第5話 己の弱さを宣告する雨
急に降り始めた雨が、月宮の頬を掠めた。
雨を凌ぐ屋根もなく、また階層を分ける天井もない。空から落ちる雫は、直接建物内に侵入してきた。床では、剥き出しになったコンクリートや、敷き詰められていたタイルの色が次第に濃くなっていく。
急に、とは言ったものの、空を覆うほどの灰色の雲がその可能性を予期させていたために、月宮は驚かなかった。
しかし、驚きはしなかったものの、雨を意識してしまったために、充垣からの一撃を横腹にもらってしまった。一瞬の気の緩み、意識の途切れを充垣は見逃さなかったのだ。雨が降り出し、その一粒が頬に当たる。月宮が雨に気付く。たったそれだけの他者が気付くことのできないような一瞬を、充垣は捉えた。
歯を食い縛り、痛みを堪える。
瞼を閉じず、相手を見据える。
充垣は笑っていた。目一杯、横に伸ばされた口が少し開き、白い歯を覗かせている。月宮にとってそれは嬉しくないものだった。充垣が楽しそうな顔をするときは、たいていの場合、本気で殺しにくるときだけだ。しかもそれは月宮限定のことである。普段から、月宮のことを嫌っている彼は、隙さえあれば月宮を殺害しようと、排除しようと考えている。それが思考の段階で制御されているのは、先日のように監視役がいるときだけだ。そして今は二人ともいない。ちょうど雨が降り出す前に、別々にこの部屋から立ち去ったのだ。監視役がいなくなるという事態に、月宮は情けなくも、苦言を呈することしかできない。自力でどうにかなる相手ではない。低く見積もっても、月宮が充垣に勝る点など皆無だった。
ハルバードの刃が地面と平行となり、側面に雨粒が落ちた。半球状となった雫は、震えていなかった。まるで写真のような、切り取った一瞬の光景を見ているようである。
今度は柄ではなく、刃が腹部を腕もろとも狙っている。
月宮は次にくる攻撃がわかっていても動くことができなかった。直前に受けた腹部のダメージもそうだが、ハルバードの銀色の輝きを見ると身体が硬直してしまう。ナイフとは違った恐怖を感じる。いや、恐怖ではないのかもしれない。もしかすれば、その美しい造形をしたハルバードに魅せられているのかもしれない。
両手に持つナイフを握っている感触がなくなっている。強く握り締め過ぎているせいだろうか。逆手持ちに変更したいが無理なようだ。
見える「死」の恐怖を避けるために月宮がした行動は、こちらも相手を殺すつもりでナイフを振ることだった。恐怖で委縮した身体をバネのように反発させ、無理矢理動かしたのだ。
充垣は虚を突かれた表情を見せた。
ナイフが充垣の喉元に迫っていく。
ハルバードを振られる前に、決着をつける。
月宮の脳裡にはそれだけが残されていた。
だが、気付いたときには床から足が離れ、背中に激痛を感じた。視界の映像が変わっていく様に、思考が追いついていない。いまだになにが起きたのかわからなかった。
視界に映る充垣は、宙に浮いた(月宮は見なかったが、おそらく手放していたのだろう)ハルバードを掴んだ。天井が見えた。背中に激痛を感じたのは、どうやら投げられたかららしい。月宮の伸ばした腕は、充垣に掴まれ、次の瞬間には地から足は離れ、代わりに背が地に着いた。一本背負いの要領だったのだろう。
いつもの月宮ならば、その可能性を考慮して、無闇に充垣に先制を決めようとは思わなかったはずだった。相手の思考をトレースし、それに対して自分のできることを判断する。月宮はいつだってそうしてきた。いつだって死なないように努力してきた。
しかし今は違っていた。「死」を避けるために思考することを止めたが故に、「死」に近づいてしまったのだ。なんという皮肉だろう。しかしそれは別の言い方をすれば、回避できない「死」だった。決定されていた。ここで終わりだと、この先はないと。そう決定付けられていた。
思えば、監視役の二人がいなくなったことが、すでに始まりだったのかもしれない。あの時点から不可避の死の運命に囚われた。
風で雨が斜めに降っていた。直線的ではなく、揺れるように降っている。霧に近い。
手に持っていたナイフはなかった。指の腹が冷たいタイルに触れていた。
意識ははっきりしている。
呼吸はし辛かった。
背中には痛みが走っている。
死は、眼前まで近づいていた。
しかし、いつまで経っても意識は途切れなかった。そのときは来なかったのだ。
死は訪れなかった。近づいただけに終わっていた。
「そこまでだ」という声と、あるものが月宮の顔に落ちてきたのは同時だった。なにが落ちてきたのかはわからない。月宮の眼前には、ハルバードの刃がすぐそこまで迫っているところだった。数センチも離れていない。あと数瞬でも声が遅ければ、今頃月宮の頭は割られていたか、あるいはそれに近いなにかになっていただろう。
「目を離すとすぐにこれなんだから」
琴音の静かな声が響いた。
「目を離したアンタらが悪いだろ」
充垣はハルバードを月宮から離した。
「なんのための監視役だと思ってんだ」
「僕たちの仕事は、湊くんがきみに殺されないように監視することだ。湊くんは殺されていないだろう? だったら僕たちは仕事を果たしているね」
月宮の視界から充垣の姿が消える。咎波と琴音の方へと移動したのだろう。月宮は身体を起こそうと思ったが、背中に痛みが走るのと、力が入らないことで、それはできなかった。思ったよりも心身ともに受けたダメージが大きいようだ。仕方なく月宮は目を閉じ、しばらくの間、会話に耳をすませることにした。
「どっかで見ていたかのようなタイミングの良さだったな」
「監視役だからね」
咎波が言った。
「どこにいたんだよ」
「商店街の方かな。駅前の」
「監視してねーじゃねーか!」
月宮も充垣と同意見だった。このビルにいないどころではなかった。
「そうだね。してなかった」
咎波は淡々と告げる。
「僕も好きで監視を中断したわけじゃないよ。そうせざるを得なかっただけなんだ」
「なにがあったんだよ」
「琴音くんがね、お昼を食べてなかったらしくて、それで連れてかれたんだ」
「抵抗すればよかっただろ」
「ジャンケンで負けたんだ。彼女が勝てばお昼、僕が勝てば監視続行。決してフェアなものじゃなかったよ。僕がその条件を提示されたのは、終わったあとだったんだからね」
「それこそ、抵抗しろよ」
「きみは、僕が琴音くんに抵抗できる存在だと思っているのかい? だとすれば、それは勘違いだ。僕は彼女に勝てない。彼女に本気で脅されれば、従うしかないのさ」
おそらく、いや十中八九、この場で殺すと脅されたのだろう、と月宮は思った。勝敗について話しているのだから、それは充分に考えられる。咎波にとって問題なのはこの場所で殺されることではなく、殺される動機の方だろう。
そんなつまらないことで未来が潰えるなんて、堪ったものではない。
「それで咎波さんは、琴音の昼飯に付き合ったんだな」
「正確にいえば、奢らされたんだけどね」
会話に耳をすませていると、額に微弱の痛みを感じた。なにがあったのかと確認するために目を開くと、視界いっぱいに琴音の顔が映った。琴音の碧眼には、月宮の顔が映し出されている。それが確認できるほどに、距離は近かった。
「死んでるのかと思った」
琴音は目を離さずに言った。
「そうなる前に来てくれたんだろ?」
「『死』の形は様々。たとえ充垣に直接殺されなくても、『なにか』によって死んでいたかもしれない」
「なにかって」
月宮は訊く。
「なにかは、なにか。なんだっていい」
「そう……、だな」
体力が幾分か戻ってきたので、月宮は身体を起き上がらせた。それに合わせるように琴音は月宮から離れ、その様子を窺っていた。まず上半身を起き上がらせた。話しこんでいる充垣と咎波の姿が見えた。立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。回復した体力ではここまでが限界のようだった。
根こそぎ持っていかれたのか、と月宮は思った。ただの疲れではここまで酷い状態にはならない。それに月宮はほんの少し前、充垣と対峙していたときは、かなりの体力が残っていた。「死」の恐怖が、月宮の心を蹂躙したのだ。月宮が姫ノ宮学園で長月にしたように、充垣は月宮の心を折った。完膚なきまでに。
「大丈夫かい?」
咎波が月宮に気付いて尋ねた。咎波はいつものようにカッターシャツに、黒のスラックスだった。胸ポケットには煙草が入っているのが見える。月宮は彼が他の格好をしている姿を見たことがなかった。
「もう少し休めば、動けるようにはなる」
充垣は月宮を横目で見て、つまらなさそうに髪を掻いた。充垣にしてみれば、あの時間、あの瞬間は千載一遇のチャンスだったのだ。無理もない。なぜこんなにも自分が嫌われているのか、月宮は知らない。なにかが気に障るのだろうとは思うが、それを聞き出そうとすれば、それこそさらに嫌悪を助長することになる。しかし今回は少し彼らしくなかったような気もした。
その理由はわからないけれど。
「そうそう、染矢くん」
咎波は充垣を見た。
「僕が琴音くんに勝てないのと同様に、きみも琴音くんには勝てないよ」
「オレが咎波さんよりも強くないからか?」
「そういう見方もあるね。だけど相性の問題もあるだろう? 相性によっては力の差なんて関係ないんだ」
「相性が悪いってことを言いたいのでもないよな」
「うん」
咎波は頷く。
「これはね、相性以前の問題なんだ。ジャンケンが、グーは石、チョキはハサミ、パーは紙を表しているって話を知ってるかい?」
「それくらいは」
「仮にきみを石だとすれば、琴音くんはね、紙でもあってハサミでもあるんだよ。染矢くんと琴音くんは性質が違うからね。同じということはありえない」
雨が少し強まってきて、月宮の身体を冷やしていく。今は心地いいが、次第に肌寒さを感じることになる。冷え切る前には、屋根のある場所へ移動したいところだった。
ちらりと琴音の様子を見ると、二人の話を聞いている様子はなく、空を見上げていた。月宮も空を見上げてみる。どんよりとした暗い灰色の雲が、空いっぱいに敷き詰められていた。
「なんだよ」
充垣はつまらなさそうに呟く。
「琴音が器用ってだけの話かよ。要は臨機応変が効くってことだろ?」
「それもある」
咎波は胸ポケットから煙草とライターを取り出し、火をつけた。
「琴音くんにはね、常識が通用しないんだよ。常軌を逸している。チョキでグーに勝つし、チョキにパーで勝つ。それが彼女なんだよ。次元が違うのかな。同じ場所にいて、同じ人間だけれど、本当はまったく別の場所にいるし、まったく別の生物だ」
琴音のことを一瞥し、それから続ける。
「これは一般人からすれば、魔術師が別の生き物に見えるのと同じ原理だ。彼女にとって、僕たちは一般人だ。僕たちを殺すことなんて、赤子の手を捻るよりも簡単だろうね。今、僕たちが生きていられるのは、彼女にその意思がないだけだ。僕たちを意識、認識していないから。彼女がもし、それこそ染矢くんが湊くんを嫌悪するように、僕たちのことを認識すれば、僕たちに明日はないのは確実だよ。なにをされたのかもわからずに、僕たちは死ぬ」
「咎波さんの言うことはわかった。だけどそれがどうしたっていうんだ。なんで今そんな話をするんだよ」
月宮は琴音の様子を気にしつつも、二人の様子も見ていた。咎波にしては饒舌である。彼は口数の多い方の人間ではない。ましてや自分から話を切り出すということは珍しいのだ。
手の位置を動かしたとき、不思議な感触があった。掌になにかが触れている感触。床ではない。欠けたタイルとも違う。不思議に思い、そっと手を退けてみる。
「僕が言いたいのは、彼女の気まぐれで、僕たちはいつだって死ぬ可能性があるってことだよ。現にきみは、今さっき死んでいたかもしれない」
「どういうことだよ」
「きみは、なにをされたのか気付いていないだろう?」
「だから……」
「それが琴音くんと染矢くんの力量の差だよ」
月宮は目に映ったものを、手に取って眺めてみる。それはこのビルにもともとあったものではない。新品のようである。そして、誰の持ちものなのかに気付いた。あのとき顔に落ちてきたのは、さっきの額の痛みの原因は「これ」だ。
「いいかい、染矢くん」
咎波は納得のいかない顔をしている充垣に言う。
「きみが月宮くんに対する攻撃をやめたのは、僕の声を聞いたからじゃない」
「はぁ?」
「僕が声を出す前には、きみはその手を止めていたんだよ。攻撃を受けたから、動きを止めた。まあ一瞬のこと、それ以下のことだったから気付かなくて当然なんだけどね」
「攻撃を受けた? なんの冗談だよ」
「認識をできなかった。だから理解もできない。気付けないでいるのもそのせいだ」
咎波は月宮の方を向く。
「湊くんは気付いたんじゃないかい?」
「ああ。いや、でも俺も認識できなかったみたいだ。あのとき、たしかに『これ』を視界に入れていたのに」
月宮は手を開いて前に出した。
「輪ゴムか、それ」
充垣は言った。
月宮の手に載っているのは、三本の輪ゴムだった。この場所に不釣り合いなほど、新品同然の色をしている。
「染矢くんも湊くんも気付かなかったけど、琴音くんは輪ゴムを撃ったんだよ――染矢くんの額にね」
咎波は煙草を咥え、右手の人差し指で額をつつきながらそう言った。充垣は額を触った。
「直撃したはずのきみは気付かず、湊くんはそれを見ていたはずで、勢いがなくなり床へと落ちていくその姿を認識できなかった。わかるかい、この理不尽なまでの力の差が」
これには充垣も口を開くことはしなかった。
一方、琴音といえば、相変わらず空を仰いだままだ。降り注ぐ雨にも、お構いなしである。あの碧色の瞳には灰色の空が映っているのだろうか、と月宮は疑問に思った。なにか別のものを映し出しているのではないか。琴音はなにを思って事務所にいるのだろう。ここでしかできないことなんてない。彼女ほどの技術と力量があれば、世界を渡り歩くのは容易だ。咎波の人を見る目は、信用できる。見誤ることはないはずだ。
しかし、いくら考えたところで、疑問が解決するはずがなかった。月宮が思考を巡らせても、それは想像で、推測の域を出ることはない。
雨に濡れた前髪を掻きあげた。
そろそろ体力が戻ってもいい時間である。
「咎波さんはどうしても琴音を化物扱いしたいみたいだな」
「僕は、自分の思っていることをそのまま言っているだけだよ」
「それが琴音を傷つけるとは思わないのか?」
「思わない。この程度で傷つくようであれば、彼女はすでに死んでいるよ。琴音くんはそんなレッテルが貼られることもわかっていて、今の域に達しているはずだからね。僕がなにを言おうと、誰がなにを言おうと傷つくことはないのさ」
「俺にしてみれば、咎波さんも充分に化物だけどな」
「それは気のせいだよ。僕という人間は脆い」
「それが嘘くせーんだよな」
「そう、装飾もまた武器の一つだ。僕は『そう思わせる』ことで闘いを避けているんだ」
月宮の中で、なにかに思い至ろうとしていた。
装飾。
そう思わせる。
問題に対し、答えが導き出されようとした。
もう少し……。
あとほんの少し先へ行けば、答えを掴むことができる。
答えはなにか。
問題はなにか。
疑問。
なにが気になる?
なにかが気になる。
些細なことか?
些細なことじゃない。
光は徐々に小さくなっていく。
答えが遠のいていく。
そこに到達するためには、まだなにかが足りない。
時間か。
経験か。
それとも……。
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