第3話 平穏を乱す歪み

 深夜、月宮が帰宅すると、そこには愛栖の姿があった。電気が点いていたために驚きはしなかったものの、愛栖が月宮の部屋にいるという事実に嫌気が差した。彼女がここを――しかも深夜に訪れるということは、事務所関連のことだ。依頼の仕事ではなく、おそらくは命令の類を持ってきたのだろう。


「よう」と月宮の姿を確認した愛栖は片手で挨拶をした。彼女はスーツの上着を脱いでおり、自分の家にいるかのような振る舞いである。テーブルの上には開けられた酒の缶が見えた。


「お前、プライバシーとか考えたことあるのか?」


「ないな」


 愛栖は言う。


「お前に限ってだが――あってないようなものだろ、そんなものは」


「鍵は?」と訊こうとした月宮を先回りするかのように、愛栖は紐に通された鍵を、指で回して見せた。


「こっちがマスターキーな。お前の持っている方が合い鍵だ。ま、どっちがどっちでも変わらないけどな。ここの扉を開けるだけなら、どちらでもいいわけだし」


 月宮は自分が立っていたままだということを思い出し、ベッドに腰掛けた。


 酒の臭いもそうだが、煙草の臭いも部屋に充満していた。ベッドから下りないまま身体を伸ばし、解錠した窓を開けた。そのときちょうど風が吹き、部屋に籠っていた臭いを洗い流していく。換気をするのには手間取らずに済んだ。


 ベッドに座り直すと、右手側にいる愛栖を見た。足を伸ばし、完全にくつろいでいる。傍にはビニール袋があり、中につまみなどが入っているようだ。


「クーラーも点けず、窓も開けないでよく平気だな。暑くないのか?」


「冷えた酒が美味くなる」


「生徒の部屋で酒を飲むことに躊躇いを持てよ」


「今の私はお前の担任教師ではなく、事務所の先輩として来ているからな。そういった道徳的な感性は持ち合わせていない」


 そう言って、愛栖は酒に口をつけた。


 正直に言えば、今は帰って欲しかった。今日もまた充垣と手合わせをして、体中に傷を作り、疲弊していた。できることなら今すぐにでも眠りにつきたいし、その気が残されていればその前にシャワーを浴びておきたいと思っている。


 月宮は叶わぬ願望に、深い溜息を吐いた。たとえ月宮の心情を話したところで、愛栖が素直に帰宅してくれるとは思えない。それに事務所――おそらくアリスが月宮の行動を把握している上で、このタイミングに命令を告げるように言っている。最悪の状況下で最悪の命令が下ってこそ、月宮の罰に最高の効果をもたらすのだ。精神的にも、身体的にも重くのしかかる。


「それでどんな処罰が――命令が下るんだ?」


「魔術師」と愛栖が言ったところで、月宮に強烈な嫌気が差した。カーテンを勢いよく開け放ち、それによって差しこまれる膨大な光のように、彼の心を一気に塗り潰した。それに気付いた愛栖は、「まだ話し始めてもいないぞ」と言った。


「その単語だけで充分だ。ホントに嫌なところをついてくるよな、あいつは――あの姉妹は」


「ま、所員のことをよく見てるってことだ」


 そうだろうか、と疑問に思ったが、口にはせず胸に留めておいた。あの姉妹が人を人として見ているとは思えなかった。特にアリスは。


「お前がやるのは、この街に訪れるであろう魔術師の撃退なんだが……」


 愛栖は途中で口を閉ざした。言うべきことを言うだけのはずだ。


「どうした?」


 月宮は訊いた。


「いや、まあ、そうだな」


 愛栖は決心したかのように頷いた。


「お前、事務所のことはどのくらい知ってるんだ?」


「なんだ、唐突に」


 月宮は答える。


「簡単に言えば、便利屋。この街のことだけでなく、《裏の世界》のことも扱ってる――」


「それはあくまで建前だ。そうやって世界に根を広げ、その様子を窺っている。依頼を受けているのは、『そのとき』が訪れた場合に備え、戦力を底上げしようとしているからだ」


「『そのとき』?」


「戦争だよ」


 愛栖はつまらなさそうに言った。しかし内心にわく憤りが感じ取れた。


「人間ってのはどうしても争いを止めない。力を持てば持つほど、技術が進歩すればするほど、それは見えないながらも、そこへ行きつこうと進んでいく。ぶっちゃけて言うと、アイリスはそれを阻止しようとしているんだ」


「どうやって」


「世界のバランスを整えるんだよ。《表》、《裏》、そして《狭間》の三つの世界のバランス、つまりは力の均衡を維持し続ける。そうすれば戦争は起こらない」


「現状の維持か」


 アイリスの目的は、国と国同士の戦争を止めることではなく、世界と世界の戦争――すべての生命体、有機物と無機物、魂や心、そういったこの星に存在するものすべてを巻き込む戦争を起こすまいとしているのだ。科学、魔術、異能力。人間の持つすべての技術のぶつかり合い。


 三つの人間界のことは、月宮はよく知っている。《狭間》に住む人間で、他の世界に関わっているからこそ、その力の差が目に見えていた。世界を見ない《表》、世界を尊ぶ《裏》、世界を安定させる《狭間》。それぞれ性質が違うため仕方ないのだが、いざ戦争が始まるとなれば、簡単に構図ができ、力なき者は切り捨てられるだろう。切り捨てるしかない状況に置かれる。


 拮抗状態として世界が成り立っていると言っても過言ではない。魔術師の中には、自分たちが《裏》であることを覆そうと、世界を裏返そうとしている者もいる。そういった者が動かないのは、魔術師も能力者もいる《狭間》が抑止力となっているからだろう。


「現状の維持はできない」


「どうして」


「ここで命令の話に戻るんだが、おそらく、お前が相手をする魔術師は、今の崩れかかっている世界のバランスに気付いている」


「崩れかかっているだって?」


 月宮は一瞬の内に思考を巡らせ、答えを導き出した。自分でも嫌になるほどの速さだった。


「俺のせいか」


「先日の姫ノ宮学園において、二つの大きな力が発生した。一つは三千人以上もの魂を対価にした魔法になり損ねた魔術。もう一つは、存在を魔法に近づけた人間を捨てかけた者。わかっていると思うが、魔法は神の力とされている。それが二つ――その影響力はわかるな?」


「それくらいはわかる。だけど、姫ノ宮はこの街にあったものだろ? 力の均衡は変わらないんじゃないか?」


「抑止力が大きくなることは悪くないことだ。抑止力のまま働けばの話だが。それを除けば、お前の言っていることは正しい。この街は言わば、壁のような役割だ。二つの世界の間に存在し、接触することを防ぎ、どちらの世界をも見ることができる。その壁が分厚くなることは問題ない。しかし、姫ノ宮の場合、場所が悪かった」


「場所?」


「場所というよりは立ち位置。あの組織はこの街にありながらも、《裏》に近い場所にあった。グレーゾーンでもより黒に近かったってことだ」


「だから《狭間》のことだとしても、ここで魔術師による世界の均衡を揺るがす『なにか』があれば、それは《裏》の力として加算されるってことか」


「そういうことだ」


 愛栖は頷き、缶を振った。中にまだ少し酒が入っているようで、その音が月宮にまで聞こえた。


「そしてその魔術師が利用するのが、あの学園に渦のように存在しているもの――ま、歪みとでも言っておこうか。その歪みは小さく、ほとんどの魔術師でさえ気付けないレベルだが、簡単に世界をひっくり返すことのできるものだ」


「その歪みを俺の能力(ちから)でどうにかできないのか?」


 月宮の能力は、この街に存在する能力者たちのものとは大きく異なっている。能力は先天的かつ発生に予測ができないものであるが、月宮の能力は後天的なものであり、しかもその能力を得るキッカケとなったのが神との遭遇なのだから、その異常さが際立っている。


 それだけでも充分に隠蔽すべきことなのだが、それに拍車をかけるように月宮の能力には続きがあった。


 能力とはいまだ解明の終わらないもので、その出現理由、持つ者と待たざる者の違いはなにかなど不明な点が数多く存在する。その中で、研究者たちが可能性としての一つの法則に、能力は一人に一つだけ宿るのではないか、と結論付けた。今までに能力を二つ所持する者が現れないために、法則としては正しいものとされた。

しかし、月宮はそうではなかった。


 破壊と創造――それが、月宮が魂を対価に得ることできる能力(ちから)。


 破壊と創造、そして再生と維持は、神の持つ絶対的な力とされている。完全に扱うことはできず、力の制限などがあるものの、その内の二つを月宮は使用できる。制限などはあるが、その効果、威力は絶大で、汎用性は高い。


 神に与えられたという異例がさらなる異例を生み出したために、法則の例外とされるが、しかし「能力」というものが完全に明らかになっていないのであれば、二つの能力という例外も可能性として存在できるのではないか。


 そのような推論や疑問を生み出してしまうが故に、隠さなければならなかった。あるいは「破壊と創造」で一つと常軌を逸した解答へと辿り着くしかないのだ。


 この能力のことを知っている者は多くはない。身近だと事務所の人間や如月、長月は知っている。そして、水無月ジュンと星咲夜空もまたこの事実を受け入れていた。ただし魂の対価で得られるということは、アイリスとアリス、愛栖の三人だけの極秘事項である。


「やめておいた方がいいだろう。歪みを破壊したことで、さらに新たな歪みが発生するかもしれないし、歪みだけを破壊できなかったときのリスクが大き過ぎる」


 それにこの間のこともあるし、と愛栖は付け加えた。


 月宮は姫ノ宮学園の件に関わったときに、魂の器としての身体の限界を超えてしまっている。限界量を超える神の力をその身に秘めたことにより、器が内側から破壊されかけたのだ。普段、能力を使う際にですら、その身に宿せる時間に制限があるというのだから、その能力が月宮の身にどんなに悪影響を与えているのかがよくわかる。それでも月宮がその力を手放さないのは、貫き通さなければならない信念と守るべき約束があるからだった。


「……そうだな」


 月宮は自分の右手に目を向けた。見ているのは掌などではなく、魂の器としての自分だ。


「だとするとどうなるんだ? 俺が魔術師を倒せたとして、そこに歪みは残ったままだろ」


「歪みが残ろうと、そこが完全に《狭間》の支配にあることを示せれば充分だ。黒に近いグレーでなくせればいいわけだからな。ま、その辺の概念はアイリスみたいな高等な魔術師でなければ理解できないだろうよ。自分で言うのもあれだが、この説明がお前にきちんと伝わるとは思ってないからな」


「いや、なんとなく状況は掴めた」


「そうか、ならいいんだ」


 愛栖はビニール袋の中から、新たな酒を取り出した。そしてプルタブを引いた。


「そういや、お隣さんと会ったぞ」


 突然の話題の切り替えに、月宮の思考は少し置き去りにされた。月宮も秋雨相手にはよくやる芸当なのだが、前の話題が話題だったために考えを巡らせていて、どうしても反応が遅れてしまう。月宮は慌てず、スイッチを切り替えた。


「なにか話したか?」


 訊くまでもないことを、月宮はあえて訊いた。


「私は二言、三言。向こうはひっきりなしに、訊いてもないことを根掘り葉掘り話してくれたよ。特に最近のお前の素行について心配しているようだったぞ」


「気付かれないようにしてたんだけど、あの人には隠し通せないみたいだな」


「『本当なら叱ってやりたいし、介抱もしてやりたいけど、月宮が隠そうとするのなら、気付いていない振りをするしかない』だってよ。愛されてんな、お前」


「世話好きなだけだろ」


 月宮は嬉しさを隠すように言った。


「お前の周りにいる大人はみんないい奴でよかったな」


「それにはお前も含まれてるのか?」


「当然だろ。いい奴に見えないか、私」


 愛栖はくつくつと笑う。やけに上機嫌だ。


 そんな会話を続けていく内に、夜が更けていった。暗く澄んだ闇が徐々に薄れていき、光がゆっくりと浸食を始める。開け放れた窓からは、朝の香りが漂ってきた。


 幸いだったのが、その日の出勤は午後からであったことだ。これでもし午前からであったのなら、月宮は普段通りに過ごせなかっただろう。思考が鈍り、動きも散漫になる。足手まといにしかならない。


 愛栖は一晩飲み明かしたが、頬がほんのりと染まる程度で、呂律が回らなくなるようなことはなかった。酔い難い体質とは聞いていたものの、ここまでとは思いもよらなかった。


 ビニール袋に入っていたのは、たしかにつまみや酒であったが、その大きさから察するに量は多くないと考えていたが、愛栖はその中身をすべて消費すると、冷蔵庫から酒類を取り出してきた。もちろん、月宮のものではない。つまり、月宮の見ていたビニール袋は、愛栖が持ってきた内の一つだけということだ。あとでゴミ箱の中を覗いてみれば、同じビニール袋が二つ出てきた。


 愛栖がいつもの調子で帰っていったあと(ゴミはそのままだ)、月宮は睡眠をとるためにベッドに仰向けになった。それだけでほどよくまどろみ始めた。


 完全に眠ってしまう前に、愛栖との会話を整理していく。


 秋雨の追試は三日後、今となっては二日後で、如月たちのおかげでなんとか乗り越えられそうだということ。


 追試を受けないためにあれだけ嫌いな勉強をしたというのに、テスト範囲自体を間違えてしまったのだから、運がないというべきか、余裕がなさすぎた。秋雨はそんなに切羽詰まっていたのだろうか。前回はもう少し余裕があったように見えたのだが、今回は期末試験であるために事情が違ったのかもしれない。迫りくる夏休みに浮かれていた――充分に考えられることだ。


 日常から仕事へと思考を切り替える。


 愛栖がアリスに言われたこと。


『失敗したときは、姫ノ宮の生き残りを始末する』


『姫ノ宮の生き残りは必ず同行させること。了承を得られるのなら事務所員も連れて行っていくことも許す』


 本当に月宮の心中を察しているかのように、命令を下している。姫ノ宮の生き残りを手放すことがないことも、討伐に彼女たちを使わないこともわかっていてのことだ。


 気付いているのだろう、月宮が必要以上に彼女たちを過保護にしていることを。その理由が不明瞭であっても、それが月宮を動かす理由となるのなら関係ないのだ。


 どんなことがあろうと、どんな状況に陥ろうとも、彼女たちを「こちら側」に戻そうとは思わない。彼女たちは戦い、傷つき、失い、ようやく安寧の地を手に入れたのだ。家族を失うことのない場所に辿り着いた。彼女たちも、もう戻ろうとは思わないだろう。


 それは月宮もよくわかっている。その理想を思い描き、あと一歩のところで終わってしまった人物がいたからだ。あるいはすべてを託してからこそ――。


 水無月ジュンという少女は、月宮の心になにかを刻みつけた。その真相はまだわかっていないが、月宮は水無月の思い描いてきたものを彼女の代わりになそうとしている。


 日神たちに普通の暮らしを。


 魔術や世界のことなど関係のない場所で過ごして欲しい。


 そこまで月宮が水無月に入れ込んでいるのは、やはり彼女が以前の自分に似ていて、あるいは未来の可能性としての姿だからかもしれない。


 月宮の意識は、より深く沈んでいく。


 気にかかるのは、事務所員を連れ出してもいいということだ。もちろん、了承を得られることができればだが、それでも不可解である。それではペナルティが軽くなるのではないか。


 可能性としては、月宮一人では到底相手することのできない魔術師が訪れることを予期していることが考えられる。世界のバランスを敏感に察知できるほど、深い知識を持っている者。


 研究……、世界。バランス。魔術師。


 単語を並べている途中で、月宮の意識はぷつりと途切れた。

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