終章
第25話 月に向かい消える紫煙
妖艶に月が輝き始めたころ、咎波は事務所を訪れていた。中に入る前に建物を見上げた。相変わらず不格好に剥き出しになっている鉄骨は、夜になると昼間とは違った印象を受ける。不格好ではなく不気味だ。
短くなった煙草を携帯灰皿に入れ、新しい煙草を取り出し、火を点ける。禁煙だとは言われていない。
いつもの部屋に行くと、すでに二人の姿があった。
「僕が最後か」
「見てわからないのなら病院へ行った方がいい」琴音が視線を向けずに言った。
咎波は肩を竦めて、もう一人に目を向けた。
事務所の所長。
アイリス・ティファレタイン・ソフォール。
彼女もまた、琴音と同じく可憐な少女の皮を被った化物だ。ただし化物度でいえば、アイリスの方が二回り以上勝っている。いまだ彼女の力を見たことのない咎波だったが、相対すればそれを理解できる。
嫌でも理解できてしまう、圧倒的な力の差が彼女から感じ取れた。
「集まったのならそれでいいわ」
アイリスの綺麗な声が響いた。それだけで咎波の全身に鳥肌が立つ。
「報告をしてほしいの」
目配せをするわけでもなく、最初に話したのは咎波だった。
「湊くんはよくやってくれたよ。ただ精霊と戦うにはまだ回復し切れてなかったところもあるけど、結果的にはミゼットの蛮行を阻止できた」
「咎波が手を下すまでもなかったのね」
「一応、待機はしてたんですけどね」
月宮の誘いを断ったのは、この仕事があったからだ。もし月宮がミゼットに排除されるような事態になれば、咎波がミゼットを撃っていた。アイリスは彼に無謀ともいえるペナルティを与えたが、しかし切り捨てる気はないらしい。
「危なかったけどね」
咎波は煙を吐いた。
「でもまあ、彷徨くんが来ていたからなんとかなった」
「雪柳彷徨と月宮湊は接触してないのね」
「していない。前に報告したとおり、彼には変な虫が付いてしまっている。たぶん彼女が接触をさせなかったんだと思う」
「まあいいわ。雪柳彷徨が成長してくれるならば、どちらでも構わない。このまま引き続き、御津永として彼を監視して」
「わかったよ」
「それで、問題のミゼット・サイガスタの死亡についてなんだけど、それは月宮湊の報告どおり精霊の暴走でいいのね?」
「まあ、そうだね」
咎波は曖昧に返事をするしかなかった。肯定しても、否定しても確実にいい方向へは転がらない。琴音と敵対することも、ましてやアイリスに逆らうことなどできやしない。
姫ノ宮学園で、琴音と目が合った。
気配を完全に消していたのに、彼女は咎波の存在に気付いていた。
見たことを黙っておけ、という意味だった、と咎波は解釈していた。
「そうなの、琴音?」
「私が始末した」
そんな咎波の葛藤を知っていて、琴音は即答していた。彼女なりにアイリスに怯えた結果だと思いたかった。
「理由は?」
「アイリスに有益な情報を持っていなかった。他の誰かにとって有益な情報を持っていた。私にとって不利益な情報を持っていた。だから始末した。その仲間も一人を除いて始末した」
「ああ、その一人を殺したのは彷徨くんだよ」と咎波は付け加えた。
「そう、ならいいわ」
「いいのかい?」
「力ある者には多少の自由を与えないと、いつ寝首を狩られるかわからないもの。それに所員の言うことは信じるわ」
これは嘘だな、と咎波は心のうちでそっと思ったが、琴音はそれを言葉にした。いくら咎波でもこれには少しヒヤリとする。どうして琴音はこうも本音を言えてしまうのか、咎波には理解できなかった。
「これからのプランは?」
咎波は話題を切り替えた。
「X日(エックスデイ)までは、大きなことは起きない。今までどおり世界の動向を監視してもらうわ。咎波は雪柳彷徨と“彼女”を優先して監視して」
それを聞いて、二人は部屋を退出した。こういった集まりは解散の一言もなく終わることが多かった。
琴音と一緒に事務所から出た。その間会話は一切ない。
夜空に浮かぶ月を見て、咎波は静寂を破った。
「X日にはなにが起きると思う?」
「知らない」
「知りたいと思わないのかい?」
「私にとって、それは大きな問題じゃないから」
琴音はそのまま歩いて行った。
咎波は立ち止まり、その背中を眺めていた。
彼女には彼女の問題がある。
彼女には彼女の事情がある。
世界には世界の問題がある。
世界には世界の事情がある。
では自分には?
自分にはいったいなにがあるだろう。
なんのために事務所にいて、
なんのためにアイリスに従っているのか。
そもそもそうなった経緯とはなにか。
そのことを記憶の海に沈めてしまうほど、毎日が激動だ。
いろんなことがあった。
いろんな人物と出会った。
新しい記憶に埋もれ、久方ぶりに浮上してきたそれは、
自分にとって大切なものだっただろうか。
咎波がそれらについて考えながら歩き出した。
月明かりの下で、紫煙を燻らせながら。
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