第4話 乱れ揺れる己の在り方

「なんだか曇り始めたね」


 そう言われて空を眺めてみれば、そこに青空はなく、灰色の雲が毛の高い絨毯のように広がっていた。学校へ来るときに鬱陶しいと思っていた日差しも、その影に隠れてしまっている。


 教室内は暗すぎると言うほどではないが、決して明るいとも言えなかった。一番明るいのはもちろん窓際である。そして如月たちがいるのはそこだ。長月は教室の暗さを気にし、「電気をつけてきます」と言って立ち上がった。


 今日もまた秋雨美空のための勉強会である。昨日と異なる点といえば、今が午後であることだろう。今日は昼食を持参しての登校だった。打ち合わせなどしていなかったのだが、如月が思い立ち三人分の昼食を買ってきたところ、秋雨もまた同じように三人分の昼食を持ってきていた。三人分と言っても、女子三人分であるため量は多くなく、時間をかけることで食べ切ることができた。一番の功労者は如月だ。続いて長月。秋雨は小食であるためにあまり食べることはできなかった。


 次からはこのようなことが起きないようにと三人はメールアドレスを交換した。これまでにしていなかったのが不思議なくらいだ。日神のアドレスも教えておこうと思ったが、秋雨はすでに知っていた。病院で再会したときに交換したらしい。


 如月と長月のアドレス帳に姫ノ宮学園関係者以外の者のアドレスが登録されるのは、これで三人目である。一人目は月宮、二人目は愛栖だ。以前、月宮に使用した携帯電話は使い捨てだったために、彼は登録していた如月の電話番号を消していた。


 アドレス帳には、もう使われることのないものが、いまだに残っている。我ながら女々しいと思うものの、彼女たちの存在を忘れたくなかったからだ。


 記憶を忘れまいとしても、どうしても脳がその役割を果たしてしまう。不要な記憶の選択、削除。実際には完全に消去しているわけでなく、いくつもある記憶の箱の一つに入れ、鍵をかけ、奥の方へとしまい込むのだ。箱は無造作に積み重ねられ、他の箱と区別することはできない。月日が経てば経つほど、判別は不可能になっていく。記憶とはそういうもの。そうしないためにもその箱を開けたままにしておくか、開くための鍵を常に持っているかが大事なのである。


 如月の場合、彼女たちとの過ごした日々が箱に入れられ、開く鍵となるのがアドレス帳に記載されている彼女たちの名前なのだ。名前を見るたびに顔を思い出し、それに繋がる日々(エピソード)を巡らせる。


 たしかに彼女たちは世界を恐怖に陥れる現象を崇拝して、その復活のために命を捧げることに喜びさえ感じていた狂信者と呼ばれる者たちであった。日神のことも道具にしか見えていなかったのかもしれない。しかし、それでも日神が「家族」と呼ぶのなら、如月がどのような気持ちを抱こうとも彼女たちは如月の家族でもあるのだ。忘れるわけにはいかない。如月にとって、初めての家族だったのだから。


 両親の顔など知らない。気付いたときには独りだった。


 秋雨にはきちんと両親がいるらしい。あまり会話には出てこないが、日神が一度そのことに触れたことがあった。どんな親なのか、そう訊いた日神に、優しい普通の親と答えていたことも憶えている。ただそのとき秋雨が珍しく哀しい表情で、「少し迷惑をかけちゃったんだけどね……」と呟いていたのが印象的だった。


 スイッチを押した音が静かな教室に響き、蛍光灯が一気に光を灯した。少し明るすぎるようだったが、暗すぎるよりはいい。


 外の様子を見ると、雲の動きが速かった。なにかに引っ張られているかのようだった。


「雨、降るかな?」


 秋雨が誰にでもなく言った。


「降らないんじゃないかな」


 如月は空気の匂いから、そう答えた。


「降っても小降りじゃない? 気持ちいいと思うよ」


「でも、制服が濡れちゃうのはちょっとね」


「そう?」


 如月たちの制服は、いまだに姫ノ宮学園のものだ。姫ノ宮学園が経営していると周囲に思い込ませる効果があるからだ。天野川高校の制服を着て通いたいと思っているが、そこまで望むわけにはいかない。普通の学校に通えるだけで充分幸せなのだから。


「どうしますか? 今日はこの辺りにしても構いませんよ」


 長月が戻ってきて言った。


「あと二日ですが、今日で範囲の分は一通り終わりましたし、秋雨が望むのなら帰りましょう」


 秋雨はノートに目を落とし考えている。秋雨自身のことではなく、如月たちのことを考えているのだろうか。二人がどうしたいと思っているか、迷惑ではないかなど必要ないことを脳内で巡らせているのだ。彼女なら充分に考えられる。自分の都合より相手の都合を優先してしまう。それがいいことだとは如月には思えないが。


「もうちょっとだけ。いいかな?」


「ええ。構いません」


 如月も同意を示すように笑みを浮かべた。


 外から吹き込む風は、夏のそれとは思えないくらい冷たいものだった。秋雨の抱いた懸念の方が正しいのかもしれない。如月も根拠がなかったわけじゃなかった。経験から空気の匂いで、天候は予測することができる。如月の特技の一つだ。幼少の頃は雨風をしのげるような場所には住んでいなかった。そのため、そういった野生的な技術を身に付ける必要があったのだ。


 感覚が鈍くなっているのかもしれない。それらの技術を必要とする場所を離れたために、いつの間にか衰えてしまったのだろう。たった数週間とはいえ、自分たちの望んだ場所に辿りつけたという幸せが、短い時間を途方もない時間へと変化させ、身体から不必要なものを一気に消失させた。


 これでよかったのかもしれない、と如月は思う。長月や自分には不要な技術を忘れ去る時間が必要なのだ。得意な分野で仕事を見つけていれば、やはり「あの頃」に戻ってしまうだろうし、その疑惑を現実にしてしまえば、もうこの場所にはいられない。完全に衰えさせなければならない。ここの環境に必要なものだけを残し、それ以外を切り捨てる。


 この幸せな時間を失わないためにも。


 だけど、もし彼が自分を必要と、これまでの自分を必要としてくれるのなら――。


 ふと、視界になにかが映り、如月は外を見た。雨が降り出したようだ。


「あちゃー、降ってきちゃったね」


「ホントだ」


 秋雨がノートから、外へと視線を移した。


「如月ちゃんが言った通り、小降りだね」


「これから強くなることも考えられます。もう帰りましょうか」


 昨日と同様に窓の戸締りは確かめたが、教室に施錠はしなかった。愛栖が、使用予定があるから鍵は閉じなくていいと言ったためだ。これからこの教室がなにに使われるのか定かではない。防犯のことが脳裏を過ぎったが、この時期にまさか盗難が発生するはずもないだろう。しかしそれでも、鍵を教室に置いていくというのは抵抗があった。こんなことが許されていいのだろうか。


 如月は疑念を抱いていたが、この高校に一年以上通っている秋雨はなんの疑問も抱かないようで(秋雨の性格なら、文句の一つでも言いそうだ)、長月と楽しそうに会話をしている。もっとも、長月の方は無表情で、感情を読みとるのは難しい。


「鍵かけなくて本当によかったのかな」


 如月は階段を下っているときに、それとなく訊いた。


「大丈夫だよ」


 秋雨は答える。


「先生はいつもあんな調子だからだらしないように見えるけど、凄く真面目な人なんだよ」


「真面目ねぇ……」


「あ、その顔は信じてないでしょ」


「信じようというのが無理なような気がします」


 長月が言う。


「普段の姿は知っていますが、少なくとも私たちには月宮湊から聞いた情報がありますから」


「月宮くんから?」


「ええ。それはもう壮絶な話を……」


「筆舌にし難いよね」


 如月は笑った。


「なに言われたのか気になる」


「私の口からはとてもじゃないですが言えません」


「右に同じ」


 本当は、そんなに大げさなことは言われていない。たしかに月宮は愛栖の短所を事細かに話したが、それ以上に長所についても話していた。それだけで彼が愛栖愛子のことをどれだけ信頼しているかが把握できた。


 そして愛栖もまた、月宮にそれなりの信頼を置いている。月宮が生徒だからなのか、事務所員であるからなのか、それとも一人の人間としてなのかまでは、さすがにわからない。愛栖の方が自分の内を隠すのが上手いようだ。しかしあれを隠していると言うべきなのかは判然としない。隠すのとは少し違っているように、如月には思えた。


 秋雨が二人を交互に見て、小さく溜息をした。


「どうしたの?」


「二人とも、月宮くんから嘘を教えられたんだよ。ホントに月宮くんは……」


 秋雨と月宮の過ごしてきた時間を、如月は知らない。当然である。だから秋雨がこれまでに彼に言われた嘘の数々を知らなかった。秋雨の様子から察するに、ことある度にそれとなく嘘を交えているのだろう。そして秋雨はその度に、その嘘を信じ込む。その後、数日かそれ以上経ったところで嘘であったことを明かされ、不満をもらす秋雨の姿が目に浮かぶようだ。嘘吐きと正直者。全く正反対の二人。


 考えてみれば、二人の出会いを聞いたことはなかった。訊きたいと思える話題なはずなのに、不思議とそのことを聞いていない。機会がなかった――そんなはずはない。いつだって訊ける機会はあった。月宮が話題に上がれば、その流れを作っていたのも同然だ。


 しかし、如月がそれを訊ねることはなかった。


 それはなぜか。


 わからない。


 その思考へと辿り着かせないために、心がその話題を避けているのかもしれない。二人の原点には、他者を介入させないなにかがある。長月が言っていた「事情」を明らかにできるのも、そこなのかもしれない。


 まさかね、と如月は思考を切り替えた。考えることにのめり込んでしまうのは、この場にいる二人に失礼だ。如月は「秋雨と月宮の始まり」と名をつけた記憶の箱を片付けた。名前をつけたと言っても、印をつけたわけじゃない。忘れないように他と区別しておこうと思っただけだ。いつでも取り出せるように、箱を開ける鍵は「秋雨と月宮」だ。


 そんなことを思いつつ、如月はずれていた眼鏡の位置を直した。


 二人に失礼だと思いながらも、思考をやめない。


 たぶんこの癖は治らないのだろう。治らないどころか悪化する一方である。思考の切り替え方が雑になっていきているようだ。


 いや、これは悪化ではないのかもしれない。


 一般人へとなってきているとも考えられる。


 最近考えることはそればかりだ。まだ環境に慣れていないのだろう。平気を装っていても、心の揺らぎは自分の中にたしかに存在している。


 変化を望む自分と、望まない自分がせめぎ合っているのだ。


「秋雨は、本当に月宮湊のことをよく知っていますね」


 長月が表情を変えずに言った。もちろん如月のようにからかって言っているわけではない。


「そんなことないよ」


 右手を顔の前で大きく振る秋雨。動揺していることがまるわかりだ。


「少なくとも、私たちよりは知っているでしょう?」


「だってそれは、長月ちゃんたちがこの間こっちに来たばかりだからだもん。比べるのはおかしいよ」


 一階に辿り着き、昇降口までの長い廊下を歩く。ひっそりとした静けさの廊下には、三人の足音だけが響いた。外が雨のせいで薄暗く、少し不気味な雰囲気を醸し出している。雨はまだ弱いままだ。


「それもそうですね。では、秋雨と愛栖では、どちらの方が月宮湊との付き合いが長いのですか? 月宮湊がよく親しくしているのは、秋雨と愛栖ですからね」


「先生じゃないかな。お仕事の話とか。所長さんの代わりに月宮くんに伝えてるし。私は月宮くんがなにをしてるのか詳しく知らないんだよね。少しは話してくれるんだけど、それだけなんだ」


「知りたいとは思わないのですか?」


「思うよ。だけど、月宮くんが話そうとしないことを無理に訊こうとは思わないよ。誰だって隠していることを知られるのは嫌でしょ?」


「それでいいのですか?」


「うん。それでいい――それがいいの」


 その言葉のあとに続くものはなかったが、もし続けるとしたなら、「私たちにとって」だったのだろうか。それとも「月宮くんにとって」、あるいは「私にとって」だったのだろうか。どれも考えられることだったが、所詮は妄想に過ぎない。答えなどなく、あったところで真の解答を得ることは叶わないだろう。


「あっきーはいい子なんだね。好きになっちゃいそうだよ」


 如月の言っている意味がわからないのか、秋雨は首を小さく傾げた。


「私は、如月ちゃんのこと好きだよ? もちろん長月ちゃんも日神ちゃんも」


「……そういうことじゃないんですよ」


 長月がずれを修正しようとする。


「どういうこと?」


「いっちゃんの役目はそうじゃないでしょ。ここはあっきーに冗談ですから気にしないでくださいとか、言うところじゃん。なんで、その役目を放棄するかなぁ」


「トモの冗談は、秋雨には高度すぎますからね。そう言ったところで、追及されるのがオチです。後始末は自分でお願いしますよ」


「結局どういうことなの?」


「私とあっきーの戦績が一勝一敗ってことだよ」


 如月は意味のないことを言った。このまま存分に困惑してもらって、諦めてもらおうという魂胆だ。その甲斐あってか、秋雨は難しい顔をして考え込んでいた。


 昇降口に着き、それぞれが靴箱から外履きを取り出し、履き替える。秋雨は背伸びをしないと自分の靴箱に届かない。いつ見てもその光景は微笑ましかった。如月たちの靴箱の位置は低かったので、そういう心配はいらない。これは如月に限っての話だ。


 扉を開け外に出ると、雨が強くなっていた。傘を差さないで帰宅できないこともないが、全身がずぶ濡れになってしまうだろう。雨が弱くなるのを待ってもよかったが、弱くならずに強くなる可能性もある。今が帰り時なのかもしれない。


 そんなとき、正門の方から歩いてくる影があった。


 日神ハルだ。


 その右手で傘を差し、左手には傘を二本持っていた。すべてビニール傘である。如月たちのことに気付いたのか、左手を少し挙げ、微かに振った。今日は午前シフトだと言っていたことを、如月は思い出した。


「タイミング良かったみたいね」


「うん。ナイスだよ」


 傘を受け取りながら、如月は答える。


「でも、一本足らないね」


「そう?」


 日神は指差しながら言う。


「私で一本、秋雨さんで一本、イチジクとトモで一本。合計三本。丁度じゃない」


「あれ? もしかして私、子供扱いされてない?」


「してないしてない」


 日神は笑顔で言った。


「私、途中までで入れてもらえればいいよ」


 秋雨が如月に傘を差しだした。


「気にしないで。秋雨さんが風邪引いたら大変だもの」


「そうですね」


 長月が同意する。


「そうそう。あっきーは万全の体調で追試に臨まないと」


 結局、秋雨は最後まで渋ったのだが、三人に押し切られて傘を借りることにした。


 日神が長月に渡したビニール傘は他のよりもサイズが大きく、如月が入っても少しゆとりがあった。持ち手に馴染みのスーパーのテープが貼られている。学校へ来る前に買ったのだろう。


 四人が固まって道を歩くのは他の通行者の迷惑になると思ったが、雨天ということもあって如月たち以外の通行者はほとんどいなかった。ときおり、車道を挟んだ反対側の歩道に鞄を頭の上に掲げているスーツ姿の人が走っているくらいだ。ぱしゃぱしゃと景気よく水の跳ねる音がした。


 如月は日神と話している秋雨を見た。自分と変わらない身長。自分と日神が話しているのを客観的に見ると、こう見えるのかと思った。


 秋雨の追試まであと二日。


 月宮は一度も彼女の勉強を見ていない。


 いったい彼はなにをしているのだろう。


 彼は秋雨にどんな感情を抱いているのだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます