4.尾根の上の三人
急斜面をすいすい登って木よりも高い尾根に出たアンサーラが振り返ると、二人はまだ半分も登れていなかった。顔を上げてアンサーラを見たスヴェンは口を真一文に結んで猛烈な勢いで登りだし、王子に付いて行こうとして足を滑らせたマグナルは転んで腹ばいになりずるずると後退した。
二人の人間から周囲の景観へ目を移すと、この高さではもう木は一本も生えておらず、岩と細かい砂と苔ばかりだ。ぽつりぽつりと孤独に咲く高山植物の花だけが鮮やかである。
モーナと出会った渓谷はずっと下方で細い切れ目に見える。その谷底はこの付近で最も低い場所だろうが、今いる尾根は最も高い場所ではない。北には二万フィート級の山々が連なる〈世界の果て山脈〉が壁のようにそびえ立っているし、東に目を向ければ〈黒の山脈〉がその名のとおり黒い影となって青空に溶けている。西に見えるのは名も無き山々のギザギザした稜線だけ。ここはあくまで谷の中の、ちょっとした高みの一つに過ぎないのだった。
早朝の空気は山から立ち昇る湿気を含んでいて甘く、遮るものの無い鮮やかな青空へと吹き散らされて行く。さんさんと降りそそぐ陽光が緑の少ない灰色の谷をも白く輝かせていた。デイエルフの――彼女の母が愛した世界の姿だ。
やがて息も絶え絶えにスヴェンが尾根まで上がってきた。マグナルのほうはまだ半分にも達していない。雨の多い夏の地面は苔むしていて柔らかいから、体重のせいで苦労しているのだ。少し進んではずりずりと滑り、また少し進むのを繰り返している。
「あんた、すげぇな」
やっと話せるようになったスヴェンが兜を脱ぎながら言う。それからマントのようにしている織布の端で顔の汗を拭った。
北方人に多い金髪碧眼で、適当に切っただけのざんばら髪には汗が滴っている。手足の長い鍛えられた体躯でアンサーラより頭二つ分は長身だが、表情にはまだどこか少年らしさが残る二〇歳になったかどうかの若者だ。
「……先ほどの話の続きですが、はっきり申し上げて、お二人は足手まといです」
「行こうと思えばさっさと先に行けたのに、それを言うためにわざわざ待ってたのか? 案外、意地が悪いんだな」スヴェンの瞳はキラキラと楽しそうに輝いているが口調は非難しているようで、アンサーラはどう反応すべきか迷った。人間は本当に色々な表情をする。「あんた、何でそんなにこだわる?」
「人間とエルフでは身体能力が」
「いや、その事じゃねぇ。ハーピー退治の事だ。誰かに頼まれてるのか? 報酬があるとか?」
「いいえ」
「それなら……エルフのしきたりとか?」
「違います」
「何かの罰か、贖罪のためとか?」
今度はアンサーラも即答しなかった。何かの罰、贖罪のため――そんなふうに考えたことはなかったが、そう言えなくもないような気がしたのだ。
「過ちを正すため、ですね。魔獣はこの世界に存在してはならないものです」
「よく分からねぇけど……そんじゃ、魔獣を全滅させるのがあんたの目的なのか」
「はい」
「冗談は……」アンサーラの銀色の瞳を見たスヴェンはそこに彼女の決意を見て取ったか、言い直した。「マジかよ。そんなの絶対不可能だろ」
「希望はあります」
そう、希望はあるのだ。ファーラランティーアの地で最後のドラゴンが死んだ時に。しかし彼女にはその希望をただ座して待つ事はできなかった。少しでも多くの魔獣を消し去り、魔獣によって奪われる命を救いたい。アンサーラはそのために旅をしている。
「なあ、あんたの目的とは比べものにならないかもしれねぇけど、俺にも譲れねぇ理由があるんだ」
「王子である貴方がたった二人でハーピー退治に命を賭けなければならないような理由が?」
「嫌味な言い方はよせよ。くだらねぇと思うかもしれねぇが……見栄のためだ。城の広間で豪族どもが集まってる中、魔獣の話題が出て、俺が退治してやるって言っちまったんだ。この谷の衛士は全員が親父に仕えてっから、衛士を連れて行くわけにはいかねぇ。そうなると俺には一人の従士だけ……あのマグナルだけだ」
見下ろすとマグナルは両手両足を使って泥だらけになりながらのっしのっしと登って来ている。呼吸も荒く、まるで鎧を着た熊のようだ。
かつてアンサーラがこのテストリア大陸北方を訪れた時には〝衛士〟という身分は存在しなかった。当時は豪族同士が相互扶助の同盟関係と序列を表す〝従士〟があっただけだ。北方の民は農業や漁業や狩猟採集で生活していて、必要に応じて戦士になっていたが衛士は違う。主君から衣食住に必要な物や賃金を与えられて戦士として仕えている、いわゆる職業戦士だった。衛士の出現によって従士はもっと個人的な忠誠心に基づく主従関係のみを表す言葉に変化したのだろう。
「見栄を張るために命をかけるなんて、愚かなことです」
「だがそれに命と同じくらいの価値があるのも事実だ」
「そのわりには衛士に扮して正体を隠していましたね」
「ああ、あれはあいつが……マグナルがそうしろってしつこくて仕方なくやったんだよ。もし失敗しても俺だと分からなければ名誉が損なわれないとでも思ったんだろう。あいつは分かってねぇんだ。玉座と王冠を譲り受けたやつが王なんじゃねぇ、民の命を背負って立つ者が王なんだ」
ぜぇぜぇと息を切らせてマグナルが登ってきた。最後のひと踏ん張りを助けて欲しいとばかりに右手を伸ばしている。近くにいたアンサーラがその手を掴んだので、スヴェンは彼女の背後を回ってマグナルに手を差し出した。巨漢の従士は主君の手を取り、両手を二人に引かれる形で尾根の上へと転がり出る。そのままごろんと仰向けになって逞しい胸とふっくらした太い腹を上下させた。兜を脱ぎ捨てた顔は真っ赤で汗だくだ。こげ茶色の髪がぺったりとふくよかな頬に張り付いている。
呼吸を落ち着かせながら、マグナルは赤い顔のまま呆然と右手を眺めた。
「強く握り過ぎたでしょうか?」
アンサーラが話しかけると、マグナルは何故か慌てた。
「はいいっ!? いいえ、いいえ。ただ、あの、そんな細腕なのに王子よりも力強かったので……でへへ」
スヴェンは怪訝な顔で寝転がる巨漢の従士を見下ろした。「なんかキモいな、お前……ほら立て。いつまでも寝てんじゃねぇ。行くぞ」
「はい、王子」
尾根は西に湾曲しながら北へ向かっている。エノックの言う〈とんがり山〉は下からだと頂上付近しか見えなかったが、ここからなら山脈を形成する峰の一つだと分かる。薄い雲がかかっているので、明日も谷には強い風が吹くのだろう。
三人で尾根を歩き始めてすぐに、目的の〈積み木山〉は見つかった。南側から見ればまっすぐな木が生えている小山でしかないが、そこから聞こえるハーピーの鳴き声と悪臭にアンサーラが気付いたのだ。二人を止め、声量を落として話す。
「おそらくあの山がそうでしょう。こちらからは見えませんが、反対側はエノックさんが言ったとおりになっているはずです。仮に違ったとしても、あそこにハーピーの巣があるのは間違いありません」
「わかるのか?」とスヴェン。
「この臭い、わかりませんか?」
「わからねぇ……」
「もう少し近付けば鳴き声も聞こえてくると思いますよ」
二人の若者は顔を見合わせ、ベルトに付けた小袋を探って丸めた革を取り出した。「どうぞ」とマグナルがそれをアンサーラに差し出す。首を左右に振って断るも、巨漢の従士はますます押し付けてきた。
「俺は大丈夫です。今のところ、その……けけ結婚の予定はありませんし、かっ、彼女もいないので……」
頬を赤らめるマグナルを再びスヴェンが怪訝な目で見る。
「お心遣い感謝します。ですが、わたくしには必要ありません。ハーピーの声と子供に関する話は迷信ですが、あの叫び声を間近で聞くと耳を傷めるかもしれません。マグナル殿がお使いください」マグナルの手を押し戻し、アンサーラはざっと周囲の地形を見渡した。「わたくしはここから尾根を下って山の上に出ます」
尾根の下から〈積み木山〉のほうまでなぞるスヴェンの目がみるみる見開かれて行く。「マジかよ。ここを下りる? それから登る? 尾根伝いに行けばもっと安全に下りられるはずだ。エノックが反対側を見ているんだからな」
「〝一人で行くなら勝手にしろ。俺たちは俺たちで行く〟」アンサーラはスヴェンの言葉を引用した。「そういうお話でしたね?」
「ぐっ……」返す言葉に窮したスヴェンに微笑みを返し、「お二人は安全な道を探して下さい」とだけ言い残してアンサーラは尾根から飛び降りた。両脚を踏ん張って苔に覆われた岩ばかりの急斜面を滑り降り、カモシカのように大岩をたーんと飛び越え、着地した地面を蹴ってますます加速する。
実際スヴェンの言ったとおり、安全な道はあるのだろう。だが、彼らがそれを見つける前に終わらせなければ――アンサーラはきゅっと口を結んで先を急いだ。〈積み木山〉にいるハーピーは一羽や二羽どころではない。
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