を間一髪すり抜けて頭のすぐ下に組み付くと、短剣を抜いて喉を突き刺した。
ワイバーンはギッギッと悲鳴を上げながら蛇のように長い首をのたうち回らせる。スヴェンは両手両足を回してしがみつき、怒りに燃えた目で二度、三度と短剣を打ち込む。鱗に覆われた皮膚が裂け、鮮血に塗れた桃色の肉が露出し、どうと地面に倒れてなお暴れる。それでもスヴェンはしがみついたまま短剣でめった刺しを続け、ついには白い軟骨までも露になって、ようやくワイバーンはぐったりしたまま動かなくなった。
アンサーラがマグナルの手当てを終えて一息つき、立ち上がって振り向くと、返り血に塗れたスヴェンは斧でワイバーンの頭を斬り落とそうとしているところだった。
「スヴェン殿。ワイバーンは血にも弱い毒があります。目や口に入っていませんか?」
「大丈夫だ」とスヴェンは斧を振り上げたまま答える。
「尾の毒に比べれば弱いというだけで、猛毒には違いありません。ひとまずその作業は後回しにして血を洗い流しませんか。それから一足先にマグナル殿をエイクリムに連れ帰って欲しいのですが」
「マグナルはヤバいのか?」
「だだっ、だいじょうぶです、王子……」
マグナルは顔面蒼白。相当に痛いはずで、よく気を保っている。やせ我慢なのは誰が見ても明らかだ。
「手を無くすことはないでしょうが、かなり痛むはずです」
「そうか。じゃあ我慢しろ」
「はい、王子」と震え声で答えるマグナル。
「退治した証拠にこいつの首が必要だ。意地でも俺の手で持って帰る」
アンサーラは「はぁ」と二人にも分かるよう、はっきりとため息を吐いた。「……呆れました。どうぞお好きに」
背を向けたアンサーラにマグナルは不安げな顔をし、スヴェンは「へへっ」と得意げに笑った。
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