第9話 底なき瞳の洞観
夜が明けたころには 雨は止んでいた。そのことに外に出るまで気付かなかった。
道にできた水たまりは日差しを受け輝き、青空や白い雲などを映し出しているものもあった。その水たまりを子供たちが楽しそうに跳ねている。もちろん長靴を着用している。この天気からして、その遊びをするためだけに履いてきたのかもしれない。
朝から面倒なことがあったために、逃げるように家を出てきた彷徨だったが、その後ろには当然のように浴衣の少女がいた。まるで親鳥についてくる雛鳥のようだ。どこへ行くにしてもこうなのだろうか。まったく厄介な存在である。
「どうして浴衣なんだ」
彷徨はようやくそのことに触れた。
「夏祭りでもあるのか?」
「浴衣が好きだからかな。でもきちんと着ているわけじゃないよ。下には短パン履いているし、なんていうか、羽織っているだけとも言えるね」
「お前、自分の荷物とか持ってこなくていいのかよ。あの家に住むなら必要だろ。それとも、荷物なんてない、なんて言い出すんじゃないだろうな」
「ないよ」
「ないわけがないだろ」
「どうしてそう言い切れるのか、私には理解できない。私がないと言った以上、ないものはないんだから、あなたがそう言うのはおかしいと思うけれど」
そのとおりだ、と彷徨は口を噤んだ。やはり十四歳の少女であるというのは嘘だろう。思考の速さ、柔軟さが尋常ではない。気持ち悪いことこの上なかった。
しかし、実は家を出る直前に身分証明書を見させてもらっていた。そこに記載されている情報からすれば、間違いなく心歌は十四歳である。
もちろんその身分証明書が本物かどうかはわからない。この類のものは意外にも簡単に作ることができるし、その依頼をすることができる。
気持ち悪い。
この少女を言い表すには、やはりこの一言が的確だろう。
彷徨の気分を悪くさせるのはそれだけではなかった。子供の長靴、家を出る直前、気持ち悪い。彼の思考をその方向へ導いているのは、それ相応の理由があった。何気なく、そして当たり前のようについてくる心歌だが、彼女が履いているのは下駄である。しかも足が一本しかなく、高さが二十センチはあるだろう。そんな天狗が履いていそうな下駄を、少しのバランスを崩すことなく(平気でジャンプして見せたりする)、軽快な音を立て続ける。
そんなわけで、彷徨と心歌の身長差は二十センチほど縮まったのだった。思ったよりも低身長の心歌の頭が、彷徨の肩の位置にあった。
「これからどこへ行くの?」
「食料調達」
「じゃあ、今はあの大きな冷蔵庫を飼っているみたいなものなんだね」
その表現はなかなかに面白かった。
「あれ、でも、電話すれば誰かが持ってきてくれるんじゃないの?」
「あいつらが持ってくるものは嫌いなんだ」
心歌が言っているのは、雪柳博士の助手たちのことである。彷徨は雪柳博士に、要望などがあれば研究所に電話をかけるようにと子供のときから言われていた。研究は発表するたびに評価され、そして実用化まで進むために、捨てるほど財力が膨れ上がった。研究自体にも費用がかかるのだが、数々のスポンサーや企業への技術提供等もあって、減るどころか増えていくばかりである。そのために雪柳博士は、大切な研究対象である彷徨に対して、過保護と、異常と言われるほど、湯水のように金を使っていた。
今朝のことで粉砕されてしまった家具たちも、彷徨たちが家に戻るころには、新しいものに取り換えられているだろう。そういう手筈で頼んでいた。雪柳博士の助手たちは、彷徨のどんな要望に対しても二つ返事で了承する。どこまで了承されるのか試したことはない。下手なことを言ってそれを実行されても、こちらが困るだけだからだ。
「どんなものを持ってくるの?」
「たとえば、食料を頼んだとする、そうするとあいつら、最高級だのと銘打ったものばかり持ってくる。あとはそう、産地直送を冗談じゃなくやってくる」
「そうなんだ。壮大だね」
「金の掛け方を間違えているんだ」
「でも、細かく要望すれば、それに応えてくれるんでしょ?」
「細かく頼んだところで、あいつらの中で自動的に変換されて、結局もとに戻る。よりよい生活を送らせる、なんてことが念頭にあるわけだ」
「頭のいい人たちばかりなのに不思議」
心歌は楽しそうに言う。
「頭がいいからと言って、人の心がわかるわけじゃない」
まだ朝の早い時間だからなのか、あまり人通りは多くなかった。学生たちは夏休みに入っていることも、その要因の一つだ。それに彷徨が住んでいる場所は、もともとそんなに人通りがある方ではなかった。高級住宅街の頂点に立つような場所だ。そこに住む大人たちは、やたら高そうな車で移動をする。
その住宅街との分かれ目である道路を横断する。もう少し歩けば、商店街の方へと出ることができる。
「人の心の話だけど」
心歌が跳ねるようにして、彷徨の前に立った。
「あなたも人の心がわからないよね」
「わかってどうなる」
「そう答えるのは、自分が周りの人間と関係を断っていることを白状しているようなものだよ。やっぱり彷徨には出会いが必要ね」
「どういう理屈だ」
「まずはその強固な殻を捨てること。本当の自分を隠さないで、なんてことは言わない。だけど、あなたの持つその才能は押し隠しておくものじゃないと思う」
「誰に、なんの才能だって?」
「そうやって、誤魔化そうとする」
「誤魔化そうとしているなんて、よく言い切れるな」
「私は、あなたの心が読めるもの」
こうしている間も、二人は先へと進んでいく。心歌は相変わらず彷徨の前を歩いている。それも彼の方を向きながらだ。つまり、後ろ向きで歩き続けていた。まるで後方を確認することなく、歩く。どこから見ても、異様な光景だった。
「俺の心が読める? でたらめ言うな」
「でたらめなんかじゃない。私はあなたのことをよく知っている。だからこれは当然のこと」
「お前が俺のなにを知っているんだ」
「全部知っている、って言ったら?」
心歌の大きな瞳が彷徨を捉えていた。
しばらくの沈黙。
二人は歩みを止めない。
「わかった。降参だ」
彷徨が言う。思考を巡らせた結果だった。
「どうせこのまま続けていても、お前はすべてを語らないんだろう? だったらこんな会話は無意味だ」
「半分正解、半分間違い」
心歌はにこにこ笑っている。
「私がすべてを語らないのは正解だけど、この会話は無意味じゃない。いつか彷徨がこの会話を思い出したときに、芽を出す大事な種なの。あるいは蕾。時がくれば、見事に開花する」
「お前、両親はいないのか?」
「いないよ」心歌は即答した。
「そうか」
「理由を訊かないの?」
「別に興味ない。訊いたのは」
「話題を変えたかったから」
心歌が彷徨の言葉を引き継いだ。
「ああ」
「怖かったんだね、私が」
「お前は初めから怖い」
「思い出したんじゃないの、私が未来を見ることができるということを。それで見抜かれてしまったと思った。あながち全部知っているのはでたらめじゃない、とかね」
「怖いというか、最低だ」
「地に足が着けるね」
「そういや、着替えとか欲しいか?」
「うん? まあ、買ってもらえるのなら欲しいかな。別になくても困らないけれど、ただ清潔さが失われていくね」
「俺はよくわからないんだが、お前のその浴衣、サイズは合ってるのか?」
彷徨は指をさした。心歌の着ている浴衣は、丈が短いように思える。ぎりぎり膝下に届くか程度だ。そういうデザインだと言われてしまえば、それまでのどうでもいい疑問だった。
「さあ? 私にはわからない」
「好きとか言ってなかったか?」
「好きだからと言って、それに詳しいとは限らないんじゃない?」
そうこうしている内に、商店街の入り口まで辿り着いた。なぜかはわからないが、こちら側が入口である。それを示すように石碑が設置されている。これほど無駄なものはないだろうと、彷徨は常々思っていた。
すでに何軒かの店が営業を始めていた。もう七時くらいだろうか。
「なにを買うの?」
「食料」
「そうじゃなくて……、どんな食べ物を買うのかって訊いているんだよ」
「特に決めてない」
「あっ! もしかして、安かったものを買う感じ? なんだか主婦みたいだね、彷徨」
彷徨は、営業している店を順当に回っていった。商店街にはよく来ているので、店の人から陽気に挨拶をされ、少し世間話をして、商品を一つ二つ買っていく。心歌がその後ろを黙ってついてきたのが気持ち悪かった。もちろん彼女は目立っていた。誰もがその異様な姿に釘付けになる。特に足もとだろう。店の人から説明を求められたが、「気にしないでください」と彷徨は事務的に言った。
一時間ほどして、二人は出口まで辿り着いた。彷徨の手にはビニール袋が握られていて、いくつかの店のものが一つにまとめられていた。
この時間帯にもなると、人が増えてきていた。そして誰もが心歌に注目するのだった。彷徨にはそれが耐えきれず、足早に商店街から離れようとした。
「たくさん買ったね」
前を歩いていた心歌がくるりと回転して振り返った。不自然なバランス感覚である。
「もっとお惣菜とか買うと思っていたのに、意外にも食材ばかり。もしかして、料理できるの?」
「できない奴とかいるのかよ」
「私、できないよ?」
心歌は首を傾げながら、微笑む。
「やらないだけだろ」
「やる必要がなかったから、とも言えるね」
蝉の鳴き声が耳に飛び込んできた。なぜかはわからないが、ときどきまったくといって聞こえなくなるときがある。意識をしていなかったからとも考えられる。しかし、その騒音は意識をしなくとも、嫌でも聞こえてくるものだ。おそらくだが、人間と同じで、誰かが先んじて行動を起こさないと、身動きができなくなるのだろう。一匹目が鳴き始めなければ、それに続くものがおらず、結果として騒音は生まれない。肝心なのは、その一匹目なのだ。したがって、その一匹目がいなければ、騒音を聞かずに済むと言える。たしか小学生のときに考えたな、と彷徨は当時を思い出していた。
境目となる道路を渡り住宅街へと戻る。アスファルトが充分に温まっていて、さながら電子レンジの中にいるような気分にさせられた。上からも、下からも熱を強く感じる。
「彷徨の住む世界は、きっとあの商店街までなんだね」
心歌が横に並んだ。
「学校には行っているんだっけ?」
「たまにな」
「じゃあ、商店街、学校、家を頂点とした三角形の中で生きているんだ。その外側に出ることなんてないでしょう?」
言い返そうと思ったが、しかし父親の研究所は地理的にその三角形の中に含まれていているため、言葉がなかった。心歌の言っていることは、間違っていない。
「その外側に行けば、彷徨は変われる……、というより、自分を見つめ直せるのかな」
「お前は、なにを成そうとしているんだ」
「世界平和」
「冗談でも、面白くないな」
「世界が平和でありますように、って願ったことある?」
「ない」
「じゃあ、そう願う人はいると思う?」
「まあ、いるだろ、一人くらいは」
彷徨はそう言いながら、現在の世界人口を考え始めた。
たしか……、四十億はいなかったはずだ。
「どうして願うんだろうね」
「は?」
「世界平和」
「それはわかっている」
「なにがわからないの?」
「願うことに疑問を持っていることだ」
「不思議だと思わないの?」
「変だとは思う」
「うーん、あともう一歩だね」
一時間ほど前に水たまりで遊ぶ子供たちがいた場所は、子供たちも水たまりもなくなっていた。水たまりがなくなったために子供たちがいなくなったのか、子供たちがいなくなってから水たまりがなくなったのかはわからない。
家に辿り着き、玄関の扉を開く。鍵はかかっていない。施錠をする習慣が彷徨には欠けていた。
「そういえば、着替え買わなかったね」
彷徨が買い物袋を新品のテーブルに置いているときに、心歌が思い出したように言った。
「電話ならそこだ」
彷徨はキャビネットの上を指さした。
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