第4話 相反する温度
「お疲れ様」
店内で注文を終えて、飲みものを持ってきた秋雨が言った。グラスの中は三つともアイスコーヒーだった。トレーをテーブルに置くと、氷の涼やかな音が鳴った。
「ん」
秋雨が手渡してきたグラスを受け取る。
身体的にも精神的にも疲労が蓄積され、月宮は参ってしまいそうだった。その点だけは、日神ハルのときと似ているが、しかし日神ハルは目の前にいる女のようではなかった。同じなのは性別くらいのものだ。
同じ括りにいれたりすれば、“以前”の彼女になにを言われるかわかったものではない。
グラスを傾けて、コーヒーを体内に取り入れる。冷たい液体が通っていく感覚が心地よい。
秋雨は助けた女にもグラスをにこやかに渡していた。まるでここの店員のような振る舞いだ。そして受け取る側はまるで客のような振る舞いだ。
月宮の横に、秋雨は座った。丸テーブルではあるが、やはり人見知りのために近寄れないのだろう。
「それで、あんたはどうして倒れてたんだ」
女は喉を鳴らしながらアイスコーヒーを飲んだあと答えた。
「なに、ただの空腹だ」
「朝ご飯食べてないんですか?」
秋雨が言う。
「だったら、私なにか買ってきますよ」
立ち上がろうとする秋雨を女は手のジェスチャーで抑えた。彼女がそうしていなければ、月宮が腕を掴んで止めていた。
「そこまでお世話になると迷惑がかかってしまうからやめておくよ。いや、迷惑はもう散々にかけているんだがな」
「そんなことないですよ。困っていたらお互い様です」
そうだよね、と秋雨は月宮に同意を求めた。否定するのも億劫だったため、仕方なく肯定する。
「ふふ。きみたちは優しいんだな――おっと、そういえば、自己紹介がまだだった。助けてもらったのにすまない。私は茜奈という。茜(あかね)という字に、奈落の奈だ」
なぜその語句を選んだのか、月宮は甚だ疑問に思った。こういう場合は、相手に少しでもいい印象を持たれる語句を選ぶものだ。ただ、それは今後の付き合いがあるかどうかで変わってくる問題だが。
続いて、秋雨も名乗った。彼女の場合は、使われている感じがわかりやすいため、どう説明しても綺麗な印象を与えられる。
「いい名前だな。うん、私の思っていたものに近い」
「秋雨を知っているのか?」
月宮はすぐさま訊いた。
「知っている――と言っても、街で見かけたくらいだ。先日だったかな、友達と商店街を歩いていただろう?」
その場にはいなかったが、月宮もそのことは知っている。如月から嫌というほど聞かされた日の午前中のことだ。日神ハル、如月トモ、長月イチジクの三人と一緒に秋雨は遊んだ。
学生ならでは、子供ならではの、当たり前の遊びをした。
「はい」
秋雨は驚いたように頷いた。
「憶えてるんですか?」
「まあね。きみたちは特に可愛かったから、脳裡に焼き付いているよ。ああでも、黒髪の長い子とポニーテールの子は可愛いというよりは綺麗系だな。なんにせよ美少女グループが歩いていたら、誰だって憶えておこうと思うさ」
「私はそんなに可愛くないですよぉ」
秋雨は顔を赤面しながら、全力で否定した。彼女は褒められたりするとすぐに顔が赤くなる。誰が見てもわかりやすい、感情が顔に出てしまうタイプだ。
「いやいや、可愛いよ。すごく可愛い。本当ならあの日に声をかけたかったんだが、連れに止められてしまってね」
「その連れがいてよかった」
「きみにすればそうだろう。彼女を取られたくないしな」
「彼女!?」と秋雨。
「あれ? 違ったか?」
茜夏は不思議そうに首を傾げた。
「兄妹かとも思ったが、それにしては二人は対等な関係でいるようだし。だからこそ付き合っているものだと思っていたのだが、見当違いか?」
「付き合ってない」
月宮は秋雨に視線を向けると、俯きながら、手を組んで親指を弄んでいた。この状態になると、次の衝撃を受けるまでなかなか直らない。
本当にわかりやすいのだが、秋雨は周りには気付かれていないと思っている。
勉強のこともそうだけれど、彼女はどこか抜けている。如月が「絵に描いたような女の子」と言っていたことを思い出していた。
「そうなのか……、意外だな。幼馴染でもないのか?」
「違う」
「そうか。やけに心が通じ合ってる感が出ていたから勘違いしてしまったようだ。うん、すまないな。秋雨ちゃんは大丈夫なのか?」
「いつものことだ」
なぜ茜奈の相手をしなければいけないのか、月宮はその理不尽さに溜息が洩れそうだった。秋雨がダウンしてしまった以上、このテーブルを囲っているのは自分と茜奈しかいないのだから仕方のないことだとはわかっていても、どこか腑に落ちない。
ただ秋雨に強く言えない自分の弱さが原因のため、文句も言えない。
やはりあの発言が間違っていたのだ。今からでも訂正したいところだった。
茜奈は突如、「暑い暑い」と言いながら、服のジッパーを下ろし始めた。首元が開け、次第に胸元が露わになる。そこまでならば愛栖も似たような格好をしているため驚きも止めもしなかった。
しかし、彼女はジッパーを下ろす手を止めない。見た感じ下にシャツを着ているわけでもなさそうだ。
「おい」
「ん?」
茜奈の手が止まる。
「あんたには羞恥心がないのか?」
「ん……、ああ」
茜奈は察したようだ。
「知らん人が私の身体を見ようともなんとも思わないし、秋雨ちゃんみたいな美少女が見てくれるなら喜んで脱ぐけれど、別に羞恥心がないわけじゃないぞ」
まるで愛栖のようなことを(彼女の場合は服を脱ぐのではなく、相手を愛でる)言いながら茜奈は笑みを見せた。
そして続ける。
一番見て欲しい人には恥ずかしくて見せられない、と。
ただそれが本当かどうかはわからない。秋雨のように頬を染めてくれれば信じたのかもしれないが、茜奈はそれを恥ずかし気なくはっきりと言った。
その一言に乗る感情が、月宮には少し見えたような気がした。
「そういえば、きみは名乗ってくれないんだな」
得体の知れない魔術師、それに連なる者には簡単に名乗ることはしないが、しかしここは街の中であり、名乗らないと怪しまれることになる。月宮一人ならまだしも、秋雨がいて、しかも彼女は名乗ってしまっている。退路はない。
「月宮だ」
「月宮くんか。下の名前は?」
「必要か?」
「まあ、たしかに必要ではないか。して、月宮くんは私に興味ないかい?」
「は?」
「いや、秋雨ちゃんと付き合っていないようだし、私と付き合ってくれないかな、と思って。きみのような優しい男は逃したらきっと後悔する」
「お前には好きな奴がいるんじゃないのか?」
さっきの言葉から考えれば、茜奈に想い人がいると推察しても不思議ではない。月宮は秋雨を目撃したときにいた彼女の連れがそうではないか、と思っている。
今のところの印象では彼女は多くの人間と共に行動するタイプではない。一人、あるいは二人での行動を好みそうである。相手の空気に合わせようとは絶対にしないだろう。だからこそ多勢で群れることをしない。
造形が整い過ぎているために近寄りがたい、というのもあるだろう。その点では長月イチジクのようである。
「いる」
茜奈は断言した。
「でもまあ、一人いても二人いても同じだろう。私は、相手が男だろうが女だろうが関係ない」
「そいつ以外は、だろ?」
「そういうことになるな」
「最低じゃねえか……」
月宮が呆れ、茜奈が笑っていると、秋雨の意識が外に向けられた。どんな会話がなされ、なにが起きているのかわからないため、彼女はちょっとしたタイムスリップを味わった気分だろう。
「おかえり」と茜奈が言った。
「えっと……、どういう状況なの?」
秋雨は月宮に説明を求めたが、答えたのは茜奈だった。
「秋雨ちゃんは可愛いなって話してたところだよ」
「ええっ!?」
「……おい」
秋雨が戻ってきたことによって、心なしか茜奈の瞳の輝きが増したようだった。秋雨のような子をからかうのが好きな部類なのか、それとも秋雨個人のことが好きなのか、それは考えるまでもなく両方だ。
はっきり言えば、茜奈の男でも女でも構わないという発言を信じていなかったが、それが真実だということを知ってしまった。
あまり嬉しくない事実だ、と月宮は思った。
「少なくとも私はそう話していたつもりだ。どうだい秋雨ちゃん、私と付き合ってはくれないか?」
「いいですよ」
「本当か!」と茜奈はテーブルを両手で叩きつつ、立ちあがった。その衝撃でコーヒーが波打ち、氷とグラスがぶつかり音を立てた。
秋雨はビクッと身体を震わせた。いきなりのことで驚いたのだろう。
茜奈の趣味趣向を知ってしまった月宮は、彼女が秋雨の返答を受けてどう反応するか読めていたため静観を続ける。
相当大きな音がしたため周りからの視線を集めてしまったが、それはすぐに散らばった。なにか起きると期待していたからだろう。しかし彼らの期待を裏切るように、茜奈は再び座り込んだ。
「秋雨ちゃん、本当に付き合ってくれるのか?」
「いいですよ?」
歓喜に満ちた瞳になった茜奈だったが、すぐにその輝きを納めた。なにより彼女が気にしたのは、反応を示さず静観を続ける月宮だ。月宮のその態度を見て、茜奈は静かに考え始めた。黙っていればまとも、とは彼女にこそふさわしい。
ただし、服装を除く。
「秋雨ちゃん、しつこいようだがもう一度訊くぞ。付き合ってくれるのか?」
「いいですよ」
と秋雨は言い、そして続けた。
「どこへ行くんですか?」
悪意などない純粋な善意の前に、下心しかなかった茜奈は撃沈した。ただぬか喜びをせずに一度冷静になったことでそのダメージを抑えることはできていた。
「月宮くん」
「どうした」
「この世界には神様がいないようだ……」
「……かも、しれないな」
自分がなにをしたのか気付いていない秋雨は、頭の上にいくつもクエッションマークを並べるように首を傾げた。
「くっそぅ、なにをしても可愛いな」
茜奈はそう言って、秋雨に手を伸ばそうとした。
そのときだった。
背筋が凍る感覚があったのは。
月宮にはその原因がすぐに茜奈が伸ばす手だということに気付いた。ただどうしてその手に対して、そう感じたのかが理解できなかった。
たしかに茜奈のことを初めから危険視していたが、これまで感じたのは、彼女の言動の気持ち悪さくらいで、背筋が凍るほどではなかった。
その一瞬の寒気で、月宮は危うく能力を発動させてしまいそうになった。
それほどまでに、あの“手”を止めなければいけない。
月宮がそう思い至ったときには、すでにその手を止めていた。月宮の手は、茜奈の右手首を掴み取っていたのだ。
茜奈が目を見開いているように、秋雨も目を見開いている。当たり前だ。今まで静観に徹していた月宮が動いたのだから。
「なるほど」
と茜奈が頷いて、手を引っ込めようとしたため、月宮は解放した。
「いや、すまない。つい秋雨ちゃんが可愛らしくて撫でたくなってな。きみが言わんとしていることはわかる。こういうことは相手の許可を得ることが必要だった」
月宮の思惑はそうではないのだが、この場を治めるには納得のできる理由だったため、茜奈の案に乗っかることにした。
しかし、そうする前に、茜奈は淡々と続ける。
「私はそろそろお暇(いとま)するよ。お姫様と騎士様のせっかくの時間をこれ以上奪うわけにもいかない。秋雨ちゃんも月宮くんも、いつか機会があれば遊ぼう。今度は私がきみたちをもてなす」
それじゃあ、と言うだけ言って、茜奈は立ち去った。彼女が翻ると、防御力が皆無の布がふわりと浮き上がり、やや危うい感じはした。ドレスならば絵になったのだろうが、いかんせん彼女の巻いている布は薄すぎる。結局胸元も開きっぱなしだ。
その一挙一動は洗練されていて無駄がない。相手の介入を許さない撤退に、月宮もただ見つめるだけしかできなかった。
どこか気品を感じさせる素振りは、その真逆の世界の動きを彷彿とさせる。
彼女がそちらの住人であっても、この街でだけは厄介事を起こして欲しくないものだった。
「ど、どうしたの、月宮くん」
ようやく思考が追いついてきた秋雨が訊いた。目の前でいきなり手を伸ばされても驚くだろうし、それを素早く阻止する手があれば驚きは重なる。唖然として不思議ではない。
「いや、別に」
月宮は茜奈の手首を掴んだ、手を見た。なにも見えない。
だが、彼女の体温がたしかに残っている。
酷く冷たかった。
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