第1章

第1話 騒がしいある夏の日

 学生の夏休みの過ごし方には三パターンある。一つは長期休暇という多大な時間を怠惰に過ごすことだ。わざわざ暑い中を出歩く必要もなく、冷房の効いた部屋に入る方がいいという考えである。二つ目は一つ目とは逆で暑い中を過ごそうというパターンだ。たとえば海やプールなどに行き、水の冷たさで身体を冷やしたりする。活発的、友好的な学生の過ごし方だろう。


 そして三つ目。これは他の二つとは違い、遊ぶことや休むことを目的にせず、言ってしまえば普段とあまり変わらない、あるいは普段よりも忙しくなる過ごし方だ。学生の本分ではないが、経験をして損はないことである。


 すなわちそれは労働のことだ。


 月宮湊は今日も今日とて、仕事をしていた。精霊を召喚した魔術師と戦って以来大きな事件はなかったが、いつもの雑用の量が増えに増えていた。


 月宮の所属する事務所は、便利屋を名目に世界のバランスを保つ役割を担っている。小規模な組織にしては大規模な役割だが、それを可能にしているのはやはりトップの人間の存在が大きい。魔術などの神秘が残る《裏の世界》で「最高」の称号を与えられた魔術師一族――その中でさらに歴代最高とまで言われているのが、この事務所の所長であるアイリスだ。その実力は魔術師ではトップクラスらしい。彼女自身あまり公の前に姿を現すことがないため、正確な実力を知る者は少ない。それは月宮も同じだった。


 アイリスとは高校入学前から知り合っていた。行き倒れも同然のところを彼女に救われ、仕事まで与えてもらっている。本来ならば彼女に文句の一つも、抵抗をすることも、命令を違反することもできない立場なのだが、彼女に自然体でいるように言いつけられているため、それに従っていた。


 今のところ、事務所を辞めるつもりはない。魔術師と戦わされることがあったとしても、それでも月宮には成し遂げなければならない約束があるからだ。そのために、月宮は“あまり”文句を言わず働く。


「もうやだー!」


 月宮の横で、如月トモが弱音を吐いた。もう五度目だ。そのせいか月宮も、彼女の正面に座る長月イチジクも書類を整理する手を止めない。


「トモ、黙って仕事をしてください」


 イチジクが書類から目を離さずに言った。


「だって、こんなアナログなことやってられないよ! いい? いっちゃん、世の中にはパソコンっていう便利な道具があるんだよ。こんな書類の整理なんてちょちょいのちょいなんだから」


「そんなこと知っています。学園にいたころは使っていたでしょう……。今はないんですから文句を言わず手を動かしてください」


「だからこそなのに」


 如月は唇を尖らせた。


 如月トモと長月イチジクは、姫ノ宮学園という今は閉鎖された学園に所属していた。この街でも広大な敷地面積を誇ることや街の中にある都市としても知られていた。しかしその実情は数十年前にこの世界を震撼させた《終焉の厄災》を信仰している組織だった。そして日神ハルの特異体質を利用し、如月たちを生贄にした魔術で《終焉の厄災》を神の座に着かせようとしていた。


 ただしその計画は日神ハルと水無月ジュンによって崩壊するが、実際その魔術が正しく発動していたかと問われれば、頷くことはできない。


 星咲夜空という魔術師が暗躍し、事態を混沌に陥れていたからだ。彼の前では真実も虚実になり、虚実も真実に変わる。人々の想いや願いを無に帰してしまうのが、星咲夜空という魔術師だった。


 ともあれ、計画の破綻とともに学園は閉鎖され、生き残りの日神、如月、長月の三人は月宮が所長に頭を下げて、いろんな情報工作の結果、平穏な日々を送れていた。


 それが先日までの話である。


 精霊を召喚した魔術師と戦った日までの話。


 クラスメイトの秋雨美空が無事に追試を乗り越えた日までの話。


 その日を境に、如月と長月は血反吐を吐きながらも得た平穏な日常から、再び血生臭くなるかもしれない世界に戻ってきた。


 彼女たちも事務所に所属することになったのだ。月宮が頭を下げることで難なく所属は決定された。


 今のところ彼女たちは「普通」の夏休みを送れている。


 午前中は秋雨と一緒に商店街を歩きまわったらしい。いかに楽しかったかを仕事を開始したときから嫌というほど聞かされていた。長月も相変わらずの無表情だったが、語気に嬉しさを感じられた。


「それならば、私たちに言わず、所長さんに言えばいいでしょう。私や月宮湊に言ったところで、私たちにパソコンを設置する権限はありません。ですよね?」


「まあな」


 月宮はまとめた書類の左上をホッチキスで留めた。


「そんなこと言っても私やいっちゃんは所長さんに会ったことないし、どこにいるのかも知らないから、私だけじゃどうしようもないじゃん。だからつっきーに頼んでもらおうと頼んでるんだよ」


「頼んでたのかよ……」


「もっと頼み方というものがあるでしょう……」


「呆れられた!?」


「いくら嘆いても仕事は終わりませんよ。望んで所属したのですから、与えられたことは文句を言わずやるべきです」


 長月に言われ、渋々といった感じで如月は書類の整理を再開した。なんだかんだ言っていても彼女は仕事が早い。姫ノ宮学園で似たような仕事をしたことがあるのかもしれない。


「でもさ、私としてはこういう事務仕事じゃなくて、世界平和のために戦いたいというか、日常を守るために働きたいんだよ」


「同じ給料なら、事務仕事の方がいい」


 月宮は何度も頷いた。


「でも、そんなこと言っても、つっきーは街に殺人鬼が現れたとか情報があったら、颯爽と始末しに行くよね」


「何者だよ、俺は」


「たしかにそれはありますね。月宮湊のことですから、所長さんの命令に逆らってでも行くでしょう」


「行かねえよ」


「本当に?」


 如月が疑いの目を向けた。


「本当だ。それにそんな情報が流れたら、事務所の誰かが調査に向かわされるだろうし、俺が行く必要なんてない。むしろ足手まといになる」


「そうだよねえ」


 如月は深く息を吐いた。


「ここの怖いところってさ、つっきーの実力でも下の下ってことなんだよね。精霊とも戦える力があるのに、下っ端っておかしくない?」


「事実なんだから仕方ないだろ。実際、俺は下の下だし」


「それだと、私は下の下の下ってところですかね」


 長月は淡々と言った。


「そりゃあ、そうだよ」


 だって、と言いかけたところで、扉が開いた。月宮は気にすることなく仕事を続け、如月と長月は誰が来たのかを確認していた。


 部屋に訪れたのはアリスだった。「調子はどう?」と訊ねながら部屋の中を進み、奥にある革製の椅子に座った。彼女はアイリスの妹であり、アイリス不在時には所長代理として所員に指示を出している。この事務所で二番目に偉い存在だ。「記憶」を操る能力を持った《欠片持ち》でもある。


「良好だ」


 月宮は作業を続けながら答えた。


「そう。ならいいの。今日も暑いわね」


 ここ三日ほど日中の気温は三十度を超えていた。商店街などでは熱中症に気をつけ、水分をこまめにとるように促している。暑さの原因は太陽だけじゃない。住宅街や商店街で稼働しているエアコンの室外機が熱を生んでいるのだ。そのせいで、外出してからほんの一分も経たないうちに汗がじわりと滲み出る。


 ただそれでも、人々は外を歩いている。遊ぶため、あるいは仕事のため。人それぞれ理由はあるが、夏を楽しんでいる者はほんの一握りだった。多くの人が冷房の効いた室内で過ごしたいと思っているはずだ。


 事務仕事がいいと月宮が言った理由もそれだった。暑い中を動き回りたくないし、かといってじっと立ち止まっていたくもない。


「所長代理!」


 如月が大きな声を出した。


「アリスでいいわよ。なに?」


「パソコンが欲しいです!」


「湊、この子の教育どうなってるの?」


「うちは自由主義なんだ」


 月宮の教育係が充垣染矢(あてがきそめや)であるように、如月と長月の教育係が月宮だった。仕事の際は月宮の命令に従うこと、というのが入所条件の一つだった。つまりは月宮をリーダーとしたチームである。全員の名字に「月」の漢字が入っているため、「月組」「月チーム」などの呼称がつけられていた。


「それは俗に放置というんだけど」


 アリスは髪を払った。


「まあ、如月が自分で設置する分には構わないわ。場所くらいは融通してあげる」


「自分で買うのはちょっと……」


「たしか、あなたたち姫ノ宮組は三人暮らしだったわよね? 如月と長月の収入で充分過ぎるほど資金が得られるはずなんだけど、それでも渋る理由ってあるの?」


「夢のマイホームを買いたくて」


 如月がそう言ったと同時に、長月が手を伸ばして彼女の頭を強制的に下げた。しかしそれはただ押さえつけているだけじゃない。如月の小さな頭を鷲掴みし、思いっきり力を込めていた。巨大なハンマーを握る力を考えるとおぞましかった。


「すいません。嘘です。冗談です。あとできつく言っておきますので、今の発言はなかったことにしてください」


「まあ、いいでしょう。私も湊のおかげでその手の発言に耐性ができているみたい。パソコンの件はそういうことだから。欲しかったら自分で買うか、教育係である湊に頼みなさい」


「俺かよ」


「当たり前じゃない。湊たちはチームで、如月は湊の部下なんだから、それくらいの要求を受け入れなさいよ。聞けば、如月は情報系には強いらしいし、持っておいて損はないカードなんじゃない?」


「事務所としてはどうなんだ? 持っておきたいカードにならないか?」


「ならないわね。使えるカードが多いから」


 アリスのいうカードとはつまり、月宮たちのことだ。自分の代わりに実際にその目で見、その耳で聞き、その手で触れ、その鼻で嗅ぎ、その肌で感じ取ってくる。不確かな存在が流す情報で塗れたネットではなく、信頼を置く所員たちの方が、利用価値があるのだ。


 どちらかといえば月宮もアリス寄りの考えを持っている。


 しかし、如月のことを考えれば、与えてもいいのかもしれない。それで大人しくなるなら安いものだ。


「まあ、持っていて損はないものか」


「そのとおりだよ! さっすがつっきー、話がわかる」


 如月が長月の拘束を退けて、嬉々とした声を出した。


「月宮湊、気をつけてください。トモはあなたに甘えるだけ甘えて、絞れるだけ絞り取ろうとしているのです。トモは甘えたいだけの子供なんです」


「いっちゃんも甘えちゃいなよ」


「どれだけお世話になれば気が済むんですか。借りだけが積もっていきますよ……」


「いや、今回の場合は仕事のことだから、借りとか関係ないと思うが。如月の能力を信じられるってのもたしかだ」


 日神ハルの一件で、如月はその能力をいかんなく発揮した。それが裏目に出てしまったのだが、しかし使わせないのは惜しい力でもある。


「信じてるだって! 聞いた? いっちゃん」


「あまり甘やかさないでください。トモはこれまでの人生で甘えられなかった分を、月宮湊で晴らそうという魂胆なんです」


 月宮が考え、如月が懇願し、長月がそれを阻止しようとしている。完全に仕事を放置し、好き勝手やっているその様子を見ていたアリスが言う。


「まるで子供の教育でもめる夫婦ね」

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