第8話 強襲
デートとはなにか。
その答えを知るために、月宮は射干玉と本屋に立ち寄った。この街でも一際大きなその書店は二階建てであり、古書か在庫切れでもないかぎり、欲しい本は必ず見つかるとまで言われている。その信憑性は疑わしいものだが、月宮たちが求める本はすぐに見つけることができた。
恋愛コーナーにその本はあった。「これでわかるデートのすべて」というタイトルのそれは一目で悪書であることは明らかだった。中学生も読まないであろう。
ただ射干玉が最初に手に取ったもので、彼女が読み始めてしまったのだから止めることはできない。本当に読むに耐えないのなら、黙読を続けるはずがない。
月宮はそんな彼女を放置して、店内を回った。本屋に来ることはあまりない。ほとんどを学校の図書室で済ませてしまう。高校の図書室には情報誌や週刊誌も置かれるため、本屋に来なくとも不自由はない。
もとより、本を読む時間などほとんどなかった。
一通り回ったところで射干玉のもとへ戻る。ちょうど彼女が本を棚に戻しているところだった。
「もういいのか?」
「デートのことは把握した」
すっ、と右手を差し出す射干玉。月宮はそれを見て、首を傾げた。ここで握手する意味はまるでない。ではこの動作の意味はなにか、と考え始める。
「デートって、手を繋いで行うらしいの」
「ああ、そういうことか」
もしかしたら手合わせを申し込まれているのではないかと、あらぬ方向へ思考が進んでいたが、どうやら口に出さずに済んだようだ。不必要な恥をかくところだった。
しかし月宮の疑問は絶えない。
「いやいや、だからデートはそうかもしれないが、そもそもデートってどんな関係の奴らがするかわかってるのか?」
「読んだ本には『男女が出かけること』って書いてあった」
やはり悪書だったようだ。月宮はほんの少し前の自分を責めた。どうして止めなかったのかと。いくら射干玉が読むに耐えると判断したからといって、その内容を確認しなかったのはどう考えても悪手だ。
「手が塞がるのはあれだ。俺たちには死活問題だろ?」
月宮は手を繋ぐ必要性のないことを別の角度から指摘した。
「たしかに」射干玉はあっさりと手を引く。
「とりあえず用事は済んだし、外に出るか」
射干玉はこくりと頷いて、黙って月宮のあとをついてくる。
デートというものは恋人どうしが行うものであって、知り合いができることじゃないと月宮は思っている。だからどうアリスが茶化しても、秋雨とはただ出かけているだけでデートをしているわけじゃない。
けれど、アリスがそれをデートというのなら、秋雨としているようなことを射干玉にしてやれば彼女の望みは叶うのでないかとも思える。
本屋から出て、月宮は提案をした。
「なにか食わないか?」
「いいけど」
「なに食いたい?」
「そうだね……」と射干玉は周囲の店を確認していく。
ざっと見ていくだけで飲食店がいくつかあるが、そのどれを彼女が選ぶのかは予想もつかない。普段の彼女が未知数であるために、思考のトレースもままならないのだ。
「あれはなに?」
「ん?」
射干玉が指さした方向には、黄色い移動販売者が停まっていた。メニューは見えないが、買っていく客の持っているものから、なにを販売しているのかを確認できた。
「アイスクリームみたいだな」
「じゃああれがいい」
月宮たちは移動販売者の前にある列に並んだ。暑さのためかかなり繁盛しているようで、月宮たちのうしろにすぐに人が現れた。射干玉は顔を隠すように俯き、さらに帽子を目深に被った。
五分ほどで一番前に到達し、月宮はモカ味を、射干玉はストロベリー&レアチーズを頼んだ。
近くに空いているベンチはなく、建物と建物の隙間で食べることになった。月宮としてはそこでいいのかと言いたいところではあったが、射干玉が提案したのだから断る理由もない。
いい気分ではないが、日向よりも幾分か涼しかった。灰色の壁を見ながら、月宮はアイスを一口食べる。
「悪くないな」
「私のも美味しい」
「普段、こういうの食べるのか?」
「全然」
ふと射干玉が向き直り、自分のアイスを差し出してきた。本当に唐突なことで月宮は面喰った。
「食べる?」
「いや……、いらない」
「そう。私は月宮のやつ食べたい」
「……どうぞ」
月宮はアイスを差し出すと、射干玉はそれを手に取ることをせずにそのまま食べた。デートらしい一面ではあるが、彼女のこの行動原理の裏にはあの本があるに違いない。余計なことばかりを書き、大事なことを載せないとは出版社の鏡である。
「ん……、美味しい」
「それはよかった」
また黙々とアイスクリームを食べていく。いくら日向より涼しいとはいえ、アイスクリームがその形を保持できるほどの気温ではない。手早く食べてしまわないとどんどん溶けていく。
表通りの賑やかさは数分ごとに増していき、まるで夏祭りでも行われているのではないか、あるいはなにかイベントでも開催されているのかとさえ思えてくるほどだが、今日は特にそんな行事はない。ただ夏休みの終わりということで人がごった返しているだけだ。
それに夏祭りはもっと騒がしい。それは出店の店員が客寄せのために大きな声を上げているのもあるし、祭囃子の音や花火の音もあるからだ。
けして遠くない記憶を思い出しながら、月宮はアイスクリームを食べ終えた。射干玉の様子を見れば、まだほんの少しだけ残している。
「ねえ、月宮」
「なんだ」
「月宮はどうして事務所にいるの」
「唐突だな」
「これは訊いてみたかった。たぶんアリスが月宮のことで隠していることよりも、ずっと知りたいこと」
射干玉が「神の力」について勘付いていても不思議ではないため、月宮は驚くことはなかった。なにせミゼットとの戦闘後、瀕死に近い月宮を回復したのが他の誰でもなく射干玉だからだ。
アリスの傍にいて、事務所にいるということは魔術の知識も当然持ち合わせているだろう。だから月宮の状態が異常なことを気付いてもなんら不思議ではない。
そう勘付かれてもいい。その判断がアリスにはあったのだろう。それほどにアリスは射干玉を信頼している。
「給料がいいから――で、どうだ」
「ほんの少し前の月宮だったなら、私はその答えでも納得した。月宮がやる仕事といえば、どれも簡単なことばかりで、ほとんど危険がなかったから、それでも通る」
「危険な仕事はあっただろ、昔から」
「命の危険はなかった」
「…………」
「その危険性が事務所で得られる給金と釣り合っている。昔の月宮なら“高い給金”だと言っても構わない。だけど今の月宮には“見合った給金”でしかない。命の危険のことを考えれば、それに見合う金額なんて本当はないけれど」
事務所の給金の高さはつまり、「いつ死んでもいいように悔いのない生き方をしろ」と暗黙の指示なのだ。だからその危険性をまるで有していなかった一年前の月宮にはあまりにも高い給金で、「神の力」を得てからの月宮にとっては妥当かそれ以下でしかない給金である。
本来、命と金銭が釣り合うことはない。
だから金銭で命を輝かせるしかないのだ。悔いのない人生とは、どんな人生よりも命が輝いている。
「なら、所長に恩があるから」
「恩を仇で返しているようにしか見えない」
「なかなか鋭いな」
事務所の目的はアイリスの目的でもある。世界のバランスを保つために月宮たちは働かされるが、しかし月宮自身が混乱を招くこともあった。姫ノ宮学園の一件はまさにバランスを崩した要因になってしまった。
たとえ信憑性が定かでないにしろ《終焉の厄災》の名が出た時点で、アイリスなりアリスなりに報告すべきだったのだ。それを怠ったからこそ、ミゼット・サイガスタとの戦いを強いられた。
「そもそも所長に恩を返したいのなら、自分の意思を捨てるべき。あの人の従順な駒となって働けば、それこそは一番の恩返しになる」
「そのとおりだな」
「月宮は姫ノ宮学園の生き残りを引き入れただけでなく、『暴食』の女とその連れまでも救いあげた。事務所の利益になると考えたわけじゃないんでしょう?」
「俺がやりたいからやっただけだ」
「恩返しはなに一つできてない。だからその答えも却下」
「意外と手厳しい奴なんだな、お前」
「疑問を解消できる答えが欲しいだけ」
月宮は自分がなぜあの場所に身を置いているのか考えてみる。金銭面の問題もとうの昔にクリアしていた。日神たちや茜奈のこともあり、かなりの金額を使ってきたが、それでもまだ貯蓄は学生としては多過ぎるほどある。
所長に恩があるというのは嘘ではない。しかしだからといって所長の言いなりの駒になっているわけでもなかった。
ならば、なぜ事務所にいる必要があるのか。
その答えは――。
「強くなりたいからだ」
「今までで一番いい答え」
「そりゃよかった」
「どうして強くなりたいの? 事務所を辞めれば、戦うこともなくなる。そしたら強さはいらない。この街にいる《欠片持ち》くらい月宮にならどうとでもなるでしょ」
「もしお前たちが敵になったときのことを考えたら、俺なんてまだまだ大した実力もないガキだよ」
「この街で一番強くなりたいの? 番長みたい」
「とりあえず、気に入らない奴をぶっ飛ばせるくらいにはなりたいな」
月宮はその相手を想像しながら言った。
得体の知れない強さを持った、あの黒い魔術師を。
また彼が現れたときのために、ただ掌で踊らされるだけのままではいられない。
あの憎たらしい表情から余裕を奪ってやりたかった。
「強くなる前に、その人に出会ったらどうするの?」
「そんなこと言い出したらキリがないだろ。そのときはそのときだ」
「そうだね。どうしようもないもんね」
「もしかして今日はこれを訊くためだったのか?」
「半分は」
「そんなに訊きたいことだったのかよ」
「うん」
射干玉は残りのアイスクリームを食べ終えた。話している間は俯いたままで、いったい彼女がどんな表情をしていたのか、その変化を見ることはできなかった。今のところ、射干玉は長月のように表情に変化のない人物として認識されている。現にそのとおりだ。
ただ長月とは違い、心情を読めない相手である。長月も普段は無表情に近いが、呆れることはあるし、悔しがることもあった。最近では微かに笑うようになったように思える。如月のように声を上げて笑うことはまだないが、それは永遠に来ないだろう。
このまま日陰で――しかも建物どうしの隙間で過ごすわけにもいかないため、月宮は予定について訊ねてみた。もしかしたらやりたいことができたかもしれない。悪書だったとはいえ、少なからず射干玉に知識を与えたのだから、それくらいはしてくれているだろう。
「キス」
「は?」
月宮は思わず射干玉を見た。彼女は月宮を見上げていた。
「デートにはキスがつきものなんだって」
「あの悪書とともに出版社を壊してくる」
今後もこんな勘違いを生んでいくのだから、今のうちに滅ぼしておいた方が、世のため人のためだろう。
「アリスが必要と言ったんだから、キスもしないと」
「お前、意味わかって言ってるのか?」
「わかってる。唇を合わせるだけでしょう?」
行為の説明としては間違っていないが、感情を抜きにした考えは間違っている。本来、唇を重ねるだけとは思えないはずの行為なのだ。しかし射干玉はそれを他愛のない行為だと思っているらしい。
アリスの言っていた「経験が必要」の意味を理解した。
「キスってのは、好きな奴どうしがするもんなんだ」
「月宮のことは嫌いじゃない」
「好きでもないだろ」
「うん。でも、アリスは必要って言った」
射干玉が迫ってきたため、月宮は建物の壁に背中を当ててしまっていた。右側には配管が並んでいる。左側は建物の構造で壁が出っ張っていた。逃げ道をなくすように誘導されていたようだ。
今までよく見えなかった射干玉の顔が目の前にあった。彼女の手は月宮の肩を掴み、精一杯の背伸びをしているようだ。
「いやいやいや、よく考えろ」
「考えても同じ。必要なことならやる」
しかし、射干玉の動きはぴたりと止まる。その瞳は月宮を見ておらず、別の方向を注目していた。そっちは表通りから離れ、建物群の隙間にある空間だ。昼間といえども明度は低い。
月宮も“それ”に気付いた。だから射干玉の停止に驚かない。二人はほとんど同時にその視線に気付いたのだ。
「誰かに見られてるな」
「気持ち悪い」
「妙な殺気だ。ここまで露骨だと動き辛いな」
月宮はホルダーからナイフを取り出す。いつ相手からの攻撃を受けてもいいように、その準備をした。
そして案の定、それは陰から現れた。数本のナイフが狭い空間を飛ぶ。
ナイフで応戦しようとした月宮だが、しかしその前にそのすべてのナイフを射干玉が蹴り落とした。狭い空間だからこそできる動きだ。壁を蹴り、宙を舞う。
やはり事務所にいるだけあって只者ではない。月宮はそう思いながらも、彼女の足を――靴を見た。ナイフを蹴り落としたとき、明らかに靴との接触とは思えない音がしたのだ。
靴の踵から十センチほどの刃があった。それも両足だ。
以前に琴音から暗器使いがいると聞いていたが、もしかしたら射干玉がそうなのかもしれない。そう考えれば普段から暑そうなコートを着ていることにも納得だ。きっとあの裏には数多くの武器がしまいこんであるのだろう。
微かだが、奥から笑い声が響いてきた。その声色はこの状況を楽しんでいる。
思い出されるのはウィンクと呼ばれていた少女だ。しかし彼女ではない。彼女はこんな手段をとらず、もっと周囲に甚大な被害を及ぼす方法を選ぶ。
殺意の込められた視線は笑い声とともに霧散していった。どうやら移動したらしい。目的はわからないが、あれだけの殺意を向けるということは自分たちを標的にしているのかもしれない、と月宮は考える。
ならば、放っておいても問題はない。
しかしもしあれが無差別のものだというのなら、月宮には見過ごせない相手だ。
「なにか見えたか」
じっと遠くをみつめる射干玉に訊ねる。
「うっすらとだけど」
「なんだ」
「白。白い影だった」
「白い服を着ていたのかもしれないな」
そう言いながら思い浮かべたのは、琴音だった。彼女はいつも金色の刺繍の入った白いローブを身に付けている。
ただ万が一にでも今の相手が琴音ではないことは明らかだ。彼女ならば、射干玉はともかく月宮は現状を理解できずに命を落としていたはずだ。月宮の格上である充垣染矢(あてがきそめや)も、さらに上の咎波君人(とがなみきみひと)でも琴音の足もとにも及ばないのだから、月宮では抵抗すら無理な話だ。
「とりあえず、報告だけはしておくか」
「デート終了」
場合によっては、休暇も終了した可能性が高い。
やはりこの街でなにも問題が起きないことはないようだ。
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