第2章
第7話 異物
「ただいま」
「ただいまです」
「おかえりー」
第五支部に戻った音無たちは部屋の涼しさに歓喜した。時間が経つにつれて気温はますます上昇し、今では三十三度にまでなっている。これでまだ午前中なのだから恐ろしい。
イヴがタオルを取りに行っている間に、導に街の様子を訊くことにした。
音無は導の傍に立つ。パソコンのディスプレイが三つ並び、それぞれが別の情報を映し出していた。
「どう?」
「これといってなにかが起きてるわけじゃないよ、今のところは。ただまた監視カメラのシステムに介入してきた奴がいて、そっちを優先してたから見落としがあるかも」
「そっちは特定できそう?」
「いーや」導は肩を竦めた。「相手も特定されないようにしているからね。もうあちこちからアクセスしてきやがるんだよ」
「あちこち? 一人じゃないの?」
「一人かどうかはしんないけど、一人でもできないわけじゃない。詳しい説明する?」
「ううん。いらない」
ぱたぱたと足音を立ててイヴがタオルを持って戻ってきた。音無は会話を中断して、彼女を向いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
タオルを受け取って、顔を拭いた。汗が拭いとられ、ようやく外から帰ってきたのだと実感できる。冷房の効いた室内では、まとわりつくような空気とは無縁だ。また汗が流れ出ることもなく、すっきりとした気分になった。
「そうだ、向日葵さん」
「ん?」
「これ、お土産です」
イヴの差しだしたビニール袋にはサンドイッチとおにぎり、それにペットボトルの飲みものが二本入っている。緑茶とイチゴ牛乳だ。
「どうも」導が受け取り、中身を確認する。「これはまたたくさん買ってきたねえ」
「サンドイッチだけにしようと思ったんだけど、イヴが飲みものも買おうって言い出してね、それからもしかしたらおにぎりが食べたいかも、おにぎりにはお茶だって言って、結局そうなったの」
「まあ、うん、ありがたく頂戴するよ」
導の微妙な反応の原因はわかっている。イチゴ牛乳だ。それはあくまでイヴのマイブームであって、導の好みではない。音無もそれはわかっていたが嬉しそうに買いものカゴに入れる彼女を見ていたら言い出し辛かったのだ。
それを察したように導の視線が音無に向いたため、「ごめん」と唇を動かした。
それから音無はイヴの宿題を手伝った。彼女は安易に答えを訊いたりしない。まずはなにが問題を解く足がかりになるのかを訊く。
「答えはなにか」ではなく「答えを見つけるための一歩目はなにか」。
一歩目を聞けば、イヴは答えを導き出せた。もともと勉強ができないわけじゃない。ただ人よりも時間を消費してしまうのだろう。
そんな彼女を見守っていると、
「そういえば」
と、導が切り出した。
音無はイヴにそのまま宿題をやるように告げて、導のもとへと向かった。
「どうしたの」
「街に異変はないけど、舞桜が興味を示すものなら見つけた」
「なにそれ」
「月宮湊」
「ほんと! どこにいたの!」
ディスプレイに映し出された監視カメラの映像を確認してみたが、それらしき人物はいない。もう別の場所に行ってしまったということだろう。
「駅前商店街にいた。女と歩いてたけど、恋人かねえ」
「依頼者かもしれない」
「かもね。まあ行ってみたら?」
「あとよろしく」
導の答えを聞かず、イヴの呼び声にも振り向かず、音無は部屋から出た。
音無の頭にはすでに夏の暑さなどなかった。涼しい場所から一転、蒸し暑ささえある空間に飛び出したというのに、そのことが一切気になっていない。
彼女の脳内にはただ月宮湊の存在があるだけだ。
事務所がまた問題を起こすというのなら、それが起きる前に食いとめて見せる。事件が起きてから動き出すばかりではないことを証明する目的もあったが、音無には個人的に彼らに訊かなければならないことがある。
白枝畔のこと。
人体消失事件のこと。
都市警察の上層部が隠していることには、少なくとも事務所が関わっていると音無は睨んでいる。あるいはその事件に関与した者が事務所となんらかの関わりを持っていた可能性があった。
世の中には「知らなくてもいいこと」、「知らない方がいいこと」がある。けれど同時に「知らなければならないこと」もあるのだ。
第五支部から駅前商店街までは少し距離がある。この時期、この時間は表通りには人が多く行き交っているため、そこを通ることは得策ではない。
路地裏を行くことを決め、一気に駆け出す。
月宮湊と初めて遭遇したのは去年の秋ごろである。事務所に所属するメンバーは都市警察の実力者たちと並び立つかそれ以上の者しかいない中、ただ一人だけ一般人が混じっていた。それが彼だ。
他のメンバーとは異なり、彼は普通にその姿を晒し、そしてまるで抵抗をしない。ただ逃げるだけが彼の仕事だった。
一般人なのだからそれしかできない。
そう思うのが通常だろうが、しかしこの街では違う。
そんなことができる一般人は、誰よりも異常である。
事務所が相手となれば、都市警察も《欠片持ち》を向かわせる。それも一人や二人ではない。それだけ彼らの存在は危険で、それだけ都市警察は彼らの実力を認めていた。ただの一般人にすら容赦をするはずもない。
それでも月宮湊は逃げ切るのだ。複数の《欠片持ち》を相手にしても、当然のように逃げ切る。
持たざる者が、持つ者に悠々と勝利する。
怪しいのは彼の登録書だが、しかしそれでも《欠片持ち》であるかを偽ることはできない。この街に“住んでいる”のだからそれだけは不可避だ。その登録書を書き上げたと思われるアリスの姉であるアイリス・ティファレタイン・ソフォールもまた怪しいのだから仕方ないのだろうが。
彼女にいたっては、アリスの姉だということ以外なにもわからない。そもそもその情報もアリスの登録書に記されていただけだ。
この二人の怪しさは、この街でもトップクラスだ。どうしてそれが受領されたのかもわからない。
だからこそ月宮湊を捕まえ、その謎を解き明かす一歩目を踏み出す。都市警察という組織に疑問はないが、上層部はどうも信用できない。音無は彼らが隠していることを知りたいのだ。
何度目かの曲がり角に差し掛かったところで、それまで現れなかった人影が唐突に視界に映し出された。
「危ないっ!」
そう言ってみたはいいが、ほとんど全力で走っていた音無は止まれなかったし、現れた相手もその声でようやく彼女に気付いたため、接触は避けられなかった。
ぶつかった衝撃で、音無は尻もちをついた。
「いったあ……」
打ち付けた個所を擦(さす)りながら、音無は立ち上がる。相手も同じように立ち上がっているところだった。
「ごめんね。大丈夫?」
「うん。大丈夫」
あれ、と音無は目の前の少女を見た。長い白髪に、それに負けるとも劣らない白さの肌。大きな紫色の瞳がこちらに向けられている。西洋の民族衣装のような格好をしていたが、音無が注目したのは別の個所だ。
白いローブ。
肩から掛け、胸の前で白いリボンで結んである。
そして金色の刺繍。
布の端に微かだがある。
金雀枝の言っていた事務所員の一人か。音無の緊張が高まった。ただ彼の言っていたような本能的な危機感はない。
別人。
しかし音無の警戒は解かれなかった。たとえ別人であろうとも、目の前にいる少女は間違いなく“警戒に値する人物”だ。
本能的な危機感は感じなくとも、彼女から発せられるそれはまどうことなく敵対心であり、殺意に近いものだった。
「痛いなあ。お姉ちゃん」
鈴のような声が狭い路地に響いた。
ぞっとするような涼しさが心地悪い。
「あなた、……何者なの?」
「私? 私は何者なんだろうね」
くすくす、と笑いながら少女は立ち上がった。ただ目だけはしっかりと音無を捉えている。
音無の頭の中にはすでに月宮湊のことはない。彼は要注意人物ではあるが、街の人間を巻き込もうとする意思はない。これまでの彼の行動からそれはわかる。逃げる方向も、逃げ付いた場所も、人気のないことがほとんどだ。
だから今はこの少女をどうにかしなければならない。
「ねえねえ、お姉ちゃん。私、訊きたいことがあるんだ」
「……なに?」音無は少しずつ距離をとる。
「どうしたら退いてくれる?」
どうやら音無の警戒に気付いているようだ。見た目は小学校高学年程度なのに、この手の鼻は利くらしい。
どれだけ人を見ればそれだけの観察眼が身につくのか、それともどれだけの修羅場を潜りぬけてここに立っているのか、まるで見当がつかない。そもそも年端のいかない少女がそんな経験を積めるとは思えなかった。
「そうね……。まずは名前を教えてくれるかしら」
「ルーチェっていうの。これで退いてくれる?」
「まだダメよ。私がここを退いて、あなたはどこへ行こうとしているの。そこでなにをするつもりなの」
「別になにもしないよ。だってここは――この街は化物でも住まわせてくれる場所なんでしょ? だったら、私たちはなにもしない」
「化物? なんのことよ」
「お姉ちゃん。質問ばっかり」
ルーチェの目の色が変わった。ただ撒き散らすだけであった殺意が、音無に集中し始めている。
「そういう仕事だから」
「そういう人――」
嫌いよ。
音無は自分の目を疑った。ルーチェが只者ではないことは雰囲気から明らかであったし、交戦することも仕方ないと考えていた。
しかしだからといってこれは予期できない。
ルーチェの細い腕がいつの間にか鎌に変容していた。
その紫色の瞳には欠片は宿っておらず、彼女が《欠片持ち》ではないことがわかる。
(どういうこと)
脳裡に過ぎったのは、ルーチェの言葉だった。
この街は化物でも住まわせてくれる。
だからなにもしない。
それはつまりそのまま彼女が化物であることを意味している。しかし「化物を住まわせてくれる」という意味はわからない。この街に化物などいない。
いるとすれば彼女のことだ。
そして彼女はやはりここで食いとめ、いろいろと話を聞かせてもらわなければいけないようだ。
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