第4章
第17話 悲鳴
「人間の血肉を喰らう人間。だから吸血鬼」
アリスはアイリスから聞いた話を繰り返した。魔術関連の知識は専門でないため、こういった情報は持っていない。今のうちに整理して憶えているつもりでいた。
「そうよ。彼らの祖は自らの肉に、あるいは血に、もしくは遺伝子に、魔術式を刻み込んだ。だからその血を引く祖先たちにも、同じように魔術式の組み込まれた身体が与えられるの」
「そんなこと可能なのですか?」
「不可能じゃない。ただこの手の一族固有の魔術には、例外なく制約ができる。彼らでいえば人間の血肉を摂取しなければならないこと。そうしなければ、完全な力を発揮することはできない」
「その制約はどのように決まるのですか?」
自分で作り上げた魔術であるのなら、その制約もまた自分で定めることができるはずだ。だが人間を喰うという制約はつまり、一人の人間の命を奪うことであり、人間社会では法に触れる。あまりにも高いリスクだ。
リスクが高いからこそ、得られるリターンなのだろうか。もしそうならばその制約にもう頷けるものがある。
「もちろん自分で決める」アイリスは淡々と告げる。「彼らの場合は、固有魔術の効果を保つために、人間の魂が必要だった。ただ当時はまだ魂を対価にする方法が確立していなかったから、人間の命を、身体を自らの体内に納めることで、同様の意味を持たせた」
「じゃあアナトリア姉妹の力は、場合によっては魔法にも近くなるということですか?」
村一つを壊滅させ、そのあとも数々の殺人を行っている。それにもしかしたら発覚していないだけの事件もあるかもしれない。百人近い人間が犠牲になっていると考えてもいいくらいだ。
対価となった数は、月宮湊が姫ノ宮学園で破壊したという魔術の方が上だ。しかしそれは月宮だからこそ破壊できた代物であり、たとえ百人の魂が対価だったとしても、充分に強力な魔術である。
なおかつ今回は魔術には自我がある。思考能力を有し、状況判断もできる。簡単に終わると思っていたが、どうやら勘違いだったようだ。
もしかしたら、まだ人員を必要とする事案なのかもしれない。
「魔法とは少し違うけど、それくらい厄介であるわね。再生力、変異。過去に魔術師たちが苦戦したのも理解できるわ」
ふと気になって、アリスは訊ねた。
「姉さんでもですか?」
「ん?」
「姉さんでも苦戦を強いられる相手なのですか? アナトリア姉妹――この一族は」
魔術師一族でいえば、アイリスもまたそうだ。「最高」の称号を与えられ、最も神に近いとも言われている。そんな彼女でも苦戦をするような相手であれば、月宮たちだけに任せるのは荷が重い。
「彼女たちの祖なら、それなりに楽しめそうってところね」
つまり、アナトリア姉妹など取るに足らない相手なのだろう。それに祖であっても、余裕を崩すことなく相手できるらしい。本当に力量の測れない人だ、とアリスは自分の姉を評価した。正直に言えば、もう神界へ到達しているのではないかとさえ思えてくる。
ただ一人の魔術師が、三つの世界のバランスを保とうとしているのはどこか不自然だ。平和のためといえるかもしれないが、それは一人の人間がやるべきことじゃない。小さなこの事務所でも足りない。もっと多くの人間が動いてこそ、それは可能なことだ。
姉ではあるが、アリスには彼女の考えていることがわからない。その内に秘めていることを探れない。記憶を除き見られるけども、姉との関係を壊しかねないためそれはできなかった。
「湊たちはどうですか」
「おそらく大丈夫でしょう」
「おそらく?」
「魔術師たちが吸血鬼を倒すのに手こずったのは、ただ再生力が高かったからじゃないわ」アイリスは表情を変えない。たとえその情報が月宮たちの危機を悟らせるものであっても、眉ひとつ動かさない。「吸血鬼は夜になるとその力が数倍にも増し、さらに、狭い範囲であれば夜を作ることができる」
「空間魔術まで……」
「いろんな魔術式を刻まれているからこそ、吸血鬼には人間の血肉が必要なの。それこそそうしなければ禁断症状が出るくらいに依存していた。夜の状態は消耗が激しいけれど――」
「人間を摂取できれば、結果的には消耗を抑えられる」アリスはアイリスの言葉を引き継いだ。
「そのとおり」
「湊たちに知らせなくてもいいのですか?」
月宮たちに伝えるようにと長月に命令していたが、その内容に今の情報はない。ただアナトリア姉妹の名前と素姓を知らせ、街に混乱をもたらす可能性のある存在だから排除を命令しただけだ。
油断をするなど絶対にありえないだろうが、それでも足もとを掬われる可能性はある。それだけ厄介な相手だ。今までの「人間」とは一線を画している。
そんなことはアイリスも重々承知だろう。しかし焦りなど微塵も感じさせない。
それどころか少し口角を上げた。
「吸血鬼が神に勝てると思う?」
※
音無は空を見上げたとき、驚愕を隠すことができなかった。昼間だというのに紺色の天井が広がっている。しかもその紺色は広場と同程度の広さだけだ。くっきりと青空との切れ目が見えていた。
常識から外れ過ぎていて、音無の思考は停止しようとしていた。ありえないという言葉が駆け巡りながら、その説明をどうにか組み上げようとする。しかし音無の知識では、夜空を作り上げる方法など思い付かなかった。
(これも、彼女の力だっていうの……?)
彼女だけではない。もしかしたらルーチェにも同じ力があるかもしれない。二人の関係性はわからないが、血が繋がっていると見ても間違っていないはずだ。
ちらりと月宮に視線を向ける。彼ならば事情を知っているだろう。仕事内容が変更されたということは、正体を探る必要がなくなった。これは二択だ。知る必要もなくただ殺害に変更されたのか、知ったからもう用がないために殺害になったのか。
後者であれ、と音無は訊ねた。
「あの子――ルーチェたちは何者なの」
「吸血鬼らしい」月宮は少女から目を離さない。今までの彼女とは姿と雰囲気が異なっているために、一切の見逃しは許されないためだ。
「吸血鬼? 西洋の妖怪の?」
「それと同じかはわからないが吸血鬼だ。そうだと思うのは自由だが」
「この際、どっちでもいいわよ」
西洋の妖怪であろうと、架空の生物であろうと、吸血鬼だというのならそれを信じる以外ない。疑っても仕方がなかった。それに吸血鬼と言われた方が、しっくりきた。彼女のたちの持つ特殊能力にも頷ける。
頷けてしまうようになった。
それだけルーチェとの遭遇は衝撃的だった。《欠片持ち》ではない能力者が――そもそも能力者というものがこの街以外にいるとは思っていなかったし、教えられてはこなかった。小さな箱庭の常識がすべてだと錯覚していたのだ。
だから錯覚が晴れた今はあらゆる物事を受け入れることができる。たとえ吸血鬼と言われても、短絡的に否定するのではなく、もしかしたらそうなのかもしれないと可能性を捨てずにいられる。
奥に見えるルーチェに変化の様子はない。黒コートと戦っている。しかしその意識の大半はそこにはない。白い翼の少女に向けられている。
「この空はなに? なにか知っているの」
「知っているが答えられない」
「あなたはあの子をまだ殺害しようと思うの」
「当たり前だ。お前はあれを生かしておいていいと思えるのか?」
もしもあれだけの殺意と憎悪を放出している彼女が、このまま街に現れたら場合の被害は計り知れない。通常時の彼女でさえ常人が直視できるような存在ではなかったというのに、あれでは傍にいるだけで、周囲にいるだけで心が壊されてしまう。
ここでどうにかしなければならないのは明白だ。
少なくとも、ここにいる四人はルーチェたちの影響を受けていない。このメンバーで倒すことこそが最善なのもまた明白。
しかし、音無は納得できなかった。最善でも受け入れることができない。
「私は、殺すべきじゃないと思う」
「なぜ」
「そんなのってあんまりじゃない」音無は刀を握る手に力を込めた。「あの子たちは周りの環境のせいで狂ってしまっただけなのよ。痛みにも慣れるほど、気絶なんて日常茶飯事で、自分の身体を傷つけることに抵抗がない。彼女たちは望んでそうなったわけじゃない」
もしも望んでいたのなら、街の外から逃げてくることはなかったはずだ。この街に受け入れてもらおうなんて考えず、街の外で、世界の外側で好きに生きていたはず。
そうしなかったのは、人並みの生活に憧れていたからじゃないだろうか。人並みの幸せを手に入れたいその一心でここにやってきた。そんなふうに音無は思っている。
「彼女たちはなにも知らないだけ。能力だって、自分たちを守るためにあることだって気付いてない」
「気付かせられるのか?」
「気付かせてみせる。彼女たちをこんなふうに育て上げてしまったのが環境だというなら、変えることができるのもまた環境だけよ」
傷つき傷つけられ、憎み憎まれるだけの世界じゃない。もっと温かく優しい世界もあるのだ。そのことを知り、だけどそこに到達できないまま、その一生を終えなければならないことほど、悲劇的なことはない。
ルーチェは白い翼の少女を気にかけることができている。その優しさがあるのなら、まだやっていけるはずなのだ。諦めるにはまだ早い。
「都市警察にしては面白いな」
「今はただの音無舞桜よ」
都市警察の名を背負っていたのなら、こんな決断はしていない。ある意味この決断は都市警察の意思とは真逆だ。この街の平穏を保つためにあるのだから、ルーチェのような存在を野放しにすることも、ましてや保護することもしないだろう。
事務所と同じ命令が下る可能性も否めない。
だからこそ、ただ一人の人間として、この問題に向き合うことにしたのだ。
「どうすればいい」
「え?」音無は面喰った。まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。
「とりあえず気絶させればいいか?」
「手伝ってくれるの?」
「お前たちのこの先に興味がある」
この感じだ。音無が月宮湊を追い掛けていたのは、彼から他の事務所員とは違うなにかを感じていたからだ。その正体はいまだにわからないが、今たしかにそれを感じることができた。
(なんだろう、これは……)
誰かを想う温かいものとも違う。かといって冷たいわけでもない。言うなれば「遠いもの」だ。温かさも冷たさもあるが、どこか遠い。
内側に向けていた意識を外側へと戻す。月宮も白い翼の少女もまだその場から動いていない。ただその紫色の瞳が静かに、不気味にこちらを見据えている。
音無は程よい緊張を感じ、唾を飲み込んだ。
月宮にどう動くべきかの話を持ちかけようと彼に視線を向ける。
すぐ近くにその姿があった。こちらを見ていない。
それを認識したとき、凍えるような風を感じた。
音無は瞬時に理解する。しかし今から振り向き、「彼女」を視界に入れたとしても、そこから行動しては遅い。どんな攻撃かはわからないが、とにかく防御しなければならない。能力か、刀か。考えるまでもない。両方だ。
その判断は間違っていなかった。振り向きながらも防御の姿勢をとったことで彼女の攻撃から身を守ることができた。
しかし、守れたのは月宮が音無と少女の間に立っているからだ。少女の異様に伸びた爪が月宮の右腕に突き刺さり、それによって音無に直撃していた軌道がずらされていた。
音無は謝罪の言葉を飲み込み、一歩前へ出る。
月宮の右腕の下を通り抜け、少女の懐に入り込んだ。
刀を振らず、風で作った刃で少女の左腕を狙う。
単なる物理は無効化されると見ていい。身体変異は攻撃力もさながら防御力もまた高く、刀で狙えば弾かれるだけだ。
空気の切れる音とともに、少女の左腕は鮮血を散らした。普通の相手じゃないからこそできることだ。彼女たちの再生力に信頼を置いていなければ、そうそう部位を斬り落とすことなどできない。
だが、少女は退かない。
じろりとその紫色の瞳を向けられる。禍々しく輝き出すそれから異様な風を感じた。円といくつかの図形が重なりあったものが左眼の前に浮かんだ。
来る、と身構えようとしたとき、その光が失せた。彼女の目にナイフが突き刺さったのだ。本当に容赦のない一撃だと音無は思った。たとえ再生すると言われても、躊躇う部位であるのは間違いない。
しかし今はその躊躇いのなさが心強かった。危機に対する判断の早さほど戦いにおいて重要なものはない。
片目と片腕を失いながらも、少女の攻撃は止まらなかった。白い翼が広げられ、鎌のように振り下ろされた。
音無は身を翻(ひるがえ)して、その軌道から外れ、さらに距離を取った。月宮も同様に回避していた。彼の左肩にあった少女の腕がなくなっている。
コウモリの翼の骨格に似たそれは、容赦なく地面に突き刺さっていた。そして突き刺さったまま地面を抉りながら彼女の背後まで戻り、再び地上にその姿を見せる。
「大丈夫?」と彼女を見据えたまま、月宮に訊いた。本当は感謝も謝罪もしなければいけないとわかっている。だけど今はそのときじゃない。
「問題ない。あるとすれば、向こうの再生力が上がってることだ」
月宮の言うとおり、少女の再生力は段違いに上がっている。切断された瞬間からすでに再生が行われ、翼で攻撃した直後にはそれを終えていた。
少女は左眼に刺さっているナイフを抜き、地面に落とした。ぽっかりと黒い穴が空いていたが、それもすぐに紫色の瞳を取り戻す。
「気絶は無理のようね」
「あとは体力が無尽蔵じゃないことを祈るばかりだ」
再生力を永遠に維持できるというのなら、圧倒的にこちらが不利だ。音無たちは彼女たちのように手足を切断されるわけにも、致命傷を受けるわけにもいかない。相手の攻撃次第では防御も許されてはいない。
しかし彼女たちの場合は、再生力が防御力と攻撃力を大きく補助しているため、どんな攻撃が向かってこようとも、その身で受けることができる。回避する必要がないのだ。自滅覚悟という言葉がまるで当てはまらない。
ふっ、と少女の姿が消えた。しかし姿は追えずとも彼女の放つ風は感じることができた。いくら見えないとしても、あれだけの殺気と憎悪を完全に消すことはできない。
音無は身を屈める。頭上をなにかが横切った。
低い姿勢を保ったまま、振り返りざまの反撃を行う。まずは彼女の機動力を奪うために、足を斬る。身体のバランスを保っている部分でもあるため、いくら再生力が高められていようとも、隙は生まれる。
白い足に赤い横線が引かれる。
ぐらりと彼女の身体が横に倒れていくが、骨の翼が地面に刺さり、彼女の身体を不格好ながらも支えた。
殺気に満ちた風。倒れながらも反撃をしていることが視界を通さなくともわかる。だが回避はしない。別の風が近づいていることがわかっている。
視界の上から赤い雨が降り出す。その中を、形を変えた腕が落ちてきた。
音無は少女の身体を支える翼に向かって太刀風を放つ。しかしその瞬間、新しい支柱が次々と作り出され、細い枝のような骨から太い幹のようになる。太刀風はその途中で消え、彼女のバランスは不格好に保たれた。
けして音無の能力が弱かったわけじゃない。ただその威力を上回るほどの再生力によって切断を防がれてしまったのだ。
反撃がくる。
音無は神経を集中させた。
どこから。
それはすぐにわかった。
正面からだ。
少女の腹部。
視界いっぱいの殺意。
瞬時に風の障壁を自分の正面に作り上げ、そして後退をした。
ぞわりとした悪寒。
音無はそれを見ていた。
まるで風船が破裂するようだと思った。少女の腹部から、残った脚部から、胸部から、腕部から、頭部から、余すところなくすべての個所から赤い槍のような鮮血が空間を穿った。
それは風の障壁を貫き、音無の身体まで到達した。直撃は免れたものの、負った傷は十を超えた。
「血液まで操れるっていうの……」
そうだとしたら、今彼女に近づくのは危険だ。脚と腕を斬ったことにより、血液が溢れだしている。できた血溜まりでさえ、武器として扱えるのならば、迂闊に手を出すことはできない。しかしそれは再生を許すことと同義だ。それだけに辛い状況になった。
月宮も足が止まっていた。同じことを考えているのだろう。
その間にも少女の脚は再生を終え、直立できるまでになった。
自らの血に染まった少女は悲鳴を上げた。あるいは叫んだのかもしれない。それは言葉ではなく、ただ空気を振るわせる高音だった。
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